第二十九話:絶望の果てに
ああ――。
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちていく。
(……発動してしまった)
目の前で苦しむジャックの姿が、その現実を何よりも雄弁に物語っていた。
分かっていたはずだった。
触れれば終わると、あのとき確かに告げられていたのだから。
それでも――ほんの一瞬でも、触れられたことに安堵してしまった自分がいた。
(……もっと、一緒にいたかったな)
ぽつり、と心の奥で零れる。
結婚して、一緒に暮らして。
他愛もないことで笑い合いながら、穏やかな日々を重ねていく。
子どもが生まれて、賑やかな食卓を囲んで。
忙しない毎日の中で、それでも幸せだと、きっと何度も思えたはずなのに。
そんな未来は、もう――どこにもない。
「……っ」
喉の奥が、きゅっと締めつけられる。
(……笑え、エレナ)
心の中で、自分に言い聞かせる。
最後くらいは。
あの人が好きだと言ってくれた、あの笑顔を――見せたい。
けれど。
(だめ……)
視界が滲む。
こらえようとすればするほど、涙は溢れてしまう。
(顔が、見られなくなる……)
そのとき。
ジャックが、ゆっくりと顔を上げた。
苦痛に歪みながらも、まっすぐにエレナを見つめる。
視線が、合う。
その瞳に宿るものを、エレナははっきりと読み取ってしまった。
――心配している。
こんな状況でさえ、自分のことを。
「……どうして……」
胸が、痛む。
優しくて。
不器用で。
誰よりもまっすぐに想ってくれる、大好きな人。
(こんな時まで……私のことを……)
唇が、かすかに震える。
ごめんなさい。
心の中で、何度も繰り返す。
(こんなことをしたら、きっと怒るよね)
分かっている。
きっと、止めようとする。
きっと、そんな選択は認めないと、そう言う人だから。
それでも――
(あなたが苦しむのは、嫌なの)
その想いだけは、どうしても譲れなかった。
ゆっくりと、小瓶を握りしめる。
ガラス越しに揺れる液体が、やけに冷たく見えた。
震える指先。
それでも、逃げることはしない。
エレナは、息を吸う。
そして――
精一杯の想いを、言葉に乗せた。
「……あいしてる」
それは、あまりにも静かな告白だった。
だが、その一言に込められた想いは、何よりも重く、深い。
ほんの一瞬だけ、息を止めて。
迷いなく、小瓶の中身を飲み干す。
喉を通る感覚が、やけに鮮明だった。
――これで、いい。
そう思えた。
視界が、ゆっくりと揺らぐ。
力が抜けていく。
それでも、最後まで。
エレナは、微笑もうとした。
あの人が好きだと言ってくれた、その笑顔で――
彼を見つめながら。
やがて、意識は静かに沈んでいく。
光が、遠ざかる。
それでも、心のどこかで――願う。
どうか、幸せでいてほしいと。
*
エレナの意識が、ゆっくりと遠のいていく。
そのとき――
幼い少女の、楽しげな声が響いた気がした。
『こうして、おひめさまのあいで おうじさまの のろいは、とけました。』
それはまるで、どこかで聞いた物語のように。




