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第3回 賢者の理性、勇者の熱情


「アルス君。もう一度言うけれど、今夜の魔法回路演習はこれで終了よ。……これ以上は、貴方の脳に過剰な魔力負荷がかかってしまうわ」


 大魔導師ミリアの書斎。

 古びた羊皮紙の乾いた香りと、夜の静寂を吸い込んだ魔導書の重厚な気配が漂う空間で、ミリアは努めて冷静な声を出し、愛用の丸眼鏡を指先で押し上げた。


 だが、その指先は微かに震えている。

 

 目の前に座る親友である聖女エルセの息子――見習い勇者アルス。

 彼は教本を閉じる様子もなく、ただじっと、射抜くような瞳でミリアを見つめていた。その視線は、魔法理論の難解な数式を読み解く時よりも、遥かに鋭く、そして熱い。


「先生。……僕の魔力回路が暴走しているのは、魔力負荷のせいじゃない。ここが、あんたのせいで、おかしくなるくらい熱いんだ」


 アルスは自分の胸元を、力強く叩いた。

 

「……な、何を言っているの。身体の火照りは、魔力の循環不全による典型的な初期症状よ。早く離れなさい。私が鎮静の呪文を唱えてあげるから」


 ミリアは椅子を引き、距離を置こうとした。

 

 だが、アルスの動きの方が速かった。

 

 ガシッ、と。

 

 ミリアは深い溜息をついた。


「離しなさい、アルス君。……これは、命令よ」


 大魔導師ミリアの声は、書斎に冷たく響いた。

 掴まれた手首を振り払おうとするが、勇者としての天賦の肉体を持つアルスの握力は、魔法に頼らぬ彼女の細い腕を、情赦なく机に固定している。


 丸眼鏡の奥の瞳は、厳しい師のそれだった。

 だが、その視線の先で、アルスの肩が小さく震えていることに気づき、ミリアは息を呑んだ。


「……アルス……君?」


「せ、先生は、いつもそうだ。……都合が悪くなると、そうやって『大人』の顔をして、俺を突き放す。……俺がどれだけ、あんたのことだけを見てきたか、知りもしないで」


 アルスの瞳から、大粒の涙が溢れ、ミリアの甲に落ちた。

 勇者として、次世代の希望として、常に堂々と振る舞っていたはずの少年が、今、幼子のように泣いていた。


「……教えてくれよ、大賢者様。あの脳筋の戦士親父が、あんたのことで、こんな風に必死になったことがあるか?」


「……っ。馬鹿なことを言わないで。あの人は、私の研究を尊重してくれているわ。私たちは知的なパートナーとして、世界を救った最強のパーティ……」


「『知的なパートナー』? 冗談だろ。あいつは祝宴の席で、俺の母親の胸をみて鼻の下を伸ばしても、先生がどんな顔で寂しそうに星を見てるかさえ気づかない。……先生が本当に欲しかったのは、そんな『尊重むし』じゃないだろ?」


 アルスの真っ直ぐな指摘は、ミリアが長年、完璧な理論で塗り固めてきた心の防壁を、正面からぶち抜いた。


「……馬鹿なことを言わないで。私は……貴方の母親の親友なのよ。エルセと一緒に、貴方の成長を見守ってきた。……私にとって貴方は、大切な、守るべき子供なの」


「子供だなんて、思ってほしくなかった! ……あの日、先生が書斎で一人、戦士親父の浮気を嘆いて泣いていたのを見た時から、俺の心は……狂いそうだったんだ! 俺だったら、先生にあんな顔させない!」


 アルスの叫びは、ミリアが完璧に隠匿してきたはずの「夜の孤独」を、無残に暴き出した。


「……っ。あれは、ただの魔力酔いよ。貴方の見間違いだわ。……帰りなさい、アルス君。今ならまだ、明日の朝、私はいつもの先生として貴方に接することができる」


「見間違いじゃない! あの時、あんたを抱きしめたかった……。親父が捨てたあんたの涙を、俺が全部、吸い取ってやりたいと思った! ……先生、お願いだ。一回でいい。俺を、一人の男として……あんたを愛する俺を、まっすぐ見てくれよ……っ」


