第四十二話:公子の懇願
謁見の間には、重く沈んだ空気が満ちていた。
国王レオポルド、王弟ジャック、王太子レオンハルト、そして皇帝ヴィルヘルム――いずれも大陸の行方を握る者たちが一堂に会しているにもかかわらず、その場には威厳よりも、むしろ逃れ難い現実を突きつける冷ややかな緊張が支配していた。
非公式の会談ゆえに、王国側の家臣は一人としていない。逃げ場のない密室だった。
その中央に立たされた公子エリックは、青ざめた顔で言葉を失っていた。
「――先ずは、こちらをご覧下さい」
静かにそう告げたレオンハルトが、一通の書類を差し出す。
受け取った瞬間、紙の重みとは別の“何か”が手の中に沈み込むような感覚に、エリックの指先がわずかに震えた。
そこに記されていたのは、公王と公女がこれまで行ってきた数々の所業だった。
支援を装った施設での人体実験。
呪術の研究と、それに伴う贄の使用。
禁制とされる薬物の大規模な流入。
そして――ヴァルデンライヒ王族に対する、執拗かつ悪質な呪いの数々。
どれ一つとして、国家として許されるものではない。
いや、人としてすら踏み越えてはならない領域だった。
エリックの視線は紙の上を彷徨い、やがて止まる。
理解が追いつかない。思考が、現実を拒んでいた。
やがて、かすれるような声が漏れる。
「……こ、これは……本当に、父上とローゼが……?我が国の民を……このような、残酷なことに……」
言葉は最後まで形を成さず、空気の中に崩れ落ちた。
「侍女カミラは、呪いの維持のために相当数の生贄を使ったようですよ」
レオンハルトが淡々と補足する。
その声音には、感情を抑え込んだがゆえの冷たさが滲み、視線には明確な侮蔑が宿っていた。
「……これが、事実だとしたら……」
エリックは呟くように続ける。だが、その先の言葉は重すぎて、口の中で凍りついた。
「……本当に、許されないことだ」
ようやく絞り出されたその一言は、断罪というよりも、己の足元が崩れていくことへの恐怖に近かった。
それでも、逃げることはできない。
「どうか……ローゼと話をさせて下さい」
ゆっくりと顔を上げ、エリックは願い出る。
「何故、こんなことが出来たのか……直接、聞かなければならない」
それが、王族としての責務なのか、それとも兄としての最後の情なのか、自分でも判然としなかった。
ただひとつ確かなのは――確かめずにはいられない、ということだけだった。
「よかろう」
短く告げたのは国王レオポルドだった。
やがて扉が開き、騎士たちに連れられて一人の少女が現れる。
「お兄様っ!」
公女ローゼマリーは、姿を認めた瞬間、縋るようにエリックへと駆け寄った。
その様は、恐怖に怯える幼い子どもそのものであり、先ほどまでの記録と結びつかないほど無垢に見える。
「みんな酷いの……寄ってたかって、私を悪く言うのよ……」
涙を浮かべ、震える声で訴えるその姿に、一瞬だけ、エリックの胸が揺らぐ。
「ローゼ……」
それでも、目を逸らすことはしなかった。
「本当にお前が、施設での実験や……臓器売買に関わっていたのか?」
問いかける声は震えていた。
どうか違っていてくれ――その願いが、言葉の端々に滲む。
だが。
ローゼマリーはきょとんとした顔で首をかしげる。
「……それが、どうしたの?」
あまりにも軽く、あまりにも無邪気に。
彼女は――何でもないことのように、そう言い放った。
「っ……!」
息を詰めたのはエリックだった。
肺の奥まで冷たいものが流れ込んだように、言葉が出てこない。
「だって、不治の病が治るかもしれないのよ。そのまま死んでしまうより、ちょっとくらい見た目が変わっても良いじゃない」
ローゼマリーは、当たり前のように、淀みなく言葉を重ねていく。
そこに罪の意識は欠片もなく、ただ“善意”だけがあるかのようだった。
「それに、みんなが私の役に立ちたいって言ってくれるわ。だから、治療に失敗した子たちは再利用して資金にしたの」
嬉しそうに語るその声音は、あまりにも軽やかで――
語られている内容とかけ離れ、かえって残酷さを際立たせていた。
「……っ、呪いの実験は? おかしいと思わなかったのか、国民を生贄にするなんて!」
エリックは思わず声を荒げる。
理解させなければならない。これは間違いなのだと、誰かが線を引かなければならないと――必死に言葉を投げつける。
「カミラは、私の物語のために力を使ってくれてたの。私とジャック様の、幸せな結末のために必要だったのよ!」
ローゼマリーの瞳が、爛々と輝く。
その奥に宿るのは狂気。そして、揺るぎない“確信”だった。
「なのに、カミラをあんなに虐めるだなんて……。物語が進まなくなってしまったわ、困るわ……」
心底残念そうに肩を落とす仕草は、どこまでも無邪気で――
だからこそ、取り返しのつかない歪みを露わにしていた。
エリックは言葉を失う。
目の前にいるのは、これまで知っていた“可愛い異母妹”ではない。
同じ姿をしていながら、その内側はまるで別の何かだった。
「ねぇ、お兄様。ジャック様にご説明して差し上げて。私と結ばれるのがジャック様の幸せになるという事を……」
切なげな眼差しで、ローゼマリーはジャックを見つめる。
その願いは真剣で、疑いを知らない。だが――それはあまりにも一方的で、世界そのものを歪める願いだった。
エリックは、ゆっくりと振り返る。
そして次の瞬間、膝から崩れるように床へと跪いた。
「妹を放置していた俺や父上の責任ですっ……!」
絞り出すような声。
己の罪を認めることでしか、この場に立っていられなかった。
「王族はどうなっても良い、妹も好きにしてくれっ。属国になっても構わない――」
床に額が触れそうなほど深く頭を垂れ、必死に言葉を重ねる。
「どうかっ……グラティオラの民たちの命だけは、助けてくれないか……」
掠れた声が震える。
それは王族としてではなく、一人の人間としての、心からの懇願だった。
「頼む……」
静寂が落ちる。
だが――
その願いを、ジャックは無表情のまま聞いていた。
「何故?」
わずかに首を傾げ、問いを投げる。
まるで、本当に理解できないと言わんばかりの声音だった。
「……っ?」
エリックは顔を上げる。
そこにあるのは、交渉ではない。ただの“断絶”だった。
ジャックは、ローゼマリーへと冷ややかな一瞥を向ける。
「その女は……お前の国は、俺の世界を壊そうとした」
低く、感情の削ぎ落とされた声。
「エレナを壊そうとした」
その一言だけが、わずかに重く沈む。
「ならば、同じくそちらの世界を壊すだけだ」
告げられたのは、あまりにも単純で、絶対的な理だった。
そこに怒りも憎しみもない。ただ、覆らぬ結論だけがある。
その瞳には、何の感情も宿っていなかった。
既に決めたことを、ただ実行する者の目だった。
エリックは理解する。
この男には、もう届かない。言葉も、理も、懇願も――何一つとして。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「そ、そんな……我が国は消えるのか……ローゼは……なんということを……」
視界が滲む。声が震える。
「すまない……皆、すまないっ……!」
誰に向けたものかも分からない謝罪を、ただ繰り返す。
守るべき民の顔が、次々と脳裏に浮かんでは消えていく。
やがて、押し殺しきれなかった嗚咽が漏れた。
謁見の間には、エリックの慟哭だけが残った。




