第二話:グラティオラ公族の団らん
大陸の南方に位置するグラティオラ公国は、芸術と自由恋愛を謳歌する貴族たちの楽園と言われている。
自由恋愛を是とする気風のもと、大陸中の貴族が集う高級リゾートやカジノが立ち並び、享楽そのものが産業として成立している。
また、豊かな交易路を背景に「大陸の財布」と称されるほどの財を成していた。
その王宮の一角、陽光が惜しみなく注ぐ私室では、絵画のように睦まじい公族の団らんが繰り広げられている。
そこに座す公女ローゼマリーは、見る者の庇護欲を掻き立てる可憐な少女だった。
腰まである柔らかな桃色の髪に銀灰色の潤んだ大きな瞳。
市井で暮らしていた頃の名残か、どこか守ってやりたくなるような危うさと、公女としての気品が混ざり合った独特の魅力を放っている。
その愛くるしい顔が向けられるだけで、公王夫妻の表情は、だらしなく緩んでしまう。
「父上は、いささかローゼを甘やかし過ぎですよ。これでは王都へ着く前に、この子がわがままの権化になってしまう」
マリーの兄公子エリックが、呆れたように肩をすくめて見せた。
だが、その言葉に棘はない。彼もまた、妹という存在を、至極当然のように慈しんでいた。
「お兄様ったら酷いわ! そんなことないわよねぇ、お父様?」
ローゼマリーは小首を傾げ、可愛らしく頬を膨らませた。
その無邪気な「おどけ」に、公王は満足げに相好を崩す。
「ああ、もちろんだとも。ローゼは我が国の誇りであり、最高級の至宝だからな。……それで、ヴァルデンライヒの建国祭へ向かう準備は整ったか?」
「ええ! ついに、あの方に……私の想い人に再会できるの。これほど嬉しいことはないわ」
ローゼマリーの瞳が、恋する乙女特有の熱を帯びて輝いた。その無垢なまでの情熱を、公妃は微笑ましそうに見守っている。
「案ずるな、ローゼ。お前の想いが成就するよう、父が全力で応援してやるからな」
力強く頷く公王の瞳の奥には、どろりとした野心の火が灯っていた。
もし愛娘をヴァルデンライヒ王国の王弟――あの強大な騎士団長へ嫁がせることができれば。
大陸全土の流れすら、影から動かせる――そんな未来も、決して遠くはない。
「だがローゼ。あの王弟は、現在婚約者に入れ込んでいるという噂だ。あまり焦って無理をしてはいけないぞ」
エリックが釘を刺すように言ったが、その視線の奥にある思惑は、公王とよく似ていた。
大国ヴァルデンライヒとの縁戚関係。それは公国にとって、何物にも代えがたい最強の盾であり、未来への投資となる。
「お兄様ったら、また意地悪を言うんだから! そんなこと、わかっているわよ」
ぷいっと横を向いてむくれるローゼマリー。その仕草すらも、公国の未来が約束されたかのように、夫妻の目には映っていた。
金に飽かせた贅の限りを尽くした部屋の中で、彼らは高らかに笑い合う。
*
王宮の一角に与えられた公女の私室は、親の愛情がそのまま形になったかのように、惜しみなく贅が尽くされていた。
床には厚く柔らかな毛皮が敷き詰められ、壁から天井にかけては精緻な金細工が施されている。
窓辺に掛けられた重いカーテンは外の光をやわらかく遮り、室内をどこか夢の中のような空間にしていた。
その中心で、ローゼマリーはドレッサーの前に腰かけている。
鏡に映る自分の姿を、どこか落ち着かない面持ちで見つめながら、指先を膝の上でそわそわと遊ばせていた。
その背後では、侍女のカミラが、艶やかで柔らかな桃色の髪を丁寧に梳いている。
カミラは、侍女であると同時に、幼い頃から共に育った乳兄弟でもあった。主従という枠を越えた親しさが、その手つきのやわらかさに滲んでいる。
「ふふっ……ローゼ様、どうやらお気持ちが隠しきれておりませんね」
からかうようでいて、どこか愛おしむ響きを含んだ声だった。
鏡越しに目が合う。
ローゼマリーは、ぱっと表情を明るくし、くすぐったそうに笑った。
「カミラには隠し事なんてできないわね。だって……あの方にお会いできると思うと、どうしても落ち着かなくて」
言葉の端々に滲むのは、抑えきれない高揚だった。
胸の奥で、何かが弾むように跳ねている。期待と、不安と、そして長く積もり続けた想いが、一度に溢れ出しているかのようだった。
「はいはい。このままでは王国に着く前に体調を崩してしまいますわ」
カミラは苦笑を浮かべながらも、どこか優しくたしなめる。
「今はどうかお休みになってください。お会いするその時に、一番美しいローゼ様でいらっしゃるように」
その言葉は、侍女としての気遣いであると同時に、姉が妹を宥めるような響きを帯びていた。
ローゼマリーは小さく息をつき、胸元に手を当てる。
「……十年ぶりに、お会いできるのだもの」
その声音は、ほんの少しだけ震えていた。
「あぁ……また、苦しくなってきたわ」
きゅっと顔を寄せるその仕草は、いかにも年相応の可憐さを帯びている。
カミラは慈しむように、そっと彼女の頭を撫でた。
「ご安心ください、ローゼ様」
確信を持った響きで言葉を落とす。
「このカミラが、あなたの恋が成就するよう、お手伝いいたします」
その声音には、どこか常軌を逸した確信があった。
叶うかどうかではない。――叶えるのだ、と。
ローゼマリーは振り返り、きらきらと輝く瞳でカミラを見つめる。
「うん……ありがとう、カミラ。あなたのこと、心から信頼しているわ」
その言葉に、一片の疑いもなかった。
だからこそ、その無垢さは危うい。
やがて、ローゼマリーはゆっくりと立ち上がり、窓の方へと歩み寄る。重たいカーテンの隙間から差し込む光の向こう、遥か彼方を見つめるようにして。
視線の先にあるのは、まだ見ぬ王国。
そして――ただ一人の存在。
「……もうすぐ、会えるのね」
小さく、囁くように。
その声は、誰に聞かせるでもなく、静かに零れた。
「私の王子様」
その言葉だけが、静かな室内に甘く溶けていった。




