第23話 『帰り道が、少しだけ特別になる』
翌日。
朝から空はよく晴れていた。
春の風が校舎の廊下を抜けて、教室のカーテンを揺らしている。
窓の外では桜の花びらがほとんど散って、枝に新しい緑が混ざり始めていた。
季節は少しずつ進んでいる。
でも、朝倉幸太郎の中では、昨日の言葉がまだ止まったままだった。
——西園寺くんの名前、出てこなかった。
水瀬陽菜は朝から普通に笑っていた。
授業中も友達と話し、昼休みも変わらず明るい。
その姿を見ていると、本当に忘れていることなんて起きているのか分からなくなる。
だけど。
ふとした瞬間に表情が曇る。
誰かの名前を呼ぶ前に一瞬止まる。
それを見逃せなかった。
放課後。
チャイムが鳴る。
陽菜が振り返った。
「今日さ」
幸太郎を見る。
少しだけ照れた笑顔。
「寄り道しない?」
幸太郎が瞬きをする。
「寄り道?」
「うん」
少し視線を逸らす。
「……二人で」
その一言に、幸太郎の心臓が変な音を立てた。
後ろで颯太が聞こえるように咳払いした。
完全にわざとだった。
「じゃ、俺部活あるから」
言いながらすでに立っている。
逃げるのが早い。
幸太郎が睨む。
颯太は肩をすくめた。
「青春、楽しめ」
「黙れ」
校門前。
夕方。
二人で並んで歩く。
最初は少し無言だった。
それが逆に意識してしまう。
歩幅が自然と揃う。
その距離が近い。
前より近い。
でも陽菜は何も言わない。
ただ、少し嬉しそうだった。
商店街。
駅前の古い通り。
パン屋の匂い。
自転車のベル。
夕方の人通り。
普通の景色。
なのに、今日は妙に鮮やかだった。
陽菜が立ち止まる。
「あ」
指差す。
クレープ屋。
小さな店。
幸太郎が見る。
「食べるのか」
陽菜が振り返る。
「嫌?」
「いや」
陽菜がにこっと笑った。
「じゃあ行こ」
手首を軽く引かれる。
その瞬間、幸太郎は完全に固まった。
一瞬だけ。
でも、確かに触れられた。
陽菜は気づいていないのか、そのまま歩いていく。
幸太郎の耳だけ赤かった。
ベンチ。
クレープを持って並んで座る。
陽菜はいちご。
幸太郎は無難にチョコ。
「朝倉くん甘いの食べるんだ」
「別に普通だろ」
「意外」
陽菜が笑う。
そして、自分のクレープを見て少し悩む。
「……食べる?」
差し出す。
幸太郎が止まる。
「え」
「いちご美味しいよ」
つまり一口交換。
理解した瞬間、幸太郎の頭が止まる。
陽菜は何も気にしてない顔。
でも耳が赤い。
たぶん意識してる。
でも引けないらしい。
幸太郎は数秒悩んで。
静かに一口食べた。
甘い。
いちごの香り。
でも味なんてほぼ分からない。
近すぎた。
陽菜の視線が近い。
心臓がうるさい。
「どう?」
「……美味い」
陽菜が嬉しそうに笑う。
「でしょ」
その笑顔が反則だった。
数分後。
陽菜がふいに静かになった。
クレープを見つめる。
幸太郎が横を見る。
「どうした」
陽菜は少し迷ってから言った。
「今ね」
声が小さい。
「ちょっとだけ怖かった」
「何が」
陽菜は苦笑した。
「この店」
幸太郎が眉をひそめる。
「覚えてないの」
風が吹く。
言葉が止まる。
陽菜は続ける。
「来たことある気がするのに」
「思い出せない」
「誰と来たかも」
その声は弱かった。
幸太郎はしばらく黙る。
それから立ち上がった。
陽菜が見上げる。
「え?」
幸太郎はポケットからスマホを出した。
カメラを起動する。
陽菜の前に向ける。
「撮る」
「は?」
「今から全部残す」
陽菜が目を丸くする。
幸太郎は当然みたいに言った。
「忘れたら見る」
「……写真?」
「ノートだけじゃ足りない」
陽菜の瞳が揺れる。
しばらく見つめて。
少し笑った。
泣きそうに。
「……うん」
そのあと。
商店街を歩きながら何枚も撮った。
クレープ持って笑う陽菜。
本屋の前で立ち止まる陽菜。
信号待ちで風に髪が揺れる陽菜。
何でもない景色。
でも全部撮った。
残したかった。
一つも失いたくなかった。
帰り道。
川沿い。
夕陽が水面に映る。
並んで歩く。
少し無言。
でも嫌じゃない。
その時。
陽菜が小さく言った。
「今日」
「ん?」
「楽しかった」
幸太郎も小さく返す。
「……俺も」
陽菜が立ち止まる。
少し俯く。
そして、勇気を出すみたいに手を差し出した。
小さく。
震えながら。
「……手」
幸太郎の心臓が止まりそうになる。
「嫌ならいいけど」
最後まで言わせなかった。
幸太郎はそっと握った。
冷たい手。
少し震えている。
でもすぐに温かくなる。
陽菜が息を呑む。
そして。
静かに笑った。
幸せそうに。
そのまま歩く。
川沿い。
夕焼け。
二人。
手を繋いだまま。
誰も何も言わない。
でも、十分だった。
その夜。
思い出ノート。
新しいページ。
陽菜はこう書いた。
今日、初めてデートした。
クレープ食べた。
写真いっぱい撮ってくれた。
手も繋いだ。
朝倉幸太郎。
絶対に忘れたくない。
その最後の一行だけ。
少しだけ、文字が震えていた。




