第36話 『忘れても残る音』
雨の日が少し減り、代わりに蒸し暑さが増えてきた。
教室の窓は開けっぱなし。
風にカーテンが揺れる。
遠くで運動部の声が聞こえる。
夏が近づいていた。
昼休み。
いつものschool library。
朝倉幸太郎が本を読んでいると、向かいに座った水瀬陽菜が机に突っ伏した。
「暑い……」
「まだ六月だぞ」
「もう夏」
陽菜はぐったりしたまま顔だけ上げる。
「幸太郎くん、平気そうなのずるい」
「図書室涼しいからな」
「ここ住みたい」
幸太郎が少し笑う。
最近、こういう普通の会話が増えた。
病気の話をしない日もある。
それが少し嬉しかった。
陽菜は鞄をごそごそ漁る。
「ねえ」
「ん」
「今度、夏祭りあるじゃん」
幸太郎が顔を上げる。
確かに駅前商店街で毎年やっている祭りだ。
七月最初の土曜日。
花火も上がる。
「行かない?」
陽菜が少し期待した目で見る。
幸太郎は頷く。
「行く」
即答。
陽菜が笑う。
その笑顔を見て、幸太郎も少し安心する。
でも。
陽菜はそのあと、少し真面目な顔になった。
「ねえ」
「ん」
「私ね」
言葉を探すように視線を落とす。
「最近、“残るもの”考えてる」
幸太郎が黙って待つ。
陽菜は続けた。
「記憶って曖昧になるでしょ」
「でも」
胸元を押さえる。
「音とか匂いとか、急に戻る時ある」
クレープ屋の音楽のことだ。
幸太郎は静かに頷く。
陽菜は少し照れながら言う。
「だから、夏祭りのこと」
「ちゃんと身体で覚えたい」
その言葉に、幸太郎の胸が静かに熱くなる。
放課後。
帰り道。
商店街ではもう祭りの準備が始まっていた。
赤い提灯。
屋台の骨組み。
遠くから聞こえる太鼓の練習。
夏の匂い。
陽菜が立ち止まる。
「なんか、もう懐かしい感じする」
「まだ始まってないぞ」
「でも夏ってそういうものじゃない?」
幸太郎にはよく分からなかった。
でも陽菜は楽しそうだった。
その時。
近くの店先から音楽が流れた。
古い夏の曲。
小さなスピーカーのノイズ混じりの音。
陽菜がぴたりと止まる。
「……あ」
幸太郎が見る。
陽菜は目を閉じていた。
風が吹く。
提灯が揺れる。
数秒後。
陽菜がゆっくり目を開けた。
少し驚いた顔。
「思い出した」
「何を」
陽菜は小さく笑う。
「小さい頃、お父さんと祭り行った」
幸太郎が目を瞬く。
陽菜は空を見上げる。
「わたあめ買ってもらって」
「浴衣で転びそうになって」
少し笑う。
「手、繋いでた」
その声は柔らかかった。
幸太郎は静かに聞いていた。
陽菜は続ける。
「たぶんね」
「記憶って、全部消えるわけじゃないんだと思う」
「どこかに残ってる」
胸を指さす。
「ここに」
その言葉は、幸太郎にも少し分かる気がした。
帰り際。
駅前。
陽菜が急に立ち止まる。
「ねえ」
「ん」
少し照れながら。
でも真剣に。
「夏祭り、浴衣着てもいい?」
幸太郎が固まる。
陽菜が不安そうになる。
「……変?」
「いや」
幸太郎は視線を逸らした。
耳が赤い。
「似合うと思う」
陽菜が吹き出す。
「まだ着てないのに?」
「絶対似合う」
即答。
陽菜の顔が一気に赤くなる。
「そ、そういうこと普通に言うの反則……」
幸太郎も自分で言ってから後悔していた。
でも陽菜は嬉しそうだった。
その夜。
青いノート。
新しいページ。
陽菜が書く。
夏祭りに行く約束。
花火の音。
屋台の匂い。
浴衣。
全部、身体で覚えたい。
もし忘れても、“懐かしい”って思えるように。
その下に、幸太郎が静かに書いた。
忘れても、また思い出せばいい。
今年の夏を、何回でも。
ページを閉じる。
窓の外では、遠くで夏の虫が鳴き始めていた。




