第31話 『六月の私へ』
土曜日。
朝から少し曇り空だった。
梅雨前の空気は重たくて、風も湿っている。
駅前には買い物客の声。
電車の音。
行き交う人の足音。
その中で、朝倉幸太郎は改札前で時計を見ていた。
十時。
約束の時間。
少し早く来すぎた。
でも待つのは嫌じゃなかった。
昨日からずっと落ち着かない。
初めての休日。
ちゃんとしたデート。
しかも行き先は水族館。
考えるだけで、眠れなかった。
「待った?」
声。
振り向く。
その瞬間、幸太郎は言葉を失った。
水瀬陽菜が立っていた。
白いワンピース。
薄いカーディガン。
いつも下ろしている髪を少しだけ結んでいる。
制服じゃない。
初めて見る姿。
一瞬、本当に同じ人に見えなかった。
陽菜は少し不安そうに首を傾げる。
「……変?」
幸太郎は固まったまま。
陽菜が少し焦る。
「似合わない?」
ようやく声が出た。
「……似合う」
それだけ。
でも陽菜の顔が一気に赤くなる。
「そ、そっか」
視線を逸らして笑う。
耳まで真っ赤。
幸太郎も自分の耳が熱いのを感じていた。
電車。
並んで座る。
少し近い。
制服じゃないだけで距離感が分からなくなる。
窓の外に流れる街。
陽菜が静かに言った。
「今日ね」
「ん」
「覚えてる」
幸太郎が見る。
陽菜は窓を見たまま笑う。
「昨日の夜も」
「朝も」
「ちゃんと」
その一言で胸が軽くなる。
「よかった」
陽菜は少し照れたように笑う。
「うん」
でも、その笑顔の奥に少しだけ不安が残っていた。
幸太郎は気づいていた。
それでも今日は言わなかった。
今日は、普通の日にしたかった。
Osaka Aquarium Kaiyukanに着く。
巨大な水槽。
青い光。
静かな水の音。
人は多いのに、館内は不思議と落ち着いている。
陽菜は入った瞬間、目を輝かせた。
「すご……」
その表情を見て、幸太郎は少し笑う。
「子どもみたい」
陽菜が睨む。
「うるさい」
でもすぐ笑った。
その顔が幸太郎は好きだった。
クラゲの展示。
青い暗闇。
ゆっくり漂う白い影。
二人で並ぶ。
無言。
でも落ち着く。
陽菜がぽつりと言った。
「覚えてる」
「何が」
陽菜がクラゲを見たまま言う。
「昔、来たことある」
幸太郎が少し驚く。
陽菜は頷く。
「小さい頃」
「お母さんと」
声が少し静かになる。
「最後に来たの、ここだった」
その言葉で空気が変わる。
幸太郎は黙る。
陽菜は少し笑う。
「なんで思い出したんだろ」
幸太郎は言った。
「匂い」
陽菜が見る。
「場所とか音とか」
「戻ることあるだろ」
陽菜は少し考えて、頷いた。
「……うん」
その目が少し柔らかかった。
昼。
館内カフェ。
窓際。
海が見える席。
陽菜がジュースを持ちながら言う。
「ねえ」
「ん」
「もし六月で全部忘れたら」
またその話。
でも今日は違った。
陽菜は笑っている。
泣きそうじゃない。
少し覚悟した顔。
「その時さ」
鞄から小さな便箋を出す。
真っ白。
ペンも。
「手紙書きたい」
幸太郎が目を瞬く。
「手紙?」
陽菜が頷く。
「未来の私に」
その言葉に、幸太郎の胸が静かに締めつけられた。
館内の休憩スペース。
大きな水槽の前。
青い光が揺れている。
ベンチに並んで座る。
陽菜が便箋を膝に置く。
少し考えて。
書き始める。
静かに。
真剣に。
幸太郎は隣で何も言わず待った。
水の音だけが聞こえる。
数分。
十数分。
陽菜は途中で何度も止まり、何度も書き直した。
そして最後に、ゆっくり折りたたむ。
封筒に入れる。
表に書く。
丸い字で。
六月の私へ
幸太郎の喉が詰まる。
陽菜はそれを見せないまま、封筒を青いノートに挟んだ。
そして言った。
「見ちゃだめ」
「見ない」
即答。
陽菜が少し笑う。
「信用してる」
その言葉が重かった。
帰り道。
海辺のベンチ。
夕方。
空が少し赤い。
風が冷たい。
陽菜が急に肩を寄せてきた。
自然に。
前より近い。
幸太郎は動かない。
陽菜が小さく言う。
「今日、忘れたくない」
「……うん」
「全部」
幸太郎は答えられなかった。
陽菜は続ける。
「でも忘れても」
少し笑う。
寂しい顔。
「手紙読めば、大丈夫かな」
その問いに。
幸太郎は静かに言った。
「大丈夫だ」
陽菜が見上げる。
「なんで言い切れるの?」
幸太郎は少しだけ笑った。
「お前が書いたから」
その言葉で、陽菜は本当に泣きそうになった。
帰宅後。
青いノート。
今日のページ。
陽菜は最後に一行だけ書いた。
六月の私へ。
もし忘れていたら、この人をもう一度好きになって。
たぶん、また同じくらい好きになるから。
その文字だけ。
少し涙で滲んでいた。




