表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
111/134

第三十五話:奇跡のない世界

エレナの寝室は、静寂に満ちていた。


窓から差し込む淡い光が、白い寝台の上に横たわる少女を、どこか現実から切り離された存在のように照らし出している。


ヴィルヘルムの禁術によって、エレナは仮死状態に置かれていた。


陶磁器のように白い肌。

指先に至るまで整いきった造形。

艶やかな白金の髪が、枕の上に静かに広がっている。


その姿はあまりにも美しく――

そして、あまりにも静かだった。


そこには、もはや“生”の気配がない。


ただ精巧に作られた人形のように、動かず、息づかず、そこに在るだけだった。


その傍らに、ジャックはいる。


時間が許す限り、彼はここに足を運ぶ。

誰に言われるでもなく、ただ当然のことのように。


そしていつも、同じように彼女を見つめるのだ。


壊れ物に触れるかのような手つきで、エレナの髪をそっと撫でる。

指の間をすり抜けていくその感触を、確かめるように。


やがて――ふと、何かを思い出したように口を開いた。


「……お前は以前、魂に記憶が宿ると話していたな」


答えが返るはずもない問い。

それでも、彼は言葉を止めない。


撫でる手もまた、止まらなかった。


「ならば……俺の魂には、お前の記憶が残るだろう」


理屈ではない。

疑う余地のない確信として、それはそこにあった。


わずかに口元が歪む。


「来世でも必ず、お前を捕まえる」


どこか意地の悪い響き。

だがその奥にあるのは、執着にも似た、揺るぎない想いだった。


「――俺からは、逃げられないぞ」


ほんの僅かに、笑う。


だが、その笑みは長くは続かない。


「だから……」


次の言葉が、喉の奥で引っかかる。


何かを押し出そうとして、うまく形にならない。


声が、わずかに震えた。


「……逝くな、エレナ」


ただ、どうしようもなく零れ落ちた願いだった。


彼女が最後に――

泣きながら、それでも笑って、

「……あいしてる」と伝えてくれたあの瞬間が、


何度も、何度も、頭の中で繰り返される。


振り払おうとしても消えない。

焼き付いて離れない。


「……俺も、愛しているよ」


ようやく掬い上げるように、言葉を落とす。


そっと頬に触れ――そのまま、唇を重ねた。


温もりは、ない。

返されるものも、ない。


あるのは、ただ――静寂だけ。


やがて。


ジャックの頬を伝った一筋の涙が、エレナの頬へと落ちる。


それでも。


物語のような奇跡は、起きない。


彼女の瞳が開くことは、ついに――なかった。



扉が、音もなく開く。


静寂に満ちた寝室へ、ヴィルヘルムが足を踏み入れた。

重い気配を伴いながらも、その歩みは不思議なほど静かで、空気を乱すことすらない。


彼はゆっくりと歩み寄り、ベッドの傍――ジャックの隣に立つ。


そして、視線を落とした。


そこに横たわるエレナを、どこか痛ましげに見つめる。


その表情には、わずかに苦みが滲んでいた。


しばしの沈黙。


やがて、ジャックがぽつりと口を開く。


「……尋問の準備が整ったか」


感情を削ぎ落とした声。

怒りも、悲しみも、表には出ていない。


ただ、事実だけを確認するような響き。


「ああ」


ヴィルヘルムは短く答える。


「“呪詛返し”が成れば、エレナに掛けられた呪縛は解けるはずだ」


静かに語りながら、その視線はエレナから離れない。


「今回の呪いは、一度きりの術ではない。術者が魔力を流し続け、幾重にも維持している“持続型”だ」


わずかに目を細める。


「……あの女は、多数の対象に呪いを張り巡らせ、それらすべてを自らの制御下に置いている」


低く、断じるように。


「ならば――その制御そのものを破壊する」


一拍。


「心身を追い詰め、魔力の均衡を崩せばいい。制御を失った魔力は暴走し、術式の維持どころではなくなる」


淡々とした声音。

だがその内容は、あまりにも苛烈だった。


「結果、張り巡らされた呪いはすべて術者へ返る。……エレナから生命力を奪い続けている術も、例外ではない」


そして、わずかに視線を伏せる。


「――仮死状態にしたのは、その間に命が尽きぬよう、流出を止めるためだ」


短く息を吐く。


「呪いが消えれば、流出も止まる。理論上は、それで救える」


わずかな間。


「……ただし」


声が、ほんの僅かに重くなる。


「術者の魔力が完全に崩壊する以上、その代償は――計り知れん」


室内の空気が、静かに冷える。


「…………」


ジャックは何も言わない。


ただ、聞いている。


そこに迷いはない。

代償がどれほどであろうと、選択は一つしか存在しないのだから。


「何の問題もない」


短く、言い切る。


「すぐに取り掛かる」


それだけを告げ、ジャックは静かに立ち上がった。


その顔には、揺るがぬ決意だけが宿っている。


去り際、エレナの傍へと身を寄せる。


そっと手を伸ばし、その頭を撫でた。

先ほどと同じ、壊れ物に触れるような手つきで。


「……すぐに終わらせてくる」


低く、穏やかな声。


「いい子で待っていろ」


命令ではない。

約束に近い響きだった。


やがて手を離し、振り返ることなく歩き出す。


ヴィルヘルムもまた、最後にもう一度だけエレナへ視線を落とした。


その眼差しには、わずかな憐憫と――そして、確かな覚悟。


二人は言葉を交わすことなく、寝室を後にした。


残されたのは、変わらぬ静寂と。


動かぬまま横たわる、少女の姿だけだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