アレは狸
晴十郎、居るかい、新年の御吉慶目出度く申し上げます。
おやその声は下谷のご隠居ですかい、御慶御慶申し上げます。
相も変わらずのお前さんだよ、挨拶ぐらいシャンとおしよ。
年の瀬から年明けのこっち、なんともバタバタとして落ち着きがない。ご隠居さんとは、晴十郎が日取りを決めて、声掛けするなり出向くって約束の話のはず。
「ご隠居、こっちから声かけるって話だったんじゃぁ。」
約束の話とは、王子稲荷様から有り難くも賜りましたお断りの出来ない用事。熊野権現様から熊野誓紙を手ずから頂いてくる、その際に、道中ご隠居さんと連れ立って行くという事になっていた。どうやら、ご隠居さんは、お目付見張りの役を買って出たらしい。
ご隠居さんは、手に下げてきた一升徳利を晴十郎に突き出し
「なに、今日はお前さんと飲もうと思ってね。肴はお前さんが用意するのが礼儀だよ。」
そう言ってニッカリ笑う。
「肴って言ったって残り物しか無いよ。」
出してきたのは、茹でた蓮根と鷹の爪を酢に漬け込んだ物。少し酸っぱいけれど、そこに刻んだ干し柿が入っていて、甘さと酸っぱさがいい具合の塩梅だ。それにかつお節の出汁で炊いて味噌をかけた大根。
「おい、これは美味いねえ、味噌の匂いがたまらないよ。」
「そうだろうとも、味噌に水と味醂と酒に聞いて驚くな、砂糖を入れてあるのさ。」
味噌に味醂酒水砂糖を溶いて、ゆっくりと火にかけ練っていくと、晴十郎は身振り手振りを交えながら、言葉を繋げる。こうなるとこの男はもう止まらない。少しでも褒めようものなら、また最初から同じ話を繰り返し、そうだろうそうだろう美味いだろうと自慢する。
砂糖は江戸では手に入りにくく、狐の晴十郎が砂糖を持ってるとは、これまた不思議な話だけれども、まぁそういうことで。
「ところでいつになったらその重い腰を持ち上げるのかい。」
「いつっていつのことだい。」
「惚けるんじゃないよ、アレのことだよ熊野誓紙だよ。」
晴十郎は酒をクィッと煽り、空の茶碗に酒を注ぎ足した。
「そんなこと言ったって、今から行ったら如月だろう。雪が深くて立ち往生するんじゃねぇですかい。」
ご隠居は手で扇ぐ仕草をして、違うよという気持ちに言葉を付け足した。
「今から行けば、雪の降る前に帰って来れるだろうさ。」
「そんな慌てて行って慌てて帰ってくるなんざ、オイラ御免だね。」
「そんなこと言ったってお前さん、倉稲魂命様の申し付けなんだからさ、急ぎに決まってるよ。」
やけに急かすね、それに言われてもいないのに目付を買ってでて、付いて来るなんざ、なんか怪しい
そもそもが最初からご隠居と連れ立って、ウカノミタマ様とお会いするところから怪しい。そしたら、前もってそういう話を聞いているはずだけれども、これっぽっちも聞いてない。
その話を聞いてればなんかの理由をつけて、足を怪我しただの歩くとふらつくとかさ、そんで逃げちまったのにさ、逃げられるのが嫌でだから黙っていやがったな。
こりゃぁ向こうの方で最初から話が出来上がってるな。熊野も言い訳で、何とかしてオイラの腰を上げさせたいらしい。
晴十郎が怪しみ始めたことを気づいているのか気づいていないのか、それともとっくに気づいちゃいるが、ゴリ押しで畳み掛けようとでもしているのか、ご隠居は話を続ける。
怪しみ始めたらご隠居の物言いが、どうにもこうにも芝居掛かった物言いで、なにかこう、何かに書き付けた物を読み上げている感じに聞こえてくる。
そう思い始めたら、ご隠居が狸に見えてきた。昔から狐を騙すのは狸と相場が決まっている。あの、でっぷりとした腹とかたっぷりとした顎のあたりなんざ、どう見ても狸だ。狸に決まってやがる。
「でもよ、今時期寒いぜ。」
「でももヘチマもないよ。偉いお人から言われたんだから、黙って有り難く従うのが筋ってものさ。」
「でもよ、疲れっちまうぜ。」
「でもでも五月蠅いね。」
「そんなに行きてえならさ、ご隠居一人で行ってくればいいじゃねえか。」
晴十郎は、大根の切れ端を口に入れて酒で流し込む。
「お前さんが言付かったんだから、お前さんが行かなきゃ駄目だろうよ。呑気に酒なんか呑んでる場合じゃないよまったく」
アンタが持ってきた酒でしょうよ、まったくはアンタの方だよ。
今は睦月、薄い空色の空は何処までも高く晴れ上がってはいるが、雪を引き連れた鉛色の空は時期にやってくるだろう。
狐だから雪ぐらいどうってことはないけれども、降るよりも降らないほうが良いに決まってる。弥生まで待ったほうが賢いと思うけどね。
払い給え清め給え此の神床にます、と声が聞こえてきた。娘の高い声だが時折混ざる低い声が、何とも絡みつくように聞こえる。それが心地良い。
もしやと思ってその声の方を覗き込んだ晴十郎はビックリして尻餅をついてしまう。あの娘だからだ。
「わえは帰らなくては行けません。今生の別れかもしれませんが忘れないでおくれ。」
その声に相槌を打つかのように犬がワンと吠える。あの時の白い子犬が娘の足元にいた。
うつむいて聞いている晴十郎、なんだか、真っ直ぐに娘を見ることが恥ずかしくて出来やしない。末席とはいえ仮にも神様の一柱なのに、情けない晴十郎だ。
帰るって何処に帰るんだろう、と言う晴十郎に間髪入れずに掛川ですと答える娘とワンと鳴く犬。
うっと思って顔を上げれば娘はもう何処にもいない。また、消えた。
「晴十郎、掛川だって言ってたよ。」
晴十郎の肩をポンと叩くご隠居は、なんだかニヤニヤして晴十郎の顔を覗き込んだ。
ドギマギして照れてしまっている晴十郎は元より冷静ではなかった。娘と話が成ったことがあり得ないことだと、冷静な晴十郎だったら気付くはずだ。ご隠居が娘の行き先を吐露することで空耳じゃぁないとわかる。
人の世と神の世じゃ、見えない境界があるものだ。
「何のんびりしてんだい、早くしなよご隠居。」
「お前さん、急にバタバタして埃が立つよ。」
「馬鹿だね。年取ると動きが遅くなるね、今から行くんだよ。」
「お前さん、やっと熊野に行く気になったかい。」
「掛川だっ。」
もう一回繰り返して言う。
「行くのは、かけがわだっ。」




