第30話 『六月の前に』
五月の終わり。
朝の空気に少しだけ梅雨の匂いが混ざり始めていた。
校舎の窓から見える空も、春の青さより白っぽい。
風は柔らかいのに、どこか湿っている。
季節は進む。
止まらずに。
それが最近、幸太郎には怖かった。
季節が進むほど、陽菜の記憶も変わっていく気がして。
昼休み。
いつものschool library。
青いノートは、もう半分近く埋まっていた。
最初は数行だった文字も、今はページいっぱい。
日付。
会話。
笑ったこと。
泣いたこと。
好きって言った日。
全部。
二人で残してきた。
陽菜がページをめくる。
ふと、あるところで止まる。
第21話。
「名前が出てこなかった日」。
しばらく見つめる。
それから、ぽつりと言った。
「……もう思い出せない」
幸太郎が顔を上げる。
陽菜はそのページを指でなぞる。
「この日のこと」
「読めば分かる」
「でも、自分で覚えてる感じがない」
その言葉が静かに重かった。
幸太郎は何も言えない。
最近、こういうことが増えた。
出来事は残る。
でも、感情の輪郭が薄れていく。
まるで、自分の思い出じゃなくなるみたいに。
陽菜が急にノートを閉じた。
ぱたん、と音が響く。
幸太郎が見る。
陽菜は笑っていた。
でも少し無理している。
「ねえ」
「ん」
「六月になる前に」
少し息を吸う。
勇気を出すみたいに。
「行きたい場所ある」
幸太郎が首を傾げる。
「どこ」
陽菜は少し照れて笑った。
「水族館」
一瞬、意外で止まる。
陽菜が慌てて続ける。
「別に深い意味じゃなくて」
「昔、行った気がするから」
「確認したいだけ」
言いながら目を逸らす。
耳が赤い。
幸太郎は少し笑った。
「デートだろ」
陽菜が固まる。
顔が一気に赤くなる。
「ち、違……!」
「違わない」
即答。
陽菜は何も言えなくなる。
でも最後に、小さく言った。
「……そうだけど」
その日の帰り道。
駅前。
別れる前。
陽菜が急に立ち止まった。
少し真面目な顔。
「ねえ」
「ん」
「六月、怖い」
その声は小さかった。
幸太郎の胸が痛む。
陽菜は視線を落とす。
「木曜日がなくなったらって考える」
「もし六月になったら、木曜日でも戻らなかったら」
言葉が詰まる。
幸太郎は静かに待つ。
陽菜は少しだけ震える声で続けた。
「……その時、私」
顔を上げる。
泣きそうな顔。
「ちゃんと、幸太郎くんを好きでいられるかな」
その問いは。
幸太郎が一番怖かったものだった。
でも。
答えはもう決まっていた。
幸太郎は一歩近づく。
陽菜の前。
夕暮れ。
駅前の人の流れ。
全部遠くなる。
「好きになる」
陽菜が目を見開く。
幸太郎は真っ直ぐ言う。
「六月でも」
「七月でも」
「全部忘れても」
「また好きにさせる」
陽菜の目が揺れる。
涙が浮かぶ。
「……自信あるの?」
幸太郎は少しだけ笑った。
珍しく。
「ない」
陽菜が吹き出す。
涙のまま笑う。
「ないんだ」
「でもやる」
その言葉で。
陽菜は静かに泣いた。
声を出さず。
ただ涙だけが落ちる。
その夜。
青いノート。
二人で図書室に残って書いた。
幸太郎が先に書く。
六月になる前に、水族館へ行く約束。
忘れても連れていく。
何回でも。
陽菜がその下に書いた。
少し丸い字で。
六月が怖い。
でも、幸太郎くんがいるから少しだけ平気。
次の木曜日まで覚えていたい。
できれば、その先も。
書き終えて。
陽菜はペンを置いた。
そのまま、何も言わず幸太郎の肩にもたれる。
少しだけ。
幸太郎は動かなかった。
その重みを受け止める。
窓の外では、遠くで雷が鳴った。
梅雨が近づいていた。
六月も。
すぐそこまで来ていた。




