第三十三話:静かなる謀略
王太子レオンハルトは、アイーゼ自由都市連合の迎賓館に足を踏み入れる。
重厚な石造りの外観とは裏腹に、内部は磨き上げられた大理石と柔らかな光に満ちていた。
だが、国と国、思惑と思惑が交錯するこの場所には、常に見えない緊張が張り詰めていた。
今回の訪問は、グラティオラ公国との関係維持を名目とした会談――その相手は、公女付き侍女カミラ。
両国を対等に扱うという建前のもと、会談の場はアイーゼに設けられた。
だがその裏にある意図を、レオンハルトは当然のように理解している。ここは中立ではない。均衡を装った、極めて不安定な綱渡りの場だ。
案内役を務めるのは、アイーゼ最高議長の息子――カイル。
まだ若い彼は、緊張を隠しきれない面持ちで先導していたが、その足取りは決して乱れてはいなかった。むしろ、内に秘めた覚悟のようなものが、かすかにその背筋に表れている。
「既にカミラ様はお待ちです」
扉の前で立ち止まり、カイルは丁寧にそう告げた。
「ありがとう。今回は無理を言って悪かったね」
穏やかな声で労いをかけるレオンハルト。その声音には、王太子としての余裕と、相手の緊張を和らげるための配慮が滲んでいる。
「いえ……」
一瞬、言葉を選ぶように間を置き――カイルはゆっくりと顔を上げた。
「アイーゼは、公国に侵食されかけていました。ここで動かなければ……未来はありません」
その瞳には、迷いの色はなかった。
「我が国は……王国と共に行きます」
静かでありながら、確かな決意を宿した声音。
それを聞いたレオンハルトは、表情こそ崩さなかったものの、内心でわずかに目を細めた。
(……へぇ。ずいぶん変わったな)
かつては頼りなさを感じさせた少年が、今は自らの意思で立とうとしている。その変化を、ほんの少しだけ見直す。
「心強いよ」
短くそう返し、レオンハルトは扉へと手をかけた。
*
貴賓室の中は、外の静謐さとはまた異なる、密やかな華やぎに満ちていた。
厚手の絨毯、繊細な装飾が施された調度品、そして控えめながらも計算された照明――そのすべてが、訪れる者に“特別な場”であることを意識させる。
その中央、ゆったりとしたソファに腰掛けていたのが――カミラだった。
扉が開く気配に気づき、彼女は静かに立ち上がる。
流れるような所作。無駄のない動き。まるで舞台の上で振る舞う演者のように、完璧に整えられた“美”。
「ご無沙汰しております、レオンハルト様、カイル様。この度はお招き下さり、誠にありがとうございます」
黒髪は艶やかに揺れ、濡れたような瞳は柔らかな光を宿している。その声音は甘やかで、耳に心地よく響く。
だが――
(……やっぱり、苦手だ)
カイルは内心で小さく息を吐いた。
美しい。間違いなく、誰もが目を奪われるほどの美女だ。だが、その整いすぎた所作や、感情の奥が見えない微笑に、どうしても拭えない違和感がある。
(レオンハルト様はすごいな……全く動じてない)
ちらりと隣を見れば、レオンハルトはいつも通りの穏やかな微笑――いわゆる“王太子の仮面”を崩すことなく、自然体で応じていた。
「こちらこそ、急な申し出に応じていただき感謝するよ」
柔らかく、それでいて一切の隙を見せない声音。
形式的な挨拶が交わされた後、カイルは軽く一礼し、静かにその場を辞した。ここから先は、自分が踏み込む領域ではないと理解している。
扉が閉まる。
残されたのは、二人きりの空間。
「……レオンハルト様からお誘い頂けるなんて、夢のようですわ」
頬をわずかに染め、嬉しそうに微笑むカミラ。その仕草は愛らしくもあり、同時にどこか“作られたもの”のようにも見える。
だがレオンハルトは、そのどちらにも興味を示さなかった。
(……やはり、この女で間違いない)
確信に近い感覚が、胸の奥で静かに形を成していく。
エレナを襲った出来事、その裏にある悪意。その糸を辿れば、必ずこの女に行き着く――そんな直感があった。
(絶対に、逃がさない)
表情には出さず、内心で冷たく言い切る。
(必ずボロを出させる。そして――)
わずかに細めた視線の奥に、確かな意志が宿る。
(エレナ嬢を、救う)
互いに腹の底は一切見せないまま、交わされるのは穏やかな言葉と、隙のない微笑。
公国屈指の呪術士と王国随一の魔道士――
その水面下の戦いが、静かに幕を開ける。




