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『最後の春、君と見た空』  作者: 優貴(Yukky)


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第20話 『まだ、言えていなかったこと』

夕焼けが街を赤く染めていた。

西園寺家を飛び出した幸太郎と西園寺颯太は、ほとんど無言で走っていた。

駅までの坂道。

息が切れる。

胸が苦しい。

でも止まれない。

スマホの画面には、まだメッセージが残っていた。

『今、学校の屋上にいる。来て』

その一文が、嫌な予感を煽る。

もう全部終わったと思っていた。

手術も成功して、陽菜は学校に戻ってきた。

なのに。

“言ってないことがある”。

その言葉が、妙に引っかかった。

学校。

正門は閉まっていた。

でも颯太が迷わず裏門へ回る。

「こっち」

フェンス横の古い通用口。

鍵が半分壊れているらしく、押すと開いた。

幸太郎が息を切らしながら言う。

「お前……慣れてるな」

颯太は平然と返す。

「サボりで何回か使った」

「優等生じゃなかったのかよ」

「優等生だからバレない」

意味不明だった。

でも今はどうでもよかった。

校舎。

夕方を過ぎて、人の気配がない。

階段を駆け上がる。

足音が響く。

三階。四階。

屋上の扉。

あの日と同じ場所。

幸太郎の呼吸が乱れる。

手をかける。

勢いよく開けた。

屋上。

風が強かった。

空は赤く染まり、雲がゆっくり流れている。

フェンスの前に立っていた。

水瀬陽菜。

制服姿。

髪が風で揺れている。

振り返った。

少しだけ笑う。

「来てくれた」

その声に、幸太郎は息を吐いた。

無事だった。

でも安心したのは一瞬だった。

陽菜の顔色が悪い。

白い。

病院で見た時に近い。

「どうした」

幸太郎が近づく。

陽菜は少し困ったように笑う。

「怒らないで聞いて」

その言い方で嫌な予感が増す。

「内容による」

陽菜は視線を落とした。

指先をぎゅっと握っている。

そして言った。

「私、手術……全部成功じゃなかった」

風が止まった気がした。

幸太郎の足が止まる。

颯太も表情を変える。

「……どういう意味だ」

声が低くなる。

陽菜は目を伏せたまま続ける。

「心臓は治った」

「でも、先生に言われたの」

一拍。

「後遺症があるかもしれないって」

「記憶」

幸太郎の喉が乾く。

陽菜は小さく頷いた。

「手術の影響で、少しずつ記憶が消える可能性があるって」

沈黙。

風だけが吹く。

遠くで部活の終了の笛が鳴る。

それが異様に遠かった。

「……何を」

幸太郎の声が掠れる。

「何を忘れるんだ」

陽菜は震える声で答える。

「分からない」

「先生も」

「少しずつ抜けるかもしれないって」

「人の名前とか」

「思い出とか」

「学校とか」

言葉が震えていた。

「……朝倉くんのことも」

その一言で、胸が強く痛んだ。

幸太郎は反射的に一歩前に出る。

「ふざけんな」

陽菜が肩を震わせる。

「ごめん」

「謝るな」

「でも言えなかった」

「なんで」

幸太郎の声が少し大きくなる。

「なんで今まで黙ってた」

陽菜の目に涙が浮かぶ。

「怖かったから」

声が震える。

「せっかく戻れたのに」

「また離れるかもしれないって思ったら」

「言えなかった」

幸太郎は拳を握る。

怒ってるわけじゃない。

苦しい。

ただ苦しい。

どうしていつも一人で抱えるんだ。

どうして笑って隠すんだ。

颯太が静かに口を開いた。

「どれくらいで出るって言われた」

陽菜が振り返る。

「……分からない」

「数日かもしれないし」

「数ヶ月かもしれない」

颯太は眉をひそめた。

「症状は?」

陽菜は少し黙ってから答える。

「今日、朝……」

一拍。

「朝倉くんの名字、少しだけ出てこなかった」

その瞬間。

幸太郎の心臓が落ちた。

現実だった。

もう始まっている。

陽菜は涙を拭いた。

でも笑おうとする。

「でも大丈夫だよ」

その言葉に幸太郎は即答した。

「大丈夫じゃない」

陽菜が止まる。

幸太郎は真っ直ぐ見た。

「お前、消えるの平気みたいに言うな」

陽菜の目が揺れる。

「平気じゃない」

「じゃあ無理すんな」

声が震える。

でも止めない。

「忘れるなよ」

「簡単に言わないで」

陽菜の涙がこぼれる。

「怖いんだよ」

その声で全部止まった。

陽菜は肩を震わせていた。

「せっかく、やっと普通になれたのに」

「みんな覚えてくれて」

「学校行けて」

「朝倉くんと話せて」

「やっと始まったのに」

涙が止まらない。

「またなくなるかもしれないって、嫌だよ」

幸太郎はゆっくり近づいた。

陽菜が顔を上げる。

涙で濡れた瞳。

震えている。

そのまま。

幸太郎は両肩を掴いた。

陽菜が目を見開く。

距離が近い。

風が止まる。

「じゃあ、なくさない」

低い声。

でもはっきり。

陽菜が息を呑む。

「……え」

「忘れたら思い出させる」

「何回でも」

「名前も」

「思い出も」

「全部」

一言ずつ。

まっすぐ。

逃げない。

「お前が忘れても、俺が覚えてる」

陽菜の瞳が揺れる。

涙がまた溢れる。

「そんなの……」

「できる」

即答だった。

「絶対」

その瞬間。

陽菜の唇が震えた。

何か言いかけて止まる。

そして。

次の瞬間。

彼女は幸太郎の胸に飛び込んだ。

「っ……」

幸太郎が固まる。

陽菜は強く抱きついていた。

肩が震えている。

泣いている。

声を殺して。

「……こわかった」

その声が胸に直接響く。

幸太郎はゆっくり腕を上げる。

少し迷って。

でも。

そっと抱き返した。

「うん」

それしか言えなかった。

でも十分だった。

少し離れたところで颯太が空を見る。

そして小さくため息をついた。

「俺、マジで邪魔だな」

誰にも聞こえないくらいの声だった。

夕焼けの屋上。

風。

桜の残り香。

二人はしばらく離れなかった。

でも。

幸太郎の胸には一つだけ残っていた。

陽菜の記憶は、少しずつ消えるかもしれない。

なら。

一日でも早く。

一つでも多く。

この時間を刻まなければならない。

失わせないために。

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