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第2回 聖女の孤独、少年の掌

第2回


聖女の孤独、少年の掌



「エルセさん、まだ起きていらっしゃいますか……?」


 深夜。

 勇者の屋敷の最奥、聖なる静寂が支配する元聖女エルセの寝室。

 扉の向こうから聞こえてきたのは、息子の親友であり、見習い聖職者であるカイルの、どこか震えるような、けれど芯の通った声だった。


「カイル君……? ええ、起きているわ。どうかしたの?」


 エルセは、寝間着代わりの薄いネグリジェの上に、急いで法衣を羽織った。

 扉を開けると、そこにはカイルが、ハーブティーの入ったトレイを持って立っていた。

 月光に照らされた彼の顔は、昼間の快活な少年とは違い、どこか陰を帯びた、一人の「男」の表情をしていた。


「……寝付けなくて。それと、さっきの祝宴の席で、エルセさんが少しお疲れのように見えたので。これを飲んでいただきたくて、つい」


「まあ。わざわざ、私のために……?」


 エルセは胸の奥が、ジンと熱くなるのを感じた。

 かつて世界を救った英雄である夫――旧勇者は、今この瞬間も広間で酔い潰れ、隣にいた彼女のことなど一ミリも思い出していないだろう。


 聖女であること。母親であること。

 その役割を完璧にこなすのが「当然」だと思われてきた彼女にとって、一人の人間としての体調を、夫以外の異性に気遣われるのは、あまりに久方ぶりのことだった。


「ふふ。ありがとう、カイル君。中に入って。ちょうど、一人で祈りを捧げるには、今夜は少し寂しすぎるところだったの」


 部屋に入り、カイルが差し出したハーブティーを一口啜る。

 温かい液体が喉を通り、緊張していたエルセの身体がふんわりと解けていった。


 彼女は無意識に、胸元のペンダントに触れた。

 それは澄んだ青色の魔石。かつて魔導師ミリアと二人きり、過酷な旅の合間に「二人だけの絆」として分かち合った特別な品だ。

 脳筋の夫は「なんだその安物の石は。俺がもっとデカい宝石を奪ってきてやる」と笑い飛ばしたが、彼女にとっては、世界を救う大義よりも重い宝物だった。


「……本当にお父様方は、いつまで経っても脳筋のままね。世界を救った功績は素晴らしいけれど、あのお祭り騒ぎのガサツさには、時々魂が削られる思いがするわ」


「分かります。エルセさんは、ずっと祈りを捧げてきた方ですから。あんな土足で心に踏み込むような騒ぎは、毒でしかない」


 カイルの声は、驚くほど優しく、そしてエルセの孤独を完璧に肯定した。

 彼は、エルセが座る椅子の背後に、音もなく回った。


「エルセさん。僕、治癒術の修行の一環で、身体の強張りを解く特殊なマッサージを習ったんです。母に施術したら、好評で。……もしよろしければ、少しだけ肩を触らせてもらえませんか? 聖女の重圧を背負い続けたあなたの肩は、もう限界のはずです」


「え…… そうなの?……ミリアも。……でも、流石に悪いわ。貴方も修行で疲れているでしょう?」


「僕がやりたいんです。……僕が、あなたを癒やしたい」


 その言葉には、拒絶を許さないほどの熱量があった。

 エルセは戸惑いながらも、その情熱に押し負けるように小さく頷いた。


 ――次の瞬間。

 

 エルセの法衣の上から、カイルの掌がそっと置かれた。

 

「……っ!?」

 

 エルセの背筋を、電撃のような衝撃が走り抜けた。

 カイルの掌は、驚くほど熱かった。

 

 旧勇者の手は、戦いと略奪で汚れ、硬く、ただ自分の欲望を満たすためだけの冷淡なものだった。

 だが、カイルの手は違う。

 しなやかで、吸い付くようで、そして……慈しみを持って、一ミリの隙間もなく自分の輪郭をなぞっている。


「……カイル君、手が……すごく、熱いね」


「すみません。エルセさんの肌が……あまりに白くて、綺麗なので。見習いの僕には、少し刺激が強すぎるのかもしれません」


 カイルの指が、エルセの首筋から肩のラインを、ゆっくりと、丹念に辿り始める。

 

