第6話 『言えない理由と、崩れ始める日常』
翌朝。
空は昨日よりも重かった。
薄い雲が広がり、春の明るさが少しだけ鈍くなっている。
朝倉幸太郎は、いつもより早く教室に着いていた。
理由は単純だった。
落ち着かなかったからだ。
机に鞄を置く。
本を開く。
でも一行も頭に入らない。
「おはよ」
後ろから声。
西園寺颯太だった。
「早いな」
「お前が早すぎるんだよ」
颯太は幸太郎の顔を覗き込む。
「昨日の夜、ちゃんと寝た?」
「寝た」
「嘘つけ。目死んでる」
「うるさい」
颯太は少しだけ真面目な顔になる。
「水瀬の件、まだ引っかかってる?」
幸太郎は一瞬止まる。
「……別に」
「その“別に”が一番怪しいんだよ」
颯太は机に肘をついた。
「言っとくけどさ、あいつの木曜日の欠席、普通じゃないってのは事実だ」
幸太郎の指が少し動く。
「知ってるのか?」
「知らない。でも“知らされてない何か”があるのは分かる」
その言葉が、妙に現実的だった。
昼休み。
屋上。
風は昨日よりさらに強い。
雲が速く流れている。
幸太郎は一人で待っていた。
(今日は来る)
そう思っているのに、どこか不安が消えない。
扉が開く音。
「ごめん、遅れた」
そこにいたのは、水瀬陽菜だった。
しかし、昨日よりさらに表情が硬い。
「来たな」
「うん」
短い返事。
二人の間に沈黙が落ちる。
陽菜がフェンスに近づく。
「ねえ、朝倉くん」
「なんだ」
「昨日の話の続き、少しだけしていい?」
幸太郎は頷く。
陽菜は一度深呼吸をした。
「私ね、木曜日に“用事がある”って言ったけど」
「うん」
「それ、ただの用事じゃないの」
風が強くなる。
陽菜の髪が揺れる。
「“行かなきゃいけない場所”があるの」
「どこだよ」
「それは……まだ言えない」
幸太郎の眉が動く。
「まだ?」
「うん。まだ」
「いつになったら言える」
陽菜は少しだけ視線を落とす。
「分からない」
その言葉に、空気が重くなる。
幸太郎は一歩近づく。
「なあ、水瀬」
「うん」
「お前、俺のこと信用してないのか?」
その問いに、陽菜の目が揺れる。
「違う」
「じゃあなんで言わない」
「……言ったら、全部変わる気がするから」
「何が」
「関係が」
その一言で、幸太郎の胸が締まる。
「関係ってなんだよ」
幸太郎の声が少し強くなる。
「俺たち、まだそんなに深い関係じゃないだろ」
その瞬間。
陽菜の表情が少しだけ傷ついた。
「……そう思ってた?」
「違うのか?」
陽菜は小さく笑った。
でもそれは、笑いというより“逃げ”だった。
「朝倉くんって、ほんとにまっすぐだね」
「それ褒めてないだろ」
「うん。褒めてない」
少し沈黙。
陽菜がぽつりと言う。
「ねえ」
「うん」
「もし私が“普通じゃない事情”を持ってたらどうする?」
幸太郎は即答できなかった。
颯太の言葉が頭をよぎる。
“知らされてない何か”
「……内容による」
「やっぱりそういう答えだよね」
陽菜は少しだけ空を見上げた。
「でもさ、それでも一緒にいようとしてくれる?」
幸太郎は答えに詰まる。
その沈黙が、すべてだった。
陽菜はそれを見て、小さく息を吐いた。
「そっか」
その時。
屋上の扉が勢いよく開いた。
「おい!」
颯太だった。
「ちょっと来い、朝倉」
「なんだよ」
「今すぐ」
ただならぬ雰囲気。
幸太郎は一瞬迷ったが、颯太の顔を見て動いた。
廊下。
颯太は声を落とす。
「今の会話、やばい」
「何が」
「水瀬、たぶん“隠してる側”じゃなくて、“隠されてる側”だ」
幸太郎の足が止まる。
「どういう意味だ」
颯太は一瞬だけ周囲を見てから言う。
「この学校、時々“特定の生徒の記録が曖昧になること”がある」
「は?」
「出席記録とか、行動履歴とか、やけに抜ける日がある」
「そんなの普通だろ」
「毎週同じ曜日に、同じ生徒だけなら?」
その言葉で空気が変わる。
幸太郎の背中に冷たいものが走る。
屋上に戻ると、陽菜はいなかった。
「……どこ行った」
颯太が眉をひそめる。
「もう帰ったのか?」
机の上に、小さな紙が一枚置かれていた。
幸太郎が拾う。
そこには一言だけ。
『今日はここまで』
それだけだった。
幸太郎は握りしめる。
「ふざけんなよ……」
颯太は隣で黙っていた。
何も言わない。
言えない顔だった。
夕方。
幸太郎は一人で帰る。
空はもうオレンジから紫へ変わり始めていた。
頭の中で、何度も繰り返される。
「行かなきゃいけない場所」
「関係が変わる」
「隠されてる側」
そして――
毎週木曜日。
それはただの欠席じゃない。
“何かが動く日”だ。
その夜。
スマホが震える。
陽菜からのメッセージ。
『ごめんね』
たったそれだけ。
幸太郎はすぐに返信する。
『何が』
既読。
少し間。
そして。
『明日、少しだけ話すね』
その文を見て、幸太郎は気づいてしまう。
これはもう、ただの青春じゃない。
何かが――
確実に“終わりに向かって動き始めている”。




