第25話 『君が忘れても、今日を残す』
翌朝。
教室に入った瞬間、幸太郎は違和感に気づいた。
ざわざわした朝の空気。
窓際の席。
いつもの風景。
でも、水瀬陽菜がまだ来ていない。
始業五分前。
普段ならとっくに来ている時間だった。
幸太郎は時計を見る。
また入口を見る。
来ない。
その繰り返し。
後ろから声。
「まだ来てない?」
振り向くと西園寺颯太。
幸太郎は短く頷く。
「珍しいな」
颯太も少し眉を寄せた。
チャイム直前。
教室の扉が開いた。
陽菜だった。
息を切らしている。
制服も少し乱れていた。
でも無事だった。
その瞬間、幸太郎は自分でも気づかないくらい強く息を吐いていた。
陽菜は入口で一瞬立ち止まる。
教室を見渡す。
そして、幸太郎を見る。
少しだけ困った顔。
でも、すぐ笑った。
「おはよう」
いつも通り。
だけど。
その声が少し遠かった。
休み時間。
陽菜が席まで来た。
でも、すぐには話さない。
何か言いたいのに迷っている顔。
幸太郎が先に聞く。
「どうした」
陽菜が少し俯く。
そして小さく言った。
「……朝」
「ん」
「学校来る道、少し迷った」
胸が冷たくなる。
陽菜は無理に笑う。
「バス停一個、通り過ぎちゃって」
冗談っぽく言う。
でも目は笑っていない。
「それで遅れた」
幸太郎は言葉が出なかった。
もう名前だけじゃない。
道。
日常。
確実に広がっている。
放課後。
図書室。
青いノートを開く。
今日は幸太郎が先にペンを持った。
陽菜が少し驚く。
「今日は朝倉くんが書くの?」
「書く」
短く言う。
そして一行目に書いた。
今日は学校まで一緒に行く道を確認した。
駅から右。横断歩道。パン屋を曲がる。
陽菜がじっと見ていた。
その目が少し潤む。
「……そこまでしなくても」
幸太郎は止まらない。
次を書く。
好きなクレープ屋。駅前商店街左側。
好きな図書室の席。窓際一番奥。
好きな人。朝倉幸太郎。
陽菜が息を呑む。
顔が真っ赤になる。
「ちょっ……!」
「事実だろ」
「そうだけど!」
陽菜が顔を覆う。
耳まで真っ赤。
幸太郎も少し熱かった。
でも止めなかった。
「全部残す」
ペンを置いて言う。
陽菜が顔を上げる。
幸太郎は真っ直ぐ見た。
「学校までの道も」
「話したことも」
「好きなものも」
「全部」
陽菜の瞳が揺れる。
「……全部?」
「お前が困らないように」
一拍。
「俺が全部書く」
その言葉で陽菜の涙がぽろっと落ちた。
突然で、幸太郎が慌てる。
「おい」
陽菜は泣きながら笑った。
「だって」
声が震える。
「そんなの、好きになるじゃん」
その一言で幸太郎の思考が止まる。
完全に。
陽菜も言ってから固まる。
数秒。
沈黙。
図書室の時計だけが鳴る。
陽菜が顔を真っ赤にして俯く。
「……今のなし」
「なしじゃない」
即答だった。
陽菜が目を見開く。
幸太郎は少し息を吸った。
そして。
「俺も」
それだけ。
でも十分だった。
陽菜の目が一気に潤む。
「……ほんと?」
幸太郎は頷く。
「最初からじゃない」
「でも今は」
そこまで言って止まる。
照れが限界だった。
でも陽菜には伝わった。
泣きながら笑った。
「……うれしい」
小さな声。
でも、その一言が図書室いっぱいに響いた気がした。
その時。
扉が開く。
「お前らまたここか」
颯太だった。
でも入った瞬間、空気で全部察したらしい。
一歩止まる。
二人を見る。
机の上のノート。
陽菜の涙。
幸太郎の赤い耳。
颯太は空を見た。
「……帰るわ」
「待て」
幸太郎が呼ぶ。
颯太が笑った。
「いや、今入る俺が悪い」
完全に引いていった。
陽菜が笑ってしまう。
その笑い声で、少し空気が軽くなる。
帰り道。
今日は駅まで送った。
駅前で止まる。
陽菜が振り返る。
夕暮れ。
少し風。
「ねえ」
「ん」
陽菜はノートを胸に抱える。
「今日のことも忘れたらどうする?」
幸太郎は少し笑った。
「また言う」
「何回でも?」
「何回でも」
陽菜が少し泣きそうに笑う。
そして一歩近づく。
距離が近い。
心臓がうるさい。
陽菜は小さく言った。
「じゃあ、明日も言って」
幸太郎は頷く。
「言う」
その返事を聞いて。
陽菜はそっと背伸びをした。
頬に、軽い感触。
一瞬。
柔らかい。
温かい。
離れる。
幸太郎が固まる。
陽菜の顔は真っ赤だった。
でも笑っていた。
「……予習」
そう言って逃げるように駅へ走る。
残された幸太郎は、その場で動けなかった。
夕暮れの風だけが吹いていた。
そして、その夜。
青いノートに新しく書かれた一文。
今日、朝倉くんと両想いになった。
忘れても、絶対また好きになる。




