第2話 『屋上で交わした、小さな約束』
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、教室は一気にざわつき始めた。
椅子を引く音。弁当箱を開ける音。友達を呼ぶ声。窓から差し込む春の光が机に反射して、教室全体がやけに明るい。
幸太郎は鞄から弁当を取り出し、静かに席を立った。
その瞬間。
「待って、朝倉くん」
振り返るまでもなく声で分かった。
水瀬陽菜が小走りでやってくる。手には小さなトートバッグと、淡い黄色の弁当包み。
教室の空気が少し変わった。
「あれ、水瀬さん朝倉くんと?」 「え、意外じゃない?」 「接点あったっけ?」
ひそひそ声が飛ぶ。
幸太郎は少し肩をすくめた。
「……本当に来るんだ」
陽菜が頬を膨らませる。
「朝倉くんがいいって言ったんでしょ?」
「そうだけど」
「なら行こう。屋上でいい?」
幸太郎は驚いた。
「なんで知ってるの」
「朝倉くん、昼休みになるといつも上見てるから。屋上かなって」
「見てたの?」
「うん」
さらっと言われて、幸太郎は言葉を失った。
後ろで颯太が机に突っ伏して肩を震わせていた。
西園寺颯太が顔を上げて口元を押さえる。
「やばい、青春始まりすぎて俺だけ置いてかれる」
「黙って」
「俺も行っていい?」
「ダメ」
即答だった。
颯太が目を丸くする。
「お前が断るんだ?」
「……今日は」
陽菜が吹き出した。
「ふふっ」
その笑顔に教室の視線がまた集まる。
幸太郎は逃げるように歩き出し、陽菜が後ろをついてくる。
屋上へ続く階段。
古いコンクリートの壁。少し湿った空気。窓から差し込む午後の柔らかい光。
二人分の足音だけが響く。
「朝倉くんって、ほんと静かだね」
「よく言われる」
「嫌じゃない?」
「別に」
「そっか」
会話が切れる。
でも不思議と気まずくなかった。
屋上の扉を開けると、春の風が吹き込んだ。
青空。遠くの住宅街。校庭では体育の授業をしていて、掛け声が小さく聞こえる。
陽菜が目を細めた。
「わぁ……気持ちいい」
幸太郎はフェンス際のいつもの場所に座った。
陽菜も隣に腰を下ろす。
距離が近い。
制服の袖が少し触れた。
その瞬間、幸太郎の肩がわずかに揺れた。
陽菜が気づいて笑う。
「緊張してる?」
「してない」
「してる顔」
「してないって」
「耳赤いよ」
「風」
「また?」
幸太郎は弁当箱を開けながら顔をそらした。
陽菜が楽しそうに見ている。
「朝倉くんって、面白い」
「どこが」
「無口なのに、ちゃんと反応してくれるとこ」
その言葉に、幸太郎は少しだけ黙った。
人と話すのが苦手だった。
会話を続けるのも面倒だと思っていた。
でも陽菜相手だと、なぜか返してしまう。
陽菜が弁当を広げる。
卵焼き。唐揚げ。小さなトマト。
「おいしそう」
つい口から出た。
陽菜がぱっと笑う。
「食べる?」
「え」
「はい」
卵焼きを箸で持ち上げて差し出す。
近い。
幸太郎は固まった。
「いや、自分で」
「いいから。お礼」
「……」
断れない。
仕方なく口を開ける。
ふわっと甘い味が広がった。
「……おいしい」
陽菜が嬉しそうに笑う。
「よかった」
その笑顔が、春の光よりまぶしかった。
しばらく無言で食べる。
風が吹いて、陽菜の髪が肩を撫でる。
その時。
陽菜がふいに空を見上げた。
「ねえ」
「なに」
「朝倉くんって、将来何したい?」
唐突だった。
幸太郎は少し考えた。
「……分からない」
「本に囲まれた仕事とか似合いそう」
「図書館?」
「うん。静かだし」
「水瀬は?」
陽菜の箸が止まった。
少しだけ、笑顔が薄れる。
でもすぐに笑った。
「私は……いっぱい笑ってたい」
「それだけ?」
「うん。それだけ」
その言い方が、妙に引っかかった。
“それだけ”にしては、重かった。
幸太郎が何か言おうとした時。
風が強く吹いた。
陽菜の髪が舞い、昨日のしおりがポケットから落ちた。
地面にひらりと落ちる。
幸太郎が拾う。
また、あの文字が見えた。
“いつか、桜の下で笑えますように”
今度は陽菜も隠さなかった。
じっとその紙を見る。
「それ、昔書いたの」
「……そうなんだ」
「中学の時」
幸太郎はそっと返した。
陽菜は受け取って、小さく笑った。
「変でしょ?」
「変じゃない」
「ほんと?」
「うん」
陽菜は目を細めた。
その目が、少しだけ寂しそうだった。
「ありがとう」
沈黙。
校庭からホイッスルの音が響く。
遠くで鳥が鳴いた。
陽菜がぽつりと言った。
「朝倉くんって、優しいね」
「そんなことない」
「あるよ。言葉少ないけど、ちゃんと見てる」
幸太郎は返せなかった。
自分が誰かにそんなふうに言われたのは初めてだった。
陽菜がふいに立ち上がる。
フェンスに手をかけて、風を受けながら笑った。
「ね、約束しよ」
「約束?」
「これからも、昼休みここ来よう」
「……毎日?」
「嫌?」
その目が少しだけ不安そうで。
幸太郎はすぐ首を振った。
「嫌じゃない」
陽菜が満面の笑みになる。
「よかった」
その瞬間。
幸太郎は、胸の奥が静かに変わる音を聞いた気がした。
これはただのクラスメイトじゃない。
たぶん。
自分にとって特別になる人だ。
陽菜が空を見上げる。
桜の花びらが一枚、屋上まで飛んできた。
その花びらを手のひらで受け止めながら、陽菜は言う。
「明日も来てね」
幸太郎はその横顔を見て、小さく答えた。
「……うん」
ただ、その約束が。
こんなにも大切になるなんて。
まだ知らなかった。




