第十七話:加速する運命と衝撃の婚約式デビュー
### 王宮内・騎士団長執務室
窓から差し込む朝日に照らされた豪奢な執務室。
山積みの報告書に埋もれながら、ジャックはペンを走らせていたが、ふと手を止めた。
「副官」
突然の呼びかけに、部下が背筋を伸ばす。
「はい!」
「侯爵家の件はどうなった?」
「はっ。すでに王国監獄にて尋問が始まっています。夫人も拘束完了とのことです」
「よし」
短く答えながらも、ジャックの視線はどこか遠くを見ていた。
そのとき、執務室の扉が勢いよく開く。
「叔父上!」
金色の巻き毛を揺らしながら入ってきたのは、レオンハルト王太子だった。
「レオンハルトか……」
「また仕事を溜め込みすぎですよ……」
机の上の書類の山を見て、レオンハルトは顔をしかめる。
「侯爵家の後始末もありますし……」
「それよりもだ」
ジャックが声を張り上げた。
「エレナとの婚約式を早めたい!」
部屋の空気が、一瞬で凍りつく。
「はあ?」
レオンハルトが眉を吊り上げ、副官はそっと距離を取った。王族同士の衝突に巻き込まれたくないのだ。
「王族の場合、婚約式をしてから一年後でなければ結婚できないだろう?」
ジャックの目が異様なほど輝く。
「つまり、一日でも早く婚約すれば、その分早く結婚できる」
レオンハルトの顔から血の気が引いた。
「……本気ですか?」
「もちろんだ」
ジャックは立ち上がり、胸を張る。
「最近、エレナの美しさに気づく者が増えているという情報もある。
一刻も早く、正式な婚約者として認知させるべきだ」
「それって……僕のことですよね?」
レオンハルトが、あからさまに顔を歪めた。
「無論だ」
即答だった。
しばしの沈黙のあと、レオンハルトは大きく息を吐く。
「婚約式には宰相と教会の許可が必要ですが?」
「すでに手は打ってある」
ジャックが口元を歪める。
「昨晩、アルブレヒト枢機卿には根回しを済ませた」
(早すぎる……)
レオンハルトは一瞬視線を伏せ、握った拳を背に隠した。
「それでも陛下の許可が……」
「直接お願いに行く」
声が一転、真剣になる。
「エレナに対する、俺の誠実さを証明する」
そこへ侍従が駆け込んできた。
「失礼します! 陛下がお呼びです!」
ジャックの瞳が、勝利を確信したように煌めいた。
レオンハルトは天井を仰いだ。
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そのころエレナは、伯爵邸の温室で紅茶を楽しんでいた。
自分の運命が、王宮で猛烈な速度で動いていることも知らずに。
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「……なぜ?」
鏡の前で、エレナは呆然と呟いた。
月光を織り込んだような銀青のドレス。
そこに映るのは、見目だけなら“絶世”と呼ばれてもおかしくない少女――だが、本人の頭の中は大混乱だった。
(え……? こないだまで普通に過ごしてたよね……)
三日前に届いた一通の招待状。
『ローゼンバーグ伯爵家令嬢 エレナ殿
来る十日、ジャック・フォン・ヴィッテルスバッハ王弟殿下との婚約式を執り行います』
封蝋には国王陛下の紋章。
完全なる最終通告だった。
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### 婚約式当日・伯爵邸
ローゼンバーグ伯爵家のサロンは、戦場のような緊張感に包まれていた。
「髪は右分けで!」
「リボンが曲がっております!」
侍女たちの声が飛び交う。
(こんな派手なドレス、初めて……)
質素を好んできた彼女にとって、宝石と刺繍に彩られた装いは、まるで居場所を失ったように心をざわつかせた。
それでも、心を決める。
(それでも……あの人の前では、嘘のない自分でいたい)
「マリア、今日は……ジャック様のために、精一杯着飾りたいの」
「はい!」
マリアは胸を張り、侍女たちも微笑む。
「国一番の令嬢に仕上げてみせます!」
(少しは……見惚れてくれると、いいな)
その小さな期待に、胸が静かに高鳴った。
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### 大聖堂
扉が開かれ、白亜のバージンロードが光に満ちる。
中央に立つジャックは、息を飲んだ。
父伯爵に導かれ、エレナが歩いてくる。
月光のようなプラチナブロンド。
蒼と薄紫を宿した瞳。
柔らかな光をまとい、幻想のように揺れている。
ざわめきが広がる。
「……あれは誰だ?」
「……美しい」
「あれが地味だと言われていた令嬢?」
そのときエレナは、ようやくジャックの姿を正面から見た。
黒の騎士団礼服。
王族の正装でありながら、軍装の威厳を纏う漆黒。
金糸の刺繍が光を受けて静かに輝き、長身の体躯をいっそう際立たせている。
普段よりも遥かに鋭く、近寄りがたいのに――視線だけが熱い。
(……かっこいい……)
思考が止まる。
いつも強引で、距離が近くて、心臓に悪い人なのに。
王族で、騎士で、そして――自分の婚約者。
視線が合う。
その瞬間、ジャックの表情がわずかに緩む。
その視線は、逃がさないと言うように絡みつく。
(……あれ?)
胸が小さく跳ねた。
(私、こんな風に見られてた?)
俯きたい衝動を必死で堪えながら、エレナは歩みを進める。
そして――
ジャックの表情が、完全に崩れた。
儀式用の仮面が一瞬で砕け、碧眼が熱を帯びる。
「……エレナ」
あまりに小さな呟き。
だがそこに滲むのは歓喜と――隠しきれない執着。
祭壇前。
父から手を引き渡された、その瞬間。
彼は衝動的に彼女の左手を取り、口づけた。
「俺だけのものだ」
凍りつく空気。
聖職者すら言葉を失う。
落とされた低い囁きに、エレナの思考は完全に停止した。
(俺だけのもの? え? ここ大聖堂ですよね???)
聖職者は固まり、貴族たちはざわめきを飲み込み、父伯爵は遠い目をしている。
(ちょっと待って、婚約式ってこんなに圧が強かったっけ……?)
我に返ったジャックは慌てて厳粛な表情を作るが、指先は無意識にエレナの薬指を撫で続けていた。
優しく、執拗に、何度も。
(離さない……って言われてるみたい……)
胸がざわつく。
指先を離さないジャックの手の温度が、妙に現実味を帯びて伝わってくる。
(この人に、捕まった……?)
遅れて理解した瞬間、背筋にぞくりとしたものが走った。
それなのに。
嫌ではない自分が、少し怖かった。
(私、これ大丈夫なのーー!?)
誰にも聞こえない小さな心の悲鳴は、荘厳なパイプオルガンの音に綺麗にかき消された。
――そして。
こうして婚約式は、**(たぶん)つつがなく**執り行われたのである。
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### その夜・騎士団長執務室
執務室で書類に目を通すジャックのもとに、侍従が告げる。
「伯爵夫人より、『娘を溺愛しすぎないように』との伝言です」
ジャックのペンが、紙を突き破った。
「……承知した」
机の上にはすでに、
**エレナ専用の部屋割り案が山のように積まれていた。**