 アルスは泣きじゃくりながら、ミリアの手首を自分の胸に押し当てた。

 そこから伝わってくるのは、理屈を超えた、暴力的なまでの鼓動。

 ミリアを想い続け、焦がれ続けた少年の、重すぎるほどの愛の重圧だった。


「だめ……そんな、そんな顔で私を見ないで……っ。私は、貴方の理想の女性なんかじゃないわ。……古びた魔導書にしか価値を見出せない、冷たい女なのよ……っ」


「冷たくなんてない。……あんたは、誰よりも熱い。……俺が、その熱を引き受けてやる。あんたがずっと、父さんにも母さんにも隠してきた、本当のミリアさんを……俺に、預けてくれ……っ」


 アルスの涙ながらの求愛に、ミリアの心の中にある「賢者の結界」が、音を立てて砕け散った。


 目の前の少年は、エルセとミリアが自分の理想通りに育て上げた「身近な人を大切にできる男」だった。

 そして今、その理想の男が、自分だけを救うために泣いている。

 それは、彼女が一生かけても手に入らないと諦めていた、究極の救済だった。


「あ……アルス、君……っ」


 ミリアの身体から、抵抗の力が抜けた。

 代わりに、指先がアルスの涙を拭うように、彼の頬へと伸びる。

 

 ふわり、と。

 

 書斎に漂うインクの香りが、ミリアから溢れ出す、熟れきった雌の芳香にかき消された。

 アルスは、ほだされたミリアを逃さぬよう、その細い腰を強引に引き寄せる。


「……ミリアさん。……愛してる。……世界で一番、あんたが欲しい。他にも、何にもいらないっ!」


「……馬鹿な子ね。……こんな、私を……っ」


 アルスが、ミリアの眼鏡をゆっくりと外した。

 焦点の合わない、しかし潤んだ瞳が、アルスを捉える。

 

 ヌチャ……。

 

 重なり合った肌と肌が、汗で密着し、音を立てる。

 ミリアは、自分の身体が自分のものではなくなっていくのを感じた。

 

 理屈ではない。

 魔法の法則でもない。

 自分を想って泣きじゃくる少年の熱量こそが、今、彼女の人生の全てを塗り替えようとしていた。


「いいのね……? アルス君。……私を……もう、先生とは呼べなくなるわよ……」


「……最初から、あんたを『先生』なんて呼びたくなかった。……ミリア。……俺だけの、ミリア」


 その呼び捨てが、ミリアの理性の最後の一線を、完全に焼き切った。

  

 ミリアは自分からアルスの首にしがみつくと、彼の唇を、飢えた獣のように求めた。


「アルス君。……いいえ、アルス。……本当に私でいいの?」


 アルスは、机の上にミリアを押し倒した。

 

 バササッ!!

 

 広げられていた魔導書が、主人の醜態を隠すように音を立てて閉じられ、床に落ちる。

 かつて世界を救った大魔導師は、今、自分を救ってくれた少年の情熱に抱かれ、ただの「愛を乞う一人の女」へと完全に堕ちた。


 書斎には、重なり合った二人の荒い呼吸と、発情した熟女が撒き散らす濃厚な匂いが充満していた。

 

 

 ――数刻後。

 

 深夜の廊下、暗がりの陰。

 

 一仕事を終えたアルスが、汗を拭いながら歩いていると、反対側の階段からカイルが姿を現した。


「……終わったか、アルス」


 カイルの声は、どこか浮ついていた。

 彼の首筋には、聖女エルセが理性を失った瞬間に残した、生々しい吸い痕が刻まれている。


「ああ。……賢者様をただの女に変えてやったよ、カイル。……明日の朝食が、楽しみだな」


「全くだ。……母さんたちが、どんな顔でお互いの顔を見るのか。……楽しみだな」


 二人の少年は、闇の中で不敵に笑い、お互いの戦果を報告し合うべく、秘密の自室へと消えていった。



(第4回へ続く)

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