第7話 『その木曜日の“裏側”』
朝。
空は、昨日より少しだけ晴れていた。
それなのに、朝倉幸太郎の胸の中はずっと曇ったままだった。
机に鞄を置く。
本を開く。
でも文字は流れていくだけで、意味を持たない。
理由は分かっている。
昨日の夜のメッセージ。
『ごめんね』
『明日、少しだけ話すね』
それだけで、心がざわついている。
教室の扉が開く。
「おはよ」
水瀬陽菜だった。
いつも通りの声。
いつも通りの笑顔。
でも、何かが違う。
「……おはよう」
幸太郎の返事は少し遅れた。
陽菜は机に鞄を置いて、少しだけ深呼吸する。
「今日、昼休み……屋上、行ける?」
「行く」
即答。
自分でも驚くくらい早かった。
陽菜は少しだけ安心したように笑った。
「よかった」
その“よかった”が、なぜか重かった。
「おはよー」
後ろから軽い声。
西園寺颯太がやってくる。
「なんか今日、空気変じゃね?」
「気のせいだろ」
幸太郎は即答する。
颯太は目を細めた。
「……水瀬のことだな」
陽菜の肩が一瞬だけ動いた。
「違うよ?」
すぐ笑う。
でもその笑いが、少しだけ“速い”。
颯太はそれ以上追及しなかった。
ただ小さく言う。
「今日、気をつけろよ」
「何を」
「さあな」
昼休み。
屋上。
風は弱い。
逆にそれが不気味だった。
幸太郎はフェンスの前に立っていた。
数分後。
扉が開く。
「ごめん、待った?」
陽菜。
でも今日は、手に何も持っていない。
弁当も、水筒も。
ただ、そこに立っているだけだった。
「今日は食べないのか」
「うん」
短い返事。
沈黙。
そして、陽菜が言った。
「朝倉くん」
「なに」
「今日ね……ちゃんと話すって決めてきた」
その言葉で、空気が変わる。
幸太郎の喉が少し動く。
「……ああ」
陽菜はフェンスに寄りかかる。
そして、空を見上げた。
「私ね」
少し間。
「毎週木曜日、学校に来ない理由」
ついにそこへ触れる。
幸太郎は何も言わない。
風が一瞬止まったように感じた。
「病気とかじゃないの」
陽菜の声は静かだった。
「でも、普通でもない」
「じゃあ何だよ」
幸太郎の声が少し強くなる。
陽菜は少しだけ笑った。
「信じてもらえるか分からない話」
「いいから言え」
陽菜はゆっくり息を吐いた。
「私ね、木曜日だけ……」
そこで一度止まる。
そして――
「“ある場所”に行ってるの」
「場所?」
「うん」
「どこ」
「学校じゃないどこか」
説明になっていない。
幸太郎は眉をひそめる。
「意味分かんねぇよ」
「うん、そうだよね」
陽菜は少し悲しそうに笑う。
「じゃあちゃんと言う」
陽菜はフェンスを強く握った。
「木曜日になるとね、私の“時間”が少しだけずれるの」
「……は?」
「朝起きると、いつもと違う場所にいることがある」
幸太郎の呼吸が止まる。
「ふざけてるのか」
「ふざけてない」
陽菜の目は真剣だった。
「説明できないの」
「できないじゃなくて、しろよ」
幸太郎の声が少し荒くなる。
陽菜は一歩後ろに下がった。
その反応に、幸太郎は一瞬止まる。
「ごめん」
幸太郎は言い直す。
「……意味が分からないだけだ」
陽菜は小さく頷く。
「うん」
「それで、それが木曜日と何の関係がある」
「木曜日だけ、“それ”が起きるの」
「それって何だよ」
「分からない」
また“分からない”。
沈黙。
風が少し強くなる。
フェンスが鳴る。
陽菜がぽつりと言う。
「ねえ朝倉くん」
「うん」
「私、普通じゃないかもしれない」
その言葉で、胸が締め付けられる。
「でもね」
陽菜は少し笑う。
「朝倉くんと話してる時だけは、普通でいられるの」
幸太郎は何も言えなかった。
その言葉は、優しさなのか、別れの予告なのか分からなかった。
その時。
屋上の扉が勢いよく開く。
「おい!」
西園寺颯太。
息を切らしている。
「やばい、今の話やめろ」
「何がだよ」
幸太郎が振り返る。
颯太は声を落とす。
「今、水瀬の“出席記録”見た」
「は?」
「木曜日の記録、全部“空白扱い”になってる」
沈黙。
陽菜の顔が一瞬固まる。
幸太郎の目が揺れる。
「……どういうことだ」
颯太は言いにくそうに続ける。
「“欠席”じゃない。そもそも“存在してない扱い”の日がある」
屋上に風が吹き抜ける。
その瞬間。
陽菜が小さく言った。
「……やっぱり、そうなってるんだ」
幸太郎は陽菜を見る。
「お前、何を隠してる」
陽菜は答えない。
ただ、空を見上げる。
そして、初めて気づく。
この木曜日の謎は――
もう“個人の問題”じゃない。
この世界そのものに、少しずつ歪みが入っている。




