第三十五話:奇跡のない世界
エレナの寝室は、静寂に満ちていた。
窓から差し込む淡い光が、白い寝台の上に横たわる少女を、どこか現実から切り離された存在のように照らし出している。
ヴィルヘルムの禁術によって、エレナは仮死状態に置かれていた。
陶磁器のように白い肌。
指先に至るまで整いきった造形。
艶やかな白金の髪が、枕の上に静かに広がっている。
その姿はあまりにも美しく――
そして、あまりにも静かだった。
そこには、もはや“生”の気配がない。
ただ精巧に作られた人形のように、動かず、息づかず、そこに在るだけだった。
その傍らに、ジャックはいる。
時間が許す限り、彼はここに足を運ぶ。
誰に言われるでもなく、ただ当然のことのように。
そしていつも、同じように彼女を見つめるのだ。
壊れ物に触れるかのような手つきで、エレナの髪をそっと撫でる。
指の間をすり抜けていくその感触を、確かめるように。
やがて――ふと、何かを思い出したように口を開いた。
「……お前は以前、魂に記憶が宿ると話していたな」
答えが返るはずもない問い。
それでも、彼は言葉を止めない。
撫でる手もまた、止まらなかった。
「ならば……俺の魂には、お前の記憶が残るだろう」
理屈ではない。
疑う余地のない確信として、それはそこにあった。
わずかに口元が歪む。
「来世でも必ず、お前を捕まえる」
どこか意地の悪い響き。
だがその奥にあるのは、執着にも似た、揺るぎない想いだった。
「――俺からは、逃げられないぞ」
ほんの僅かに、笑う。
だが、その笑みは長くは続かない。
「だから……」
次の言葉が、喉の奥で引っかかる。
何かを押し出そうとして、うまく形にならない。
声が、わずかに震えた。
「……逝くな、エレナ」
ただ、どうしようもなく零れ落ちた願いだった。
彼女が最後に――
泣きながら、それでも笑って、
「……あいしてる」と伝えてくれたあの瞬間が、
何度も、何度も、頭の中で繰り返される。
振り払おうとしても消えない。
焼き付いて離れない。
「……俺も、愛しているよ」
ようやく掬い上げるように、言葉を落とす。
そっと頬に触れ――そのまま、唇を重ねた。
温もりは、ない。
返されるものも、ない。
あるのは、ただ――静寂だけ。
やがて。
ジャックの頬を伝った一筋の涙が、エレナの頬へと落ちる。
それでも。
物語のような奇跡は、起きない。
彼女の瞳が開くことは、ついに――なかった。
*
扉が、音もなく開く。
静寂に満ちた寝室へ、ヴィルヘルムが足を踏み入れた。
重い気配を伴いながらも、その歩みは不思議なほど静かで、空気を乱すことすらない。
彼はゆっくりと歩み寄り、ベッドの傍――ジャックの隣に立つ。
そして、視線を落とした。
そこに横たわるエレナを、どこか痛ましげに見つめる。
その表情には、わずかに苦みが滲んでいた。
しばしの沈黙。
やがて、ジャックがぽつりと口を開く。
「……尋問の準備が整ったか」
感情を削ぎ落とした声。
怒りも、悲しみも、表には出ていない。
ただ、事実だけを確認するような響き。
「ああ」
ヴィルヘルムは短く答える。
「“呪詛返し”が成れば、エレナに掛けられた呪縛は解けるはずだ」
静かに語りながら、その視線はエレナから離れない。
「今回の呪いは、一度きりの術ではない。術者が魔力を流し続け、幾重にも維持している“持続型”だ」
わずかに目を細める。
「……あの女は、多数の対象に呪いを張り巡らせ、それらすべてを自らの制御下に置いている」
低く、断じるように。
「ならば――その制御そのものを破壊する」
一拍。
「心身を追い詰め、魔力の均衡を崩せばいい。制御を失った魔力は暴走し、術式の維持どころではなくなる」
淡々とした声音。
だがその内容は、あまりにも苛烈だった。
「結果、張り巡らされた呪いはすべて術者へ返る。……エレナから生命力を奪い続けている術も、例外ではない」
そして、わずかに視線を伏せる。
「――仮死状態にしたのは、その間に命が尽きぬよう、流出を止めるためだ」
短く息を吐く。
「呪いが消えれば、流出も止まる。理論上は、それで救える」
わずかな間。
「……ただし」
声が、ほんの僅かに重くなる。
「術者の魔力が完全に崩壊する以上、その代償は――計り知れん」
室内の空気が、静かに冷える。
「…………」
ジャックは何も言わない。
ただ、聞いている。
そこに迷いはない。
代償がどれほどであろうと、選択は一つしか存在しないのだから。
「何の問題もない」
短く、言い切る。
「すぐに取り掛かる」
それだけを告げ、ジャックは静かに立ち上がった。
その顔には、揺るがぬ決意だけが宿っている。
去り際、エレナの傍へと身を寄せる。
そっと手を伸ばし、その頭を撫でた。
先ほどと同じ、壊れ物に触れるような手つきで。
「……すぐに終わらせてくる」
低く、穏やかな声。
「いい子で待っていろ」
命令ではない。
約束に近い響きだった。
やがて手を離し、振り返ることなく歩き出す。
ヴィルヘルムもまた、最後にもう一度だけエレナへ視線を落とした。
その眼差しには、わずかな憐憫と――そして、確かな覚悟。
二人は言葉を交わすことなく、寝室を後にした。
残されたのは、変わらぬ静寂と。
動かぬまま横たわる、少女の姿だけだった。




