噂と噂
神の常世に人の現世行き来するのは御霊の足音。風の揺らぎは火炎を撫でで水面の瞬き草木の抱擁
。夜の真に昼の夢、境の幽玄にただただ酔う。
誰が言ったか知らないけれども、世の中道理のつかない不思議な事だらけ。神様のお話を人様がわかることなど無いと思うが、人様の話も神様の思いの外なのだろうか。
晴十郎と件の娘の視線が交わることなど無いと思う。何しろ、住んでいる世界が違うのだから。
だけれども、こっちを見て目を合わせて向こうを指差して首を振る仕草をした。
晴十郎を見とめていたとしか思えない。なんとも摩訶不思議な娘である。
が、それっきり、見つける事が出来ないでいた。ご存知、晴十郎の好みの娘であったから、似た娘を見つけては溜め息をついて、夢に見ては悶えてしまう。寝ても覚めても思い描いてしまっていた。
今まで、晴十郎の社へ願い事をどうぞ叶えてくださいとやって来る人の目の前に、いつもドッカリと胡座で座り込み、その人の顔を覗き込んで、全部が全部叶えるわけじゃ無いけれど、どっちかっていうと殆ど叶える事なんかしやしないが、願い事を聞いていたのである。
ところが、そんな願い事より自分の願い事の方が、晴十郎にとってはとてもとても叶えるべき願い事なんだけれども、自分の願いを叶える方法なんか、わかりゃしない。そこで再び、寝ても覚めても溜め息放題というわけだ。
好みの娘というよりも、もはや惚れてしまっていたのである。
そんな悶々とした日常を忘れてしまう嫌な事件が起きてしまう。
江戸の半分以上を焼き尽くした大火事で、江戸城の天守閣をも焼き落としてしまった。火の粉が舞って炎が道を塞いでいる姿や白い煙と黒い煙が襲いかかって来る様は、まるで妖鬼の百鬼夜行。妖鬼の火車が、通り道にあるもの全部を舐めて燃やしていく。火車が跳ねればやっぱり炎も跳ねて、隣の建物隣の建物へと移っていくのである。
焼け死ぬ人が大勢いる中で、江戸城の殿中では不思議と焼け死ぬことはなかった。書院番の何某が、救助に向かう時に畳を裏返しながら奥の方へと向かっていく。
畳に沿って逃げられよ、と声を張りながら奥へ進み見事に役目を果たした。書院番というのは、元々が城内の警護を受け持っているのだから、当然だと思われるが、自らも危険な所に向かっていくのだから、なかなかどうして立派な行いに褒め言葉しか思い浮かばない。
江戸幕府は旗本御家人大名への見舞い金、焼け出された人達の救済、炊き出しなどに、およそ百万両もの金銀を吐き出してしまう。
しかし、そう悪い事だらけではなくて、玉石混交で乱立していた屋敷、寺社、商家、民家、役所を、この機会に計画に沿って配置し直し、主な目抜き通りは道幅を広くして両国橋を掛けたのもこの頃である。
江戸城は、城下町でもある江戸市中を含めての城であったから、乱雑乱立の街並みは攻められやすく守りにくい。江戸市中を元々考えられていた攻められにくく守りやすくする江戸城にする為に、この火事は渡船だったわけである。
だから、悪い噂が流れた。江戸のお偉いさんが、江戸城の縄張りをし直す為に、邪魔な市中を焼き払ったという噂が。
最初の火元もいけなかった。老中阿部忠秋の屋敷からの失火(本当のところは阿部の失脚を狙った陰謀というところまでわかっている)だから、怒りの矛先が噂の元になった。
これは不味い、この噂に便乗して見舞金を釣り上げて来る大名がいるかも知れない、江戸の全部が復興回復の邪魔をして来るかも知れない。
そこで頭を捻って絞ったのが、振袖火事の筋書きである。噂を噂で塗りつぶしてしまおうという訳なのだが、これが本当に上手くいった。
恨みつらみで誰かを吊るし上げるにしても、作り話なのだからその誰かが、どこにもいやしない。次第に恨みそのものが同情のそれに変わっていく。
阿部忠秋の屋敷が火元だったはずだけれども、いつの間にか火元は荒磯柄の振袖ということになった。
だから、この火事は振袖火事と言われるようになる。
この話をそれとなく聞いていくと、噂の中の荒磯のお武家さんは新之助じゃぁないのかと、一瞬だけ晴十郎は考えてしまったが、作り話だからそれじゃないな、と心うちに答えを出した。この話を作った時に新之助を手本にしたのかもしれないが。
実はこの新之助ちょっとした有名人だった。徳川御三家紀州藩の末子で、本当の名を松平頼久と言う。新之助というのは、本名をいちいち名乗っていたら、色々と面倒臭いことがあるので普段名乗っている名前なのだ。何しろ神君家康公のひ孫なのだから、上にも下にも置くことができない。周りはそんな新之助にへりくだってくるが、身分は部屋住みだから簡単に言えば居候、何者でもないただの厄介者だ。ゴマスリの連中も内心ではどう思ってるかは、その連中の態度だったり表情だったりで、何となくわかる。あまり良い心持ちではないと思う。
だから、頼久じゃなくて新之助と名乗っている。この新之助は曲がった事が大嫌いで、その生まれのせいか頭を下げる事ができない。誰彼構わずに噛み付く暴れっぷり。市中の喧嘩じゃ負けた話を聞いたことがない。
当然、アレは何処の家中の人間か、と言う事になり、それなりに噂として囁かれてしまう。アレは神君家康公のひ孫だよ、となれば、じゃぁ悪い事は見過ごせないんだね、って、話が済んじまう。
晴十郎は賽銭箱の横に腰掛けながら、新之助の喧嘩の事を思い出していた。キッカケは侍に絡まれた子供を助ける為、あまり褒められたもんじゃないが、刀を抜こうとしたこと。やっぱり、相手を見極めるどころか噛みつき返した。
生まれのせいかねぇ、必ず自分が勝つと思ってるわアイツは。少し危ないね、噂とおりの暴れ若様だね。晴十郎はそう思いつつも新之助のことは嫌いじゃない。
実際、市中の評判はすこぶるいい。いつか助けてやる事もあるかもな、そう思った晴十郎は出かける支度を始めることにした。
今日は王子稲荷へ参拝しに行く日、今日だけはサボっちゃいけねぇ、何を言われるか何の難題をふっかけられるか分からない。
そしたら面倒臭い用事を押し付けられた。
断るこたぁ出来ないみたいだね。




