第三十話:命の対価
エレナの身体が崩れ落ちた、その瞬間だった。
ジャックを蝕んでいた呪術が、音もなく引いていく。
肌にまとわりついていた重苦しい圧が消え、空気がわずかに軽くなる。だが、その変化を喜ぶ者は、この場には誰一人としていなかった。
「……っ」
ヴィルヘルムは即座にエレナのもとへ膝をつき、治癒魔術を展開する。
高度に編まれた術式が幾重にも重なり、淡い光となって彼女の身体を包み込む――はずだった。
だが。
――効かない。
まるで拒絶するように、魔術そのものが霧散する。
「そんな、馬鹿な……これは、まさか――」
わずかに見開かれた瞳に、隠しきれない動揺が滲む。
腕の中のエレナは、今にもその呼吸を手放してしまいそうなほどにか細く、生命の気配が急速に薄れていくのが分かった。
「チッ……最後の手段だ」
低く舌打ちをひとつ。
「耐えろ、エレナ」
次の瞬間、ヴィルヘルムの周囲の魔力が質を変える。
常の魔術とは明らかに異なる、禁忌の領域に触れるそれ。
彼は躊躇わなかった。
エレナの身体に手をかざし、静かに、しかし確実に術を発動させる
時間そのものへ干渉し、生命活動を停止させる――仮死へと封じる禁術。
次の瞬間。
彼女の呼吸が、止まった。
微かに上下していた胸が、ぴたりと静止し、その身体はまるで精巧に作られた人形のように、完全な静寂の中へ閉ざされた。
「時間に干渉する魔術……だと……?」
呆然と呟くリヒト。
「伝承の中の話かと思っていましたが……」
マックスの声にも、隠しきれない驚愕が滲む。
常識の外にある術。
それを行使した代償は小さくない。
「…………ぐっ」
ヴィルヘルムの身体が、わずかに揺らぐ。次の瞬間、口元から血が零れた。
それでも彼は崩れない。
ただ、深く息を吐き、エレナを見つめる。
一方で。
呪いから解放されたジャックは、よろめきながらも立ち上がると、まるで引き寄せられるようにエレナのもとへと歩み寄った。
その足取りは重く、どこか現実を踏みしめていないかのように覚束ない。
そして――
彼女を、見た。
「……いったい、何が起きている」
掠れた声。
理解が追いついていない。
ただ、目の前の現実だけが、冷たく突きつけられている。
ヴィルヘルムは、そんなジャックを一瞥した。
珍しく、その表情には苦みが浮かんでいる。
「おそらく……お前に呪いがかけられていた」
静かに、だが確信をもって告げる。
「しかも、相当に狡猾なものだ」
「……俺に?」
思い当たる節など、ない。
だがヴィルヘルムは構わず続ける。
「お前の内に“種”を植え付けたのだろう。普段は気づかぬほど弱く、しかし確実に増殖する類の呪いだ」
そして、わずかに眉間に皺を寄せる。
「エレナと触れ合うことで、芽吹くよう仕組まれていた」
「……ッ」
酷な内容に息を詰めるジャック。
空気が、重く沈む。
「一気に活性化し、命を奪う段階へと移行する……そういう類の呪いだ」
その場にいた誰もが、言葉を失った。
あまりにも悪質で、あまりにも冷酷な構造。
「そして、呪いの解除は――」
ヴィルヘルムは一瞬だけ言葉を止めた。
奥歯を噛み締める。
込み上げる感情を押し殺すように。
「……エレナの生命力だ」
その一言が、静かに落ちる。
空気が凍りついた。
ジャックの瞳が、大きく見開かれる。
ヴィルヘルムの視線が、エレナの首の魔道具を捉えた。
「魔道具で真実を話せない様にされたのだろう……。辛かったな、エレナ」
悲し気にそう呟くと、魔力を込めて魔道具を壊した。
理解したくない現実が、逃げ場を与えられぬまま突きつけられる。
マックスも、リヒトも、何も言えなかった。
ただ、その重さだけが、場を満たしていく。
やがて。
ジャックは、ゆっくりとエレナを抱き上げた。
壊れ物を扱うように、慎重に。
「……エレナ、帰ろう」
穏やかな声だった。
「ここは寒いだろう。皆が待っている」
まるで、ただ眠っているだけの彼女に語りかけるように。
その視線は、一度も逸らされない。
「マックス、リヒト」
低く、しかしはっきりと命じる。
「この施設で証拠となりそうなものを、すべて回収しろ」
二人は、無言で頷いた。
背を向け、動き出す。
その間も。
ジャックは、エレナから目を離さない。
腕の中の温もりが、今にも消えてしまいそうで。
それを、繋ぎ止めるように。
やがて――
誰にも聞こえぬほどの小さな声で、彼は何かを呟いた。
その表情からは、何も読み取れなかった。
悲しみも、怒りも、絶望も。
すべてを奥底に沈めたまま――ただ静かに、そこに在るだけだった。




