番外編 第五話:国王陛下の悩み事
ヴァルデンライヒ王国。
豊かな大地と安定した政を誇るこの国を治めるのは、カリスマ国王――レオポルド・フォン・ヴィッテルスバッハである。
年齢を感じさせぬ若々しい容姿と、整った顔立ち。
その穏やかで理知的な振る舞いから、彼の治世は揺るぎないものと広く認識されていた。
だが――
そんな名君にも、近頃ひとつ、頭を悩ませる問題があった。
バァンッ――!
重厚な国王執務室の扉が、盛大な音を立てて開け放たれる。
静謐に保たれていた空気が一瞬で掻き乱され、書類の端がわずかに揺れた。
ノックもなく突入してきたのは、ひとりの男。
「兄上っ!」
可愛い弟ジャックである。
「……お前な」
机の向こうで書類に目を落としていたレオポルドは、顔を上げると同時に深いため息をついた。
「いくら兄弟とはいえ、ノックくらいしろ」
呆れを隠しもしない声だった。
「そんな暇を与えたら、兄上は逃げるでしょう?」
半眼で睨み返すジャックの言葉は、妙に確信めいている。
「チッ。今回は逃げ損ねたか」
小さく舌打ちを零す国王。
最近の弟は、どうにも扱いづらい。
「今度こそ――エレナとの結婚式を早めてください!」
食い気味に言い放たれる要求。
「無理だ!」
間髪入れず、即答だった。
「……っ」
悔しげに歯を食いしばるジャック。
その様子を見て、レオポルドは椅子に深くもたれながら、あからさまに面倒そうな顔をした。
「お前な、いい加減諦めてくれない?」
やれやれといった様子で続ける。
「王族の結婚は“国政”だ。官僚どもが予算を組み、各方面と調整し、年単位で準備を進めている。日程を変えれば、そのすべてに影響が出る」
淡々とした説明。だが、それは紛れもない事実でもある。
そして、わずかに口元を歪めた。
「……それでも強行したらどうなるか、分かるか?」
ゆっくりと視線を向ける。
「“民を困らせた”とエレナに知られたら……どう思うだろうな」
ひひ、と意地の悪い笑みが浮かぶ。
最近、義妹となるエレナとの距離を順調に縮めているレオポルドにとって、この一言は切り札だった。
「ぐっ……」
たちまち言葉を詰まらせるジャック。
大陸にその名を轟かせる英雄も、愛しい婚約者の名の前では、ひたすら弱い。
しばしの沈黙。
やがて、観念したように肩を落とした。
「……今日は、帰ります」
どこか力なく呟き、踵を返す。
その背中には、言いようのない哀愁が漂っていた。
パタン――。
今度は静かに、扉が閉じられる。
「……ふぅ」
レオポルドは大きく息を吐き、背もたれに身体を預けた。
張り詰めていた気が、ようやく抜ける。
そして、誰もいなくなった執務室で、ぽつりと本音を零した。
「……俺だって、愛しのアウグステと結婚するのに一年かかったんだぞ」
――ひと呼吸おいて、叫ぶ。
「誰がお前の思い通りにさせるかっ!」
子どもの様に小さく口をとがらせている国王陛下。
そう――ヴァルデンライヒ王家の人間は、総じて愛情が深い。
愛した相手と、すぐにでも結ばれたいと願う。
そして毎度のように、それを周囲に全力で止められる。
その積み重ねが、いつの間にか妙な“伝統”になっていた。
すなわち――
『誰もが、次の世代の結婚を簡単には許さない』
理由は極めて単純で、そして実にしょうもない。
自分が苦労したのだから、お前も苦労しろ――それだけである。
かくして王国の秩序は、今日も妙なところで保たれていた。
「ああ……胃が痛い……」
レオポルドは天井を仰ぐ。
「頭も痛くなってきた……」
こめかみを押さえながら、ふと、指先に違和感を覚えた。
「……あ、毛がまた一本抜けた」
しばしの沈黙。
――王国は、今日も平和だった。




