第1章 『桜が舞う日に、君と出会った』 第1話 『始まりは、落ちたしおり一枚から』
四月。
新学期最初の朝。
校門へ続く坂道には、満開の桜が風に揺れていた。淡い花びらが空を泳いで、制服の肩や通学鞄にひらりと落ちる。
幸太郎は、その景色を見上げることもなく歩いていた。
片手には文庫本。ページを開いたまま、足元だけ見て進む。慣れた道。慣れた朝。誰とも話さないまま終わる、いつもの一日。
「おい、歩きながら読むなって。電柱に突っ込むぞ」
横から肩を小突かれ、幸太郎は顔を上げた。
そこには、西園寺颯太がいた。寝癖のまま、ネクタイも少し曲がっている。
「……おはよう」
「テンション低っ。新学期だぞ?」
「昨日の続きが気になる」
幸太郎は本を閉じずに答えた。
颯太はその本の表紙を覗き込み、口笛を吹く。
「また泣けるやつかよ。お前、静かそうで意外とそういうの好きだよな」
「別に」
「別にって顔じゃない。昨日も図書室で読んで泣いてただろ」
「泣いてない」
「目真っ赤だった」
「花粉」
颯太が声を上げて笑った。
坂道を登る途中、風が少し強く吹いた。桜が舞って、二人の間に花びらが流れ込む。
その時だった。
坂の上から、慌てた足音。
「やばっ、遅刻するっ!」
振り返ると、一人の女子生徒が走ってくる。
長い髪を揺らして、白いカーディガンを羽織った女子。スカートの裾を押さえながら、息を切らして駆け下りてくる。
颯太がにやりとした。
「美少女きたな」
「黙って」
女子は二人の前で急停止した。
「あ、ごめんなさい! 通してください!」
「あ……うん」
幸太郎が半歩下がる。
その瞬間。
女子の手から、薄い本が一冊滑り落ちた。
開いたページから、一枚のしおりが風に飛ぶ。
「あっ!」
しおりは風に乗って転がった。
幸太郎は無意識に手を伸ばし、それを掴んだ。
紙だった。
端が少し折れていて、手書きの文字がある。
“いつか、桜の下で笑えますように”
一瞬、その言葉が胸に引っかかった。
「ありがとう!」
女子がしゃがみ込んで本を拾う。
幸太郎はしおりを差し出した。
彼女は受け取って、少し驚いた顔をした。
「あ、それ……見た?」
「……少し」
「そっか」
一瞬だけ、彼女の笑顔が止まった。
でもすぐに、ふわっと笑った。
「秘密にしてくれる?」
「……うん」
「ありがとう。優しいね」
その言葉に、なぜか胸がざわついた。
彼女は本を抱えたまま、もう一度頭を下げた。
「私、水瀬陽菜。同じ学校だよね」
幸太郎は少し間を置いて答えた。
「……朝倉。幸太郎」
「よろしくね、朝倉くん」
そう言って笑うと、陽菜は再び坂を駆け上がっていった。
風に髪が揺れて、桜がその背中に降りかかる。
しばらく幸太郎は立ち尽くしていた。
横で颯太が、にやにやしながら肘で突いてくる。
「お前、今の三秒で恋しただろ」
「してない」
「声裏返ってたぞ」
「してないって」
「じゃあなんでずっと見てるんだ?」
幸太郎は黙った。
自分でもわからなかった。
ただ――
彼女が去った後も、手の中に残る紙の感触が消えなかった。
教室。
新しいクラス表を確認し、幸太郎は窓際最後列の席に座った。
悪くない。静かで目立たない。
本を開こうとした、その時。
「えっ」
前の席に鞄を置いた女子が振り返る。
「あっ、朝倉くん!」
幸太郎の手が止まる。
そこには陽菜がいた。
「同じクラスだったんだ!」
教室の光が彼女の髪に反射して、柔らかく見えた。
「……そうみたい」
「すごい偶然だね」
「うん」
「朝、ありがとう。しおり」
「気にしてない」
「でも嬉しかった」
陽菜はくすっと笑う。
その笑顔に、幸太郎はまた言葉を失った。
すると後ろから、颯太が椅子をガタッと引いた。
「おい朝倉。隣かよ。しかも前の席とか漫画か?」
「うるさい」
陽菜が首を傾げる。
「友達?」
颯太は胸を張る。
「親友。こいつの唯一の」
「唯一じゃない」
「否定が雑」
陽菜が声を立てて笑った。
その笑い声は、教室のざわめきの中でも不思議と耳に残った。
授業が始まるまで、陽菜はずっと話しかけてきた。
「朝倉くんって本読むんだね」
「読む」
「何が好き?」
「小説」
「恋愛?」
「……たまに」
「意外。もっと難しいやつ読んでそう」
「読むけど」
「おすすめある?」
幸太郎は少し考えて、机の上の文庫本を差し出した。
陽菜はそれを受け取ってページをめくる。
「あ、この作家知ってる。泣けるよね」
「……うん」
「私も好き」
その一言で、なぜか胸が少しだけ熱くなった。
誰かと同じ本を好きだと思えたのは、いつ以来だろう。
窓の外で桜が舞う。
教室に柔らかな春風が入ってくる。
その日。
幸太郎は本を読む時間より、前の席の後ろ姿を見る時間の方が長かった。
そして昼休み。
屋上へ行こうとした時、陽菜が後ろから呼び止めた。
「朝倉くん」
振り返る。
陽菜は少しだけ遠慮がちに笑った。
「お昼、一緒に食べてもいい?」
幸太郎は言葉を失う。
周囲の視線が集まる。
クラスの人気者が、自分に声をかけている。
颯太が口を押さえて震えていた。
「お前……始まったな」
幸太郎は顔をしかめた。
でも陽菜は真っ直ぐ見てくる。
期待したような、少し不安そうな目。
断れなかった。
「……別にいいよ」
その瞬間。
陽菜の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと? やった」
その笑顔に、幸太郎は気づいてしまった。
たぶんもう――
自分の日常は、昨日までと同じじゃない。
窓の外で、また桜が舞った。
その花びらが散る頃。
この笑顔が、どれほど大切になるのか。
幸太郎はまだ、知らなかった。




