番外編 第六話:ひざ上のしあわせ時間
ヴァルデンライヒ王国、騎士団長執務室。
本来なら、書類の擦れる音だけが響く、静かな空間のはずだった。
だがその日は、明らかに様子が違っていた。
「これは……どういう状況ですか?」
いつも通り従者ルーカスを伴い執務室へ入った王太子レオンハルトは、思わず足を止める。視界に飛び込んできた光景が、あまりにも現実離れしていたからだ。
もそり、と小さな動き。
次いで、きゅっと何かにしがみつくような気配。
「くっ……」
騎士団長ジャックの喉から、堪えきれないような声が漏れる。嬉しさと困惑とが混ざった、妙に情けない呻きだった。
エレナが、彼の膝の上で横抱きにされている。
それだけでも異様だが、彼女は安心を探すように小さく身じろぎを繰り返し、そのたびに落ち着く位置を見つけては、きゅっとジャックの服を掴んでいた。
その仕草があまりにも無防備で、そして小動物めいていて。
「ぐうっ……」
「くっ……」
ジャックは耐えきれないという風に唸りながらも、手は決して彼女を離そうとしない。むしろ大切なものを守るように、より強く抱え込んでいた。
――エレナ嬢、小動物みたいだな。
レオンハルトは心の中で呟いた。
周囲の騎士団員たちはというと、視線を上げることすらできず、無言のまま書類へと逃げるように集中していた。気まずい空気が流れている。
そこへ侍女マリアが、小さく一礼して口を開いた。
「お嬢様は、今回の事件の後遺症で精神的に不安定になっておりまして、ジャック様のおそばにいらっしゃると落ち着かれるのです。しばらくのあいだ、ご容赦いただけますでしょうか」
「王弟殿下の方は、むしろ嬉しそうですね……」
ルーカスが抑えた声で呟く。
その観察は的を得ていた。
ジャックは、このままでもいいと本気で思っている節があった。
「叔父上のあんな顔、初めて見たな……。面白いな」
レオンハルトは、興味深そうにそう言った。
「しかし、この状態で執務に支障は出ませんか?」
ルーカスの懸念は当然だった。王宮政務の中心たる場所が、これでは落ち着くはずもない。
だがマリアは、なぜか落ち着いた声で答える。
「それは……問題ないかと思われます」
「?」
全員の頭に、同じ疑問符が浮かぶ。
そのときだった。
エレナが、執務机の上の書類へと視線を向ける。白く細い指先が、書類の一枚を示した。
「この集計、間違っていますね。それに書式が分かりにくいです。うちの伯爵領で使われている様式を取り寄せた方が良いと思います」
「なるほど。では王宮全体で統一させよう。次の議案に出す。ハインリヒ、伯爵へ連絡を入れてくれ」
ジャックは即座に応じる。すぐさま副官ハインリヒに指示を出す。
「はい、承知しました!」
ハインリヒが慌ただしく動く。
もそもそ。
エレナはなおも小さく身じろぎしながら、別の書類へ目を移した。
ジャックの胸元に寄りかかったまま、離れる気配はない。
「……騎士団の食費予算は、もう少し上げるべきです。食事と睡眠の質は、兵の戦闘力と生存率に直結しますから」
きゅっ、とジャックにしがみつく力がわずかに強まる。
「ぐっ……可愛いな。それは正論だな。次の軍議で予算案を修正しよう」
ジャックは即答し、そのまま彼女を抱き寄せる腕にさらに力を込めた。
周囲は呆然としていた。
二人の会話は、甘やかな空気を含みながらも、内容は驚くほど実務的で、しかも的確だった。
提案される改革案は次々と採用され、執務は混乱ではなく、むしろ異様な速度で進んでいく。
「え?……これ、政務が大きく動いてますよね?」
ルーカスは二人のやり取りを見ながら、青ざめた声で呟く。
政務とは、国の根幹――法整備や予算編成といった、国を動かす中枢そのものだ。
国を左右する重大な決定が、いとも簡単に決まっていく。
「むしろ、このままだととんでもない量の改革が起きます……」
目の前にあるのは、膝の上でくっついて離れない男女。
だというのに、その実態は王国の制度を次々と更新していく、異様なまでに有能な政務機構だった。
「……なんか、納得いかないんだけど」
レオンハルトのぼやきに、その場にいた全員が無言で同意する。
*
その後、王宮にはかつてない量の改革案が雪崩のように提出され、官僚たちは涙目で書類と向き合い続けることになるのだが――それはまた別の話である。




