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『最後の春、君と見た空』  作者: 優貴(Yukky)


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第21話 『君の名前だけ、出てこない』

月曜日の朝。

教室の窓から差し込む日差しは明るくて、何も変わらないように見えた。

チャイムが鳴る前のざわめき。

机を引く音。

廊下を走る足音。

全部いつも通り。

でも、朝倉幸太郎は妙に落ち着かなかった。

理由は分かっている。

金曜日の屋上以来、水瀬陽菜の言葉が頭から離れない。

「朝、朝倉くんの名字が少し出てこなかった」

それが始まりなら。

今日だって、起きるかもしれない。

考えたくなくても考えてしまう。

「おはよ」

後ろから声。

振り返る。

陽菜だった。

笑っている。

いつもの顔。

でも、ほんの少しだけぎこちなかった。

「……おはよう」

幸太郎が返す。

陽菜はそのまま自分の席へ向かおうとして――

ぴたりと止まった。

振り返る。

幸太郎を見る。

何か言おうとしている。

でも口が止まる。

数秒。

不自然な沈黙。

「どうした?」

幸太郎が聞く。

陽菜が一瞬目を逸らした。

「えっと……」

言葉が出ない。

眉が少し寄る。

困ったように笑う。

「ごめん」

その一言で胸が冷える。

「何が」

陽菜は唇を噛む。

そして、絞り出すように言った。

「……名前、なんだっけ」

世界が止まった。

幸太郎の指先が冷たくなる。

喉が詰まる。

呼吸が浅くなる。

周りのざわめきが急に遠くなった。

陽菜はすぐ慌てて首を振る。

「違うの、顔は分かるの」

「朝倉くんって分かってるのに」

「名字が急に……出てこなくて」

笑おうとしている。

でも目が不安で揺れている。

それが痛かった。

幸太郎は一度息を吸う。

平静を装う。

声をなるべく普通にした。

「朝倉」

陽菜が見上げる。

「……え?」

「朝倉幸太郎」

一文字ずつ、はっきり言う。

陽菜は目を見開いた。

そして、ゆっくり繰り返す。

「朝倉……幸太郎」

一瞬止まる。

それから。

ほっとしたように笑った。

「そっか」

でも、その笑顔はどこか泣きそうだった。

後ろから、椅子を引く音。

西園寺颯太だった。

全部聞こえていたらしい。

無言で席に座る。

でも視線だけが真剣だった。

授業中。

幸太郎は黒板を一度も見ていなかった。

ノートは真っ白。

前を見るふりをして、陽菜の後ろ姿を見ていた。

ちゃんといる。

笑ってる。

友達と話してる。

普通に見える。

でも、確かに始まっている。

少しずつ。

ゆっくり。

消えていく。

昼休み。

屋上。

幸太郎が来ると、颯太が先にいた。

缶コーヒーを投げてくる。

「飲め」

受け取る。

冷たい。

でも開けない。

颯太が先に言った。

「症状、進んでるな」

幸太郎は黙ったまま頷く。

「予想より早い」

「……止める方法ないのか」

颯太は少し空を見る。

「古記録には書いてなかった」

「使えねぇ」

「仕方ねぇだろ」

珍しく言い返さなかった。

その時。

扉が開く。

陽菜が来た。

でも、少し息が上がっている。

探していたらしい。

幸太郎を見るなり、小走りで近づいてきた。

そして、制服のポケットから小さなノートを出した。

表紙はシンプルな青。

新品。

「これ」

幸太郎が受け取る。

「何」

陽菜が少し照れたように笑う。

でもその目は少し赤い。

「思い出ノート」

その言葉に、幸太郎の胸が詰まる。

陽菜は続けた。

「忘れたくないから」

「大事なこと、全部書くの」

「人の名前も」

「好きな場所も」

「……朝倉くんのことも」

最後だけ声が小さかった。

颯太が少し視線を逸らす。

完全に空気を読んでいた。

幸太郎はノートを開く。

最初のページ。

丸い字。

陽菜の字。

そこに書かれていた。

朝倉幸太郎

本が好き。無口。優しい。

怒ると怖いけど、名前を呼んでくれる。

忘れたくない人。

幸太郎の呼吸が止まる。

喉が痛い。

言葉が出ない。

陽菜は不安そうに覗き込む。

「変かな」

「……変じゃない」

声が掠れる。

陽菜が少し安心して笑う。

「ならよかった」

風が吹く。

ページがめくれる。

二枚目。

そこにも文字。

木曜日に助けてくれた。

病院まで来てくれた。

約束した。桜を見る。

この人を好きになった。

幸太郎の手が止まる。

完全に止まる。

横で颯太が吹き出した。

「うわ」

「見るな!」

思わず叫ぶ。

陽菜が真っ赤になる。

「ち、違……見せるつもりじゃ」

ノートを奪おうとする。

幸太郎が咄嗟に持ち上げる。

二人の距離が近くなる。

顔が近い。

呼吸が触れそう。

陽菜が固まる。

幸太郎も固まる。

風が止まる。

時間も止まる。

その瞬間。

陽菜が小さく笑った。

涙をこらえるみたいに。

「……書いてよかった」

幸太郎は目を見開く。

陽菜は少しだけ泣きそうな顔で言った。

「忘れても、思い出せる」

その言葉で胸が痛いほど締めつけられた。

幸太郎はノートを閉じる。

そして、陽菜に返さず言った。

「預かる」

陽菜が目を丸くする。

「え?」

「毎日、一緒に書く」

一瞬、陽菜が止まる。

「……毎日?」

「忘れさせないためだ」

その言葉に、陽菜の目が揺れる。

そして。

小さく頷いた。

「……うん」

その返事が、ひどく切なかった。

その日から。

二人には、新しい日課ができた。

放課後。

図書室。

青いノートを開く。

その日あったことを書く。

一緒に笑ったこと。

話したこと。

手を繋いだこと。

忘れないために。

失わないために。

毎日、少しずつ。

記憶を残していくことになった。

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