第8話『存在しない日、残る記憶』
屋上の空気は、急に冷たくなった気がした。
さっきまで普通に続いていた会話が、どこか遠くに押し流されたように感じる。
「存在してない扱いの日がある」
西園寺颯太のその言葉だけが、頭の中で反響していた。
幸太郎はゆっくりと息を吐く。
「……それ、どういう意味だ」
颯太は一度目をそらした。
「俺も全部は分からない」
「分からないじゃ済まないだろ」
「済まないけど、実際そうなんだよ」
沈黙。
そして、視線が自然と一人に集まる。
水瀬陽菜。
陽菜は、すぐには答えなかった。
ただフェンスの向こう、曇った空を見ている。
その横顔が、やけに静かだった。
「……ごめん」
小さな声。
「謝るな」
幸太郎の声は低い。
「説明しろ」
陽菜は少しだけ目を伏せた。
「説明するとね、多分“壊れる”の」
「何が」
「今の関係とか、いろんなもの」
その言葉に、颯太が眉をひそめる。
「曖昧すぎるだろ」
「うん」
陽菜は頷く。
「でも、本当にそうなんだ」
幸太郎は一歩近づいた。
「じゃあ聞く」
「うん」
「お前は“何者”なんだ」
その問いに、空気が止まる。
陽菜の肩がわずかに揺れた。
「私は……」
言葉が続かない。
風が一瞬止まったように感じた。
「普通の人間じゃないのか?」
幸太郎の声が少しだけ強くなる。
陽菜は小さく首を振った。
「違うって言ったら、信じる?」
「内容による」
「やっぱりそうだよね」
少し笑う。
でもその笑いは、どこか諦めに近い。
その時だった。
颯太が一歩前に出る。
「なあ、水瀬」
「なに?」
「お前さ、“記録が消える”って言ったよな」
陽菜は頷く。
「それ、ただの欠席とかじゃないよな」
「うん」
「じゃあ聞くけど」
颯太は少し言葉を選ぶ。
「“周りの記憶”も曖昧になることある?」
陽菜の目が一瞬揺れた。
幸太郎の背中に冷たいものが走る。
「……ある」
その一言。
沈黙が落ちる。
屋上の風だけが鳴っている。
「ちょっと待て」
幸太郎が口を開く。
「それってどういうことだよ」
颯太が低く言う。
「つまり、“いなかったことになる日”があるってことだ」
「ふざけてるのか」
「俺もそう思いたい」
陽菜はフェンスに手を置いたまま、静かに言う。
「木曜日のこと、全部は覚えてるの」
「でも周りは?」
「うん。覚えてないことが多い」
「じゃあ俺は?」
幸太郎の声が少し震える。
「俺は覚えてる」
陽菜は少しだけ笑う。
「それが、ちょっと不思議」
その瞬間、幸太郎は気づく。
“自分だけが特別に記憶している”という異常さ。
颯太が小さく言う。
「これ、普通の話じゃない」
「分かってる」
幸太郎は即答する。
陽菜がぽつりと言う。
「朝倉くん、怖くない?」
その問いに、少し間が空いた。
「怖い」
正直な答え。
「でも」
幸太郎は陽菜を見る。
「お前が消えるほうが、もっと怖い」
陽菜の目が揺れた。
風が強くなる。
髪が大きく揺れる。
「そういうこと言わないで」
陽菜の声は少しだけ震えていた。
「どうして」
「期待しちゃうから」
沈黙。
颯太が小さく息を吐く。
「なあ、ここで一回整理しようぜ」
「何を」
「水瀬は“木曜日だけ何かが起きる存在”で、周りの認識も揺らぐ」
「それだけじゃない」
颯太は続ける。
「“記録が空白になる”ってのは、かなり異常だ」
幸太郎は拳を握る。
「じゃあ結論は何だよ」
誰も答えない。
陽菜が静かに言う。
「たぶん私はね」
「うん」
「この世界に“ちゃんと存在できてない日”があるんだと思う」
その言葉で、空気が完全に変わった。
「ふざけるな」
幸太郎の声が初めて強く響く。
「そんなの納得できるわけないだろ」
「うん」
「じゃあなんで普通にここにいるんだよ」
陽菜は少しだけ笑った。
「今は“普通の日”だから」
その一言が、逆に現実を壊していく。
颯太が低く言う。
「もしそれが本当なら」
「……」
「木曜日に何が起きてるか調べる必要がある」
幸太郎は陽菜を見る。
「次の木曜日、どうなる」
陽菜は少しだけ目を伏せる。
「多分、また“どこかに行く”」
その言葉のあと、沈黙が続いた。
屋上の風だけが、やけに現実的だった。
そして誰もまだ知らない。
この“木曜日の空白”は、ただの異常現象ではない。
それは――
彼女の存在そのものに関わる、取り返しのつかないルールの始まりだった。




