第37話 『浴衣と、少し早い夏』
夏祭りの一週間前。
学校はもう完全に夏の空気だった。
扇風機の音。
汗ばんだ制服。
窓から入る熱い風。
教室では誰かが「早く夏休み来ないかな」と騒いでいる。
でも、朝倉幸太郎は別の意味で落ち着かなかった。
理由は一つ。
浴衣。
昼休み。
図書室。
水瀬陽菜が机に突っ伏しながら唸っていた。
「決まらない……」
「何が」
「浴衣の色」
幸太郎は本から顔を上げる。
陽菜はスマホを見せてきた。
浴衣の写真一覧。
青。
白。
薄いピンク。
紺色。
幸太郎は数秒固まった。
想像してしまった。
陽菜の浴衣姿。
心臓がうるさい。
「……どれでも似合うだろ」
絞り出す。
陽菜が頬を膨らませる。
「それ一番困る答え」
「知らん」
「ちゃんと選んで」
スマホを押し付けられる。
幸太郎は真剣に画面を見る。
無駄に緊張する。
陽菜はその横顔をじっと見ていた。
少し嬉しそうに。
「……これ」
幸太郎が指差したのは、白地に淡い水色の花柄。
陽菜が目を瞬く。
「白?」
「夏っぽい」
「……それだけ?」
幸太郎は少し黙る。
でも陽菜がじっと待っている。
逃げられない。
「……お前、白似合うから」
言った瞬間。
陽菜が固まる。
顔が真っ赤。
幸太郎も「あ、終わった」と思った。
数秒沈黙。
それから陽菜が顔を伏せる。
「幸太郎くんって」
「ん」
「たまに無自覚にすごいこと言う」
「知らん」
「ずるい……」
耳まで赤かった。
でも少し笑っていた。
放課後。
今日は珍しく颯太も一緒だった。
西園寺颯太。
商店街を三人で歩く。
祭り準備はさらに進んでいた。
屋台が並び始めている。
提灯も増えた。
夏の匂い。
颯太が二人を見ながら呆れたように言う。
「お前ら、完全に夫婦みたいになってんな」
陽菜が吹き出す。
「夫婦は早いよ」
「でも空気がもうそうなんだよ」
幸太郎が眉を寄せる。
「どこが」
「お前、陽菜にだけ表情柔らかい」
「……は?」
陽菜が笑いを堪え始める。
「え、ほんと?」
颯太が即答。
「マジ」
幸太郎が固まる。
自覚ゼロだった。
陽菜がじーっと幸太郎を見る。
「……今度観察しよ」
「やめろ」
「気になる」
楽しそうだった。
その顔を見て、颯太は少し安心したように笑う。
少し歩いたあと。
颯太が不意に真面目な顔になった。
「でもよ」
二人が見る。
颯太は空を見ながら言う。
「最近、前より安定してる気がする」
幸太郎が黙る。
陽菜も静かになる。
颯太は続けた。
「木曜だけじゃなくなってる」
「多分、“今”を積み重ねてるからだ」
その言葉に、陽菜が小さく頷いた。
帰り道。
今日は陽菜と二人。
夕焼け。
夏前の風。
少し蒸し暑い。
陽菜が歩きながらぽつりと言う。
「ねえ」
「ん」
「私ね」
少し照れた顔。
「最近、“前の私”に嫉妬する時ある」
幸太郎が止まる。
「は?」
陽菜は苦笑する。
「だって」
「前の私は、幸太郎くんといっぱい思い出あるじゃん」
「水族館とか」
「木曜日とか」
「キスとか……」
最後だけ小さくなる。
幸太郎の顔も熱くなる。
陽菜は続ける。
「でも今の私は、まだ途中だから」
「なんか悔しい」
その言葉に。
幸太郎は少し考えて。
それから静かに言った。
「今のお前の方が好きかもしれない」
陽菜が完全に止まる。
風だけが吹く。
数秒。
「……え」
幸太郎も言ってから後悔した。
でも止められなかった。
「今のお前は」
視線を逸らしながら続ける。
「自分で選んで、また隣にいるから」
陽菜の目が揺れる。
胸が熱くなる。
「だから」
幸太郎は小さく笑った。
「ちゃんと今、恋してる感じする」
その一言で。
陽菜の目に涙が浮かぶ。
でも泣き顔じゃなかった。
嬉しそうだった。
すごく。
陽菜は笑いながら涙を拭く。
「……ほんと、ずるい」
「なんで」
「また好きになる」
その声は小さかった。
でも確かだった。
夕暮れ。
駅前。
別れる前。
陽菜が少し背伸びして言う。
「夏祭り、楽しみ」
幸太郎は頷く。
陽菜は笑う。
少し恥ずかしそうに。
「今の私との、ちゃんとした初デートだから」




