第32話 『六月一日』
月曜日。
六月一日。
朝から雨だった。
窓を叩く雨音が、いつもより教室を静かにしている。
空は暗く、春の明るさはもう残っていない。
梅雨。
季節が変わった。
その事実が、朝倉幸太郎には嫌になるほど重かった。
昨日の夜から、ずっと眠れていない。
六月になったら。
木曜日でも戻らなかったら。
その考えだけが頭から離れなかった。
教室。
幸太郎は窓際で雨を見ていた。
颯太が後ろから声をかける。
西園寺颯太。
「顔やばいぞ」
「……うるさい」
声に力がない。
颯太は少し真面目な顔になった。
「まだ決まったわけじゃねぇ」
幸太郎は答えない。
怖かった。
期待するのが。
その時。
教室の扉が開く。
幸太郎の心臓が強く鳴る。
入ってきたのは陽菜だった。
傘を閉じる。
制服の袖が少し濡れている。
髪にも小さな雨粒。
いつもの朝。
……のはずだった。
陽菜は教室を見渡す。
その視線が幸太郎に向く。
止まる。
数秒。
でも。
笑わない。
名前も呼ばない。
ただ少し困った顔をした。
幸太郎の血の気が引く。
陽菜はゆっくり席へ向かう。
その途中。
幸太郎の机の横で止まった。
何か言おうとしている。
でも言葉が出ない。
そして。
小さく頭を下げた。
「……ごめんなさい」
その瞬間。
世界の音が遠くなる。
幸太郎は動けなかった。
陽菜は苦しそうに続ける。
「ノート読んだの」
「写真も見た」
「ちゃんと全部見た」
声が震えている。
「でも」
唇を噛む。
「……思い出せない」
教室が静まり返る。
近くのクラスメイトも空気を察していた。
颯太が立ち上がる。
でも幸太郎は動かなかった。
動けなかった。
陽菜が必死に言葉を続ける。
「名前は分かる」
「朝倉幸太郎って」
「付き合ってたのも」
「好きだったのも」
「分かる」
涙が落ちる。
「でも」
胸を押さえる。
「感情だけ、ないの」
その一言が、一番残酷だった。
幸太郎の喉が痛い。
呼吸が苦しい。
でも目を逸らせなかった。
陽菜は泣きながら言う。
「ごめんなさい」
「ちゃんと思い出したいのに」
「昨日の水族館も」
「キスしたことも」
「書いてあるから分かるのに」
声が崩れる。
「……好きだった感じが、分からない」
颯太が小さく舌打ちした。
苦しそうに。
でも何も言えない。
誰も言えない。
幸太郎はゆっくり立ち上がった。
陽菜がびくっとする。
でも幸太郎は怒っていなかった。
怒れるわけがない。
ただ。
静かだった。
「……図書室」
小さく言う。
陽菜が涙目で見る。
「放課後、来い」
それだけ。
幸太郎は席に座った。
陽菜は何か言いたそうだった。
でも言えない。
小さく頷くだけだった。
放課後。
雨。
図書室。
窓を打つ雨音だけが響いている。
青いノートは机の真ん中。
陽菜は向かい側に座っていた。
目が赤い。
泣き続けたのだろう。
幸太郎はしばらく黙っていた。
何を言えばいいのか分からなかった。
陽菜が先に口を開く。
「……怖い」
小さな声。
「幸太郎くんを見ると」
涙が落ちる。
「胸が痛いの」
幸太郎が顔を上げる。
陽菜は続ける。
「でも、それが“好き”なのか分からない」
「思い出せない」
「なのに」
胸元を握る。
「離れたくない」
その言葉で、幸太郎の心臓が止まりそうになる。
陽菜は泣きながら笑った。
「変だよね」
「感情ないのに」
「一緒にいたいって思うの」
幸太郎は静かにノートを開いた。
水族館の日。
そこに挟まった封筒。
六月の私へ
陽菜が目を見開く。
幸太郎は封筒を取り出した。
「お前が書いた」
陽菜の手が震える。
受け取る。
静かな雨音。
封を開ける。
中の便箋をゆっくり開く。
そこには。
少し滲んだ文字。
六月の私へ。
もし幸太郎くんを忘れていたら、たぶん今すごく苦しいと思う。
でも大丈夫。
この人は、本当に優しい。
何回忘れても、ちゃんと待ってくれる。
だから安心して。
あとね。
たぶん、また好きになる。
私は、この人を好きにならない方が難しかったから。
文字が滲む。
陽菜の涙だった。
便箋を持つ手が震える。
声にならない。
幸太郎は何も言わなかった。
言えなかった。
ただ待った。
陽菜が手紙を胸に抱きしめる。
泣きながら。
何度も。
何度も。
読み返す。
そして。
小さく。
本当に小さく呟いた。
「……ずるいよ」
幸太郎が顔を上げる。
陽菜は涙だらけで笑っていた。
「こんなの」
声が震える。
「また好きになるに決まってる」




