第二十八話:触れた代償
「もうすぐ嬢ちゃんのヒーローが来るぞ。もうちょい待ってろ……」
リヒトは、そう言ってエレナを安心させようとした。
軽口のようでいて、その実、彼なりの精一杯の気遣いである。
だが――その言葉を聞いたエレナの反応は、あまりにも不自然だった。
びくり、と肩が震える。
安堵ではない。
むしろ、はっきりとした“怯え”だった。
「……っ」
視線が揺れ、喉の奥で言葉が絡みつくように詰まる。
その様子に、リヒトの表情がわずかに曇る。
「……?」
同時に、マックスも違和感を覚えたのか、僅かに目を細めた。
そして――
「エレナ!」
通路の奥から響いたその声が、場の緊張を一変させた。
ジャックだった。
真っ直ぐにエレナのもとへ向かう。
「成程……俺以外だと手こずるかもしれんな」
ヴィルヘルムが淡々と呟きながら、エレナの周囲に施された結界魔術へと干渉する。
複雑に絡み合った術式が、彼の手によって強引に解きほぐされていく。
抵抗するように揺らいでいた魔力が、やがて力を失い――結界は解かれた。
その瞬間、ジャックは躊躇いなく踏み込む。
「エレナ――」
呼びかける声には、ようやく辿り着いた安堵が滲んでいた。
だが。
その姿を見たエレナは――
一歩、後ずさった。
さらに一歩。
まるで、目の前の存在から逃げるように。
「……エレナ?」
困惑が、声に混じる。
なぜ逃げる。
なぜ、そんな目をする。
一抹の不安を覚えながらも、それでもジャックは歩み寄る。
「どうした……もう大丈夫だ」
優しく、慎重に声を落とす。
「怖かったな……」
そのまま、そっと手を伸ばす。
攫われた衝撃で混乱しているのだと、そう思って疑わなかった。
触れれば、きっと落ち着く。
これまで何度もそうしてきたように。
そして――
エレナに触れた、その刹那だった。
ジャックの全身に――黒い魔法陣が浮かび上がる。
それは一つや二つではない。
無数の紋様が、皮膚の上を這うように広がり、脈打つ。
「――っ……!」
苦悶が、喉の奥から漏れる。
まるで内側から侵食されるような痛みに、ジャックの身体が大きく揺らぐ。
「主様!?」
マックスの声が鋭く響く。
「おいっ、どうした!?」
リヒトもまた、即座に駆け寄ろうとするが、その異様な光景に足を止めざるを得ない。
ジャックの身体を覆う魔法陣は、生き物のように蠢いていた。
「……ちっ」
ヴィルヘルムが一歩前に出る。
「――状態解除」
短く詠唱し、魔術を叩き込む。
だが。
弾かれた。
まるで存在そのものを拒絶するかのように。
「俺の魔術が……効かないだと……?」
初めて、ヴィルヘルムの声に明確な驚きが混じる。
「これは……」
その言葉の続きを、誰も口にできない。
エレナは、その場に立ち尽くしていた。
震えが、止まらない。
(――ああ)
理解してしまう。
ついに。
恐れていたことが、現実になった。
(ジャック様が……)
唇がかすかに震える。
(呪われてしまった――)
*
記憶が、鮮明に蘇る。
「実は、ジャック様には呪いがかかっております」
あのときの、カミラの声。
どこまでも愉しげで、残酷な響き。
「この時のために、少しずつ『呪いの種』を蒔いて参りました」
目を見開いたまま、言葉を失った自分。
「普通に過ごす分には問題ありませんよ」
くすり、と笑う。
「ですが――エレナ様と触れ合った瞬間、呪いが発動します」
喉が、締め付けられる。
息が、うまくできない。
「そのまま放置したら……英雄といえども、命を落としますねぇ」
軽く言ってのけるその声音に、命の重みは一切含まれていなかった。
「このために、生け贄をたっぷり使いました」
頬に手を当て、苦労話でもするかのように微笑む。
そして。
「ですが、エレナ様がこちらの薬をお飲みになれば――ジャック様をお救いできます」
差し出された、小さな小瓶。
震える手で、それを見つめた。
「……私は、どうなるの」
分かっていた。
それでも、聞かずにはいられなかった。
カミラは一拍、間を置いて――
「はい、もちろん」
にたり、と嗤う。
「死にます」
その言葉は、あまりにもあっさりと告げられた。
身体の奥が、冷え切る。
震えが止まらない。
「あぁ、なんて悲しい物語なのかしら!」
そのとき――別の声が割り込んだ。
ローゼマリーだった。
大げさに手を組み、涙を滲ませながら――まるで舞台の上の演者のように語り始める。
「命をかけて自分を救った婚約者」
くるり、と回る。
その動きは優雅で、どこか狂気じみていた。
「その婚約者を失い、悲しみにくれる王子様に寄り添う主人公」
さらに一歩、踏み出す。
「何度でも、何度でも励まし、寄り添い、愛を伝える――運命の公女」
両手を広げ、恍惚とした笑みを浮かべる。
「わたしが、物語の主人公なの」
その瞳は、現実を見ていない。
ただ、自らが描いた“物語”だけを見つめている。
そして――
片腕を上げる。
ゆっくりと、エレナを指し示す。
「あなたは要らないわ」
その声は、嬉し気でやけに澄んでいた。
「あなたの役割は――終わりなの」




