2 出立
タルポ村の孤児院は、村外れの丘の中腹にある。
石造りの壁に蔦が這い、長年風雨に晒された木製の扉は閉めるたびに低く軋む。決して立派な建物とは言えない。
それでも、俺には長年慣れ親しんだ家だった。
訓練場から孤児院まで歩く間もずっと喋り続けていたオーウェンが扉の前で立ち止まる。そして、先んじてその古い扉を押し開けた。
「ただいまーッ!アンネさーん、帰ったぞーッ!」
底抜けに明るい声が、石造りの廊下に響き渡った。
「はいはい、うるさいわよオーウェン。帰ってきたのはわかったから、もう少し落ち着きなさい」
廊下の奥から小柄な女性が姿を現した。
アンネさんは俺達を育ててくれた孤児院の院長だ。明るい栗色の髪を束ねて、常に凛とした佇まいの妙齢の女性である。
オーウェンに呆れるような口ぶりをしながらも、アンネさんの目は柔らかく細められている。
「リオもおかえりなさい。稽古疲れたでしょ?」
「ただいまです。問題ありません」
アンネさんはいつも俺よりオーウェンを先に叱り、俺には改めて声をかける。
俺がオーウェンとは対照的に寡黙だからだろうか。それとも俺は放っておくと黙ったまま部屋に籠もるからだろうか。恐らく、両方だ。
「そう?その割には顔が疲れているようだけど」
……アンネさんに隠し事はできないな。
「……まぁ、ひと悶着ありまして」
「いやぁそれがさアンネさん、立ち合いが終わった後にまた面倒な連中が絡んできてよぉ。リオが追っ払ったけどな!」
確かに絡んできたのはむこうだが、厄介事になったのはお前が煽ったからだろう、オーウェン。
俺はそうツッコミかけたが、オーウェンが煽ったのは俺のためだ。口を噤むことにする。
「……はぁ。またアロウ村長のところの坊ちゃんね」
アンネさんはそれを聞いて、事の次第を把握した様子でため息を吐く。
「オーウェンーッ!リオーッ!おかえりーッ!!」
廊下の奥から今度は複数の足音が雪崩のように迫ってきた。
「わっ!」
先頭を走ってきた男の子が、オーウェンの腹あたりに頭から突っ込んでくる。オーウェンが咄嗟に受け止めなければ、2人揃って廊下に倒れていたところだ。
「うわっと!おいおい、ルーカス!転ぶぞ!」
「転ばなかったもん!オーウェン達、今日も稽古してたの?見たかったなぁ」
ルーカスはオーウェンを見上げながら元気に言う。茶色い癖毛と大きな目が特徴の男の子だ。こいつが院で一番の暴れん坊で、アンネさんをいつも手こずらせている。
「ははぁ、見せてやりたかったがな。残念、もう終わっちまったよ」
「えーッ!じゃあ今度こそ見る!」
「今度はないよ。俺達は明日の朝、ここを発つから」
オーウェンが真剣な顔でそう言った瞬間、ルーカスの顔から笑みが消えた。
残りの子供達も、その言葉を受けて静かになる。皆わかっていたはずだ。それでも――
「……嫌だ」
ルーカスは消え入りそうな声でそう言う。さっきまでの威勢が嘘のように、ぐっと口を結んで顔を俯ける。目の端が赤くなっている。
オーウェンはルーカスの頭にポンと手を置く。
「心配するな!またいつか帰ってくるから!」
「……ほんとに?」
「おう!待ってろよ!俺とリオで《魔討騎士団》に入団して手柄をドドンと立てたら、でっかい土産を持ってくるからな!」
オーウェンがルーカスの髪をわしゃわしゃしながら笑顔でそう言うと、ワァと歓声が上がる。
そして、子供達が嬉々としてオーウェンに群がっていく。オーウェンは笑いながら次々と子供たちの相手をしていた。
まったく……。剣は上でも、こういう所は本当に敵わないな。あの底なしの明るさは、俺にはどうしても真似できない。
――本当に、こいつは眩しい。
これが、オーウェン・アークライトという人間だ。
だからこそ、俺はこいつの隣に立てる自分でいたいのかもしれない。
そう思っていると、俺の服の裾をぎゅっと握っている少女が1人、こちらを見上げていた。ミカだ。
「……リオ」
「行ってくるよ、ミカ」
「……うん」
「泣くなよ」
「泣いてないし」
