第24話 『少しずつ、抜け落ちていくもの』
次の週。
春の空気は少し変わっていた。
桜はほとんど散って、校庭の木には新しい葉が増えている。
朝の風も少しぬるくて、季節が進んでいるのが分かる。
でも。
時間が進むほど、怖かった。
進むほど、水瀬陽菜の記憶が失われる可能性が高くなるから。
月曜日。
一時間目。
現代文。
先生が当てた。
「じゃあ次、水瀬」
陽菜が立つ。
教科書を開く。
でも、一瞬だけ止まった。
ページをめくる手が止まる。
視線が揺れる。
「……あ」
先生が首をかしげる。
「どうした?」
陽菜は少し困ったように笑った。
「ごめんなさい」
「……何ページか、忘れちゃって」
教室が少しざわつく。
でもそれだけ。
普通のミスみたいに流れる。
先生も次の人を当てた。
でも。
幸太郎だけは気づいていた。
陽菜の指が震えていたこと。
昼休み。
図書室。
青いノートを開く。
幸太郎は昨日撮った写真をスマホで見せていた。
商店街。
クレープ。
川沿い。
手を繋いだ夕焼け。
陽菜は笑う。
「ちゃんと撮れてる」
「当たり前だろ」
「でも」
一枚の写真で止まる。
クレープ屋の前。
陽菜がじっと見る。
そして、少し黙った。
「……これ」
「ん?」
陽菜が小さく言った。
「撮ったの、昨日だよね」
幸太郎の胸が冷える。
「そうだ」
陽菜は笑おうとする。
でも笑えない。
「なんか」
一拍。
「もっと前みたいに感じる」
その言葉が重かった。
昨日なのに。
たった一日なのに。
もう距離ができている。
幸太郎はノートを開く。
「書こう」
陽菜が頷く。
でもペンが止まる。
幸太郎が見る。
「どうした」
陽菜は少し困った顔で笑う。
「……漢字」
「何」
「幸太郎の『幸』」
一瞬、呼吸が止まる。
陽菜は慌てて首を振る。
「違うの、名前は分かるの」
「でも漢字だけ……」
幸太郎は静かにペンを取った。
ページに書く。
朝倉幸太郎
陽菜がそれをじっと見つめる。
そしてゆっくりなぞる。
指先で。
大事なものみたいに。
「……ありがとう」
その声が小さすぎて苦しかった。
放課後。
帰り道。
川沿い。
昨日と同じ場所。
でも空気は少し違った。
陽菜がふいに止まる。
「ねえ」
「ん」
陽菜は手を見つめる。
昨日つないだ手。
その記憶を探すみたいに。
「昨日、ここで手繋いだよね」
「そうだ」
「……うん」
安心したように頷く。
でも次の言葉で、幸太郎の心臓が止まりそうになった。
「朝、ちょっとだけ」
陽菜の声が震える。
「夢だったかなって思った」
幸太郎は何も言えなかった。
陽菜は苦笑する。
「ごめんね」
「謝るな」
少し強く言ってしまう。
陽菜が肩を震わせる。
幸太郎は息を吐く。
落ち着け。
怒ってない。
苦しいだけだ。
その時。
陽菜が足を止めた。
「……あれ」
顔色が変わる。
手でこめかみを押さえる。
「どうした」
「ちょっと……」
ふらつく。
幸太郎が咄嗟に支える。
陽菜の体が軽い。
そのまま胸に寄りかかる。
呼吸が浅い。
「陽菜!」
名前を呼ぶ。
陽菜が目を閉じたまま、小さく言う。
「……だいじょうぶ」
でも全然大丈夫じゃない。
指先が冷たい。
幸太郎は迷わず肩を抱えた。
「病院行くぞ」
陽菜が首を振る。
「やだ」
「なんで」
目を開ける。
涙目。
弱い声。
「病院行ったら、本当になる」
その一言で胸が詰まる。
認めたくないのだ。
進んでいることを。
忘れていくことを。
幸太郎はしばらく黙った。
それから、そっと前にしゃがむ。
陽菜が驚く。
「……え?」
「乗れ」
「は?」
「歩けないだろ」
陽菜の顔が真っ赤になる。
「無理」
「無理じゃない」
「恥ずかしい」
「今それ言うな」
真剣に言うと、陽菜が少し笑った。
でも立てない。
結局。
ゆっくり背中に乗る。
腕が首に回る。
軽い。
軽すぎて不安になる。
夕方の道。
幸太郎は背負って歩く。
風が吹く。
陽菜の髪が頬に触れる。
後ろから小さな声。
「……覚えてる?」
「何を」
「初めて話した日」
幸太郎は少し笑う。
「図書室」
陽菜が少し黙る。
「……よかった」
「何が」
「朝倉くんが覚えてて」
胸が苦しくなる。
背中越しに感じる震え。
泣いているのが分かった。
陽菜は小さく言った。
「私ね」
「ん」
「今日、少しだけ怖かった」
「……うん」
「でも」
腕に少し力が入る。
「背中、安心する」
その言葉で、足が少し止まりそうになる。
幸太郎は前を向いたまま言う。
「寝るなよ」
陽菜がくすっと笑う。
「寝ない」
でも。
数分後。
肩に重みがかかる。
寝息。
静か。
陽菜は背中で眠っていた。
夕焼けの帰り道。
幸太郎はその重みを感じながら歩く。
失われていく記憶。
でも今、この温度だけは確かだった。
絶対に忘れさせない。
何度でも思い出させる。
その覚悟だけが、少しずつ強くなっていった。




