第三十二話:王都帰還
ヴァルデンライヒ王国――王都。
重厚な城門をくぐり抜けた一行は、そのまま王宮へと帰還した。
先頭に立つのは、王弟ジャック。
その隣には、魔道皇帝ヴィルヘルム。
そして――
そっと優しく、ジャックに抱えられている一人の少女。
その姿を認めた瞬間。
王太子レオンハルトは、言葉を失った。
「……叔父上、それは……」
喉の奥で言葉が絡まり、うまく形にならない。
彼の視線の先にいるのは、エレナ。
だが、それは彼の知る彼女ではなかった。
その身体は、まるで精巧に作られた人形のように静まり返っていた。
生気が――まるで、感じられない。
「……いったい、何が……」
問いを続けようとした、その言葉を遮るように。
「説明は後だ」
ジャックが短く告げる。
声音は低く、抑えられている。
だがそこに含まれるものは、決して冷静さだけではなかった。
「先にエレナを寝室へ運ぶ」
有無を言わせぬ口調だった。
レオンハルトは、ただ頷くしかない。
*
エレナを寝室へと運びこみ、必要最低限の手配を終えた後。
三人は、そのまま王太子執務室へと向かった。
扉が開かれた瞬間――
ヴィルヘルムの足が、わずかに止まる。
その視線が、部屋の奥へと向けられた。
「……レオンハルト、してやられたか」
低く吐き捨てるような声音。
眉間には、深い皺が刻まれていた。
「――だが、気付けぬのも無理はない。かすかな魔力の残滓しか感じられぬ」
レオンハルトが戸惑う間もなく、ヴィルヘルムは一歩踏み出し、その視線の先を鋭く睨みつけた。
そして――
空間を払うように、軽く手を振る。
その瞬間だった。
部屋の隅。
本来、何もないはずの空間が歪み――
ぶわり、と。
黒い靄が、噴き出すように現れた。
「なっ……!?」
思わず声を上げるレオンハルト。
それは視覚だけではない。
ぞわりと肌を這うような、不快な気配。
息を吸うことすらためらわれるような、明確な“悪意”を伴った魔の残滓。
「呪いの種だ」
ヴィルヘルムは淡々と言い切る。
その表情には、わずかな苛立ちが滲んでいた。
「……王宮全域を、しらみ潰しに調べる必要があるな」
その言葉は、現状の深刻さを雄弁に物語っていた。
王宮の内部にまで、すでに呪いは侵入している。
「レオンハルト」
ジャックが口を開く。
その声音は、驚くほど静かだった。
「魔塔の人間を総動員しろ」
命令は簡潔で、無駄がない。
だが、それがどれほど重大な事態を意味しているかは明白だった。
「……承知しました」
即答するレオンハルト。
それでもなお、押し込めきれない疑問が胸の内に渦巻く。
「ですが……何が起きているのですか」
その問いに。
ジャックとヴィルヘルムは、これまでの経緯を簡潔に語った。
エレナの誘拐。
呪いの仕組み。
そして――彼女の選択。
語られる内容は、どれも常軌を逸していた。
「……何ということを……っ」
レオンハルトの拳が、強く握られる。
怒りが、震えとなって滲み出る。
守るべき存在が、ここまで踏みにじられた。
その事実が、許せなかった。
「エレナの首には呪いの魔道具がはめられていた。恐らく、真実を告げられぬ様に」
執拗な悪意を感じる一同。
「エレナを救うには」
ヴィルヘルムが、静かに言葉を継ぐ。
「呪いの大元を断つ必要がある」
その視線は、どこか遠くを見据えていた。
「おそらくは、公女付きの侍女の仕業だろう。だが――」
わずかに言葉を区切る。
「決定的な証拠が、まだない」
悔しさを押し殺すような声音だった。
力があっても、証明できなければ動けない。
その歯痒さが、滲んでいる。
その沈黙を破ったのは、レオンハルトだった。
一瞬だけ目を伏せてから、顔を上げた。
「……僕が、囮になります」
静かだが、はっきりとした声。
二人の視線が、一斉に向けられる。
「僕を餌にすれば、必ず動くはずです」
その瞳には、迷いがなかった。
覚悟が、宿っている。
「ふむ……悪くない案だな」
ヴィルヘルムが、わずかに口元を歪める。
「実行に移せば、痕跡は確実に掴めるだろう」
冷静な評価だった。
「必ず……見つけます」
レオンハルトは、強く言い切る。
その決意は揺るがない。
「頼む」
短く応じたジャック。
だが――
その表情には、何の感情も浮かんでいなかった。
怒りも、悲しみも。
何もかもを押し殺した、無機質な静けさ。
それが、かえって異様だった。
レオンハルトは、思わず息を呑む。
(……叔父上が、こんな顔をするなんて……)
これまで一度も見たことのない空気。
その静けさの奥に潜むものを想像し、背筋に冷たいものが走る。
それは、嵐の前の凪のようで。
あるいは――
すでに壊れてしまった何かの、名残のようでもあった。