そう言いながらミカの目は潤んでいる。俺はしゃがんで目線を合わせた。
「リオもちゃんと帰ってくる?」
「ああ」
「絶対?約束する?」
俺は言い淀んだ。やはり俺は、オーウェンとは違う。
だが、ミカを前にして、俺は他の言葉を持っていなかった。
「……約束だ」
ただ、そう答えた。
「リオ」
アンネさんが俺の隣に立った。オーウェンと子供達の声を聞きながら、彼女はその騒がしい光景をゆっくりと見ている。
「明日の朝はバタバタするでしょうから、今言っておくわ」
「はい」
「あなた達を送り出せることが、誇らしい。2人とも、本当によく頑張ったわ」
「ありがとうございます」
「でもね、リオ」
アンネさんは一度言葉を止めた。それから俺の方を見て、静かに続けた。
「あなたの心が自分を追い詰めすぎないか、それだけが心配よ。オーウェンはああいう子だから、あまり1人で抱え込まないようにね」
俺は一瞬、返事に詰まった。
俺の内側の暗い部分に、この人はいつも真っ直ぐ触れてくる。
「……わかりました」
「本当にわかってる?」
「……努力します」
「ふふっ、正直ね、あなたは。それでいいわ」
アンネさんは小さく笑い、それ以上は何も言わなかった。
その夜は院の全員で夕食を囲んだ。普段より少し豪華な料理がテーブルに並んで、子供達が騒ぎ、オーウェンがそれを更に煽り、アンネさんが呆れながら笑う。
俺はその輪の中にいながら、どこかぼんやりとその光景を眺めていた。
翌朝。
夜明け直前から俺は目が覚めていた。眠れなかったわけではない。ただ、これ以上眠る気にならなかった。
荷物はとうに纏めてある。剣だけを手に取り、俺は院の外に出た。
朝の空気は冷たく、山々の輪郭がうっすらと群青に浮かびあがっていた。タルポ村の空は、今日も雲一つない。
俺はしばらくその空を見上げていた。何を考えているわけでもない。ただ見ていた。
「早いな、リオ」
背後から声がして振り返ると、オーウェンが扉から出てきた。荷物を背負い、腰に帯剣している。既に出立の格好だ。
「お前こそ」
「興奮してたら目が覚めた。子供みたいだろ」
「子供みたいだな」
「うるせぇ」
オーウェンはそう言いながら、俺の隣に立つ。2人揃って、しばらく朝焼けの空を眺める。
「……なぁ、リオ」
「何だ」
「いよいよだな」
「あぁ」
それ以上の会話はなかった。オーウェンにしては珍しく、静かにそこにいた。
やがて院の扉が軋んで開き、子供達がぞろぞろと姿を現した。アンネさんがその後ろに続く。
「早起きね、2人とも」
「旅立ちの日に寝過ごすわけにいかないだろ、アンネさん」
オーウェンがそう言って、大袈裟に胸を張る。
子供達が俺達の前に並んだ。
「じゃあな!行ってくるぜ!」
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい。頑張ってね」
村外れの道に出ると、約束していた馬車がすでに待っていた。御者の老人が無言で俺達を見る。俺達は荷物を積み、並んで座席に収まった。
馬車がゆっくりと動き出す。蹄の音と車輪の音が、砂利道に響いた。
「絶対でかくなって帰ってくるからな!待ってろよ、お前ら!」
オーウェンが馬車の中からそう叫ぶ。子供達の何人かが笑い、何人かがまた泣き出した。
俺も最後にもう一度だけ、孤児院の方を見る。手を胸の前でギュッと握ったままのミカを見て、俺は小さく頷いた。
馬車は村道を抜け、木々の間を縫いながら進んでいく。やがてタルポ村の景色は木立の向こうに隠れ、見えなくなった。
目指すは王都レストクレス。そこで俺達は、《魔討騎士団》の選抜試験を受ける。
両親を失った夜のことを、今もはっきりと覚えている。全てを焼き尽くした紅い炎と、全てを根こそぎ奪っていった魔族。
俺が剣を持ったのは、オーウェンとの約束のためだけではない。そのことを、俺自身は誤魔化せない。
――俺の奥底で、あの紅い炎だけが今も静かに燃え続けている。
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