 ヌチャ……。

 

 汗ばんだ掌と、エルセの絹のような肌が擦れ合い、静寂な部屋に卑猥なほど湿った音が響く。

 エルセは、自分の心臓の音が、耳元で激しく鳴っているのに気づいた。


「ああ……っ、あ、そこ……っ」


 エルセの口から、抑えきれない吐息が漏れた。

 彼女を縛り付けていた、聖女としての結い上げられた髪が、カイルの指先によってパラリと解ける。

 

 重厚な束縛から解放された黒髪が、カイルの腕に絡みつく。

 その光景は、彼女が「清廉な母」から「一人の女」へと堕ちていくカウントダウンのようだった。


(何……これ。あの子の指が触れるたびに、身体が……内側から溶かされるみたい……っ)


 カイルの指先は、絶妙な力加減で、エルセの「女」としての急所を正確に突いていく。

 それは、彼女がかつてミリアと共に、夫たちの不在中に「理想の愛の形」として息子たちに叩き込んだ技術そのものだった。

 相手を所有するのではなく、相手を敬い、心身を解きほぐす、究極の奉仕。


「カイル君……貴方は、どうして、そんなに優しいの……っ?」


「決まっているじゃないですか。……初恋だったんです。幼い頃から、僕の神様は、アルスの母親であるあなた一人だった」


 少年の、剥き出しの「ガチ恋」の告白。

 それは、聖女の法衣の下で、長年眠らせていたエルセの「女性」を、爆発的な熱量で呼び覚ました。


「だめ……よ。私、貴方のお母様の親友で……っ。貴方もアルスと幼馴染で……カイル君、貴方のことは……っ、息子みたいに……思ってて」


「息子なら、こんな風にあなたの髪を弄りません。……エルセさん、もう、世界のために祈るのはやめてください」


 カイルの顔が、エルセの耳元に寄せられる。

 熱い吐息が、彼女のうなじを濡らした。


「世界のことなんて、あの脳筋勇者たちに任せておけばいい。……エルセさん。お願いです。今この瞬間だけでいい。誰のためでもなく、あなた自身のためだけに……自分だけが幸せになるために、祈ってください」


「あ……ああぁっ……そんな……自分だけのために、なんて……っ」


 三往復目の会話で、エルセの理性の堤防が決壊した。

 

 自分を「聖女」としてただ利用する夫や世界でもなく。

 自分を「母親」としてのみ求める世間でもなく。

 一人の男として、彼女自身の幸福を乞う少年の存在。

 

 ドロリ……。

 

 エルセの下腹部に、かつて経験したことのない、重たくて熱い「毒」のような快感が澱んだ。

 カイルの掌が、法衣の隙間から、彼女の震える鎖骨へと滑り込んでいく。

 

 聖女の仮面は、少年の熱い掌に触れた瞬間、音を立てて崩れ落ちていった。

 

「カイル君……だめ……っ。そんなところ……っ」

 

 エルセは、自分の身体が自分のものではなくなっていくような、浮遊感と絶頂の予感に身悶えた。

 親友に申し訳ない。息子に顔向けできない。

 けれど、その背徳感が最高のスパイスとなり、彼女の感覚を極限まで鋭敏にさせていく。


 カイルは、完全に陥落の予兆を見せるエルセの肩を抱き寄せ、その首筋に顔を埋めた。

 

「……ああ、エルセさん。最高の匂いだ。……あなたがこんな匂いをさせるなんて……アルスには、一生教えられませんね」


「ひゃっ!? あああぁっ……」


 聖女の孤独を、少年の情熱が塗りつぶしていく。

 かつて誰も踏み込むことができなかった「聖域」に、カイルは一歩ずつ、しかし確実な足取りで、愛という名の侵略を続けていた。


 

 ――その頃。

 

 別棟にある賢者ミリアの書斎でも。

 勇者アルスが、理知的な仮面を剥ぎ取るような「逃げられない熱情」で、ミリアを追い詰め、包囲網を縮めていた。



(第3回へ続く)

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