新之助
晴十郎の耳に、ひ・ふ・み・よ・い・む・な・こ・こ・の・た・り・ふ・る・べ・ゆ・ら・ゆ・ら・と・ふ・る・べ・と確かに届いた。
声の聞こえた方向を、それは賽銭箱の方で晴十郎からすれば外だったり庭先の方向なんだけれども、見ると荒磯の柄の着流しを着た二本差しの若侍が立っていて、立身出世をとの願い事がひしひしと聞こえては来る。が、コイツじゃぁ無い。
目を泳がせてまわりをぐるぐる近くを順に見渡して、コレじゃないアレじゃないと品定めしていくが分からない。
そのうちにアレは気のせいだったのかと、頭の端からかなぐり捨てようと思い、目を右から左に動かして瞬きをした。そしたらハッキリと聞こえた。
「帰ってきたのだから、わえのところへ来るかえ。」
ボソボソとした感はあるけれども、まわりの音をかき消してズドンと聞こえた。
左の奥の方だった。しゃがみ込んだ娘が、小さな真っ白な犬の子供の首根っこを掴んで持ち上げ、娘自身の鼻を犬の鼻に擦り付けている。
下げ髪で漆塗りに螺鈿細工の笄を刺して、観世水柄の小袖を着た娘だ。不思議なことにその娘に目が釘付けになってしまって、どうにもこうにも目を離すことが出来ない。
それもそのはず、どこから見ても晴十郎の好みのど真ん中だ。顔の形が卵形の目尻がスッとした切れ長の目で、肌が透き通っている。笑みを浮かべた表情だけれども少し憂いを含ませている。
下から上に見上げるようにこちらを見つつ、切れ長のめを少し細めて笑う。目が合った。
これはまずいやられてしまうと思ったかどうかは晴十郎にしかわからないけれども、やっぱりそうだと思う。何しろ、晴十郎の目の中だけに雷がピシャリと落ちたからだ。
周りが暗く消えていってその娘だけしか見えない。心持ちキラキラと光って輝いて見えるが、どんな褒め言葉も霞んでしまう。それこそ、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花という言葉は、今この娘を表現し尽くした言葉だと思う。
その娘は向こうのほうにゆびを刺し、あごをそちらにくいっと動かす仕草をした。晴十郎に見ろと言っているのだろうか。
つい釣られて見ると何もない。何も無いじゃないかと視線を戻せば、娘と犬は何処にも居ない。見渡しても見えるのは荒磯の若侍。
そしたら、その荒磯がまた別の侍と喧嘩をしているようである。相手は刀を抜こうとしながら荒磯を睨みつけているが、当の荒磯の若侍は袂に腕組みをした腕を入れたまま、ニヤニヤと笑っている。
「おい、木っ端侍いいのかい、それを抜いたら俺も下がらねえよ。」
「木っ端とは聞き捨てならん、許すことはできないぞ」
荒磯が木っ端と茶化し、それでますます相手も怒りが増していく。
「許すも許さねえもねえんじゃねえのかいそもそも子供がぶつかってきただけのことだろうよ。そんな小さい事を許さねえってんなら、俺もやるだけの事よ。」
荒磯は顔付きを変えあごを引き上目使いに睨みつけながら、草履を蹴り脱いで足を肩幅より少し大きく右足を前に開いた。ズンと腰を落とし左手で鯉口を切り右手で刀の柄を握る。
なるほど、口先だけの男では無いようだ。若いのに隙がなく見事な構えで、これが剣法で言うところの後の先と言うのかも知れない。
相手が切り掛かって来たところを刹那で切り返して、切られる前に切り付けるというのだと思う。
相手の侍との力の差は歴然で、誰が見ても荒磯が勝つだろうという予想がついてしまう。それは相手にもわかるようで、刀から手を外し少し後ずさった後、クルリと踵を返して、参道の向こうの方へ歩いていった。逃げたという事だ。野次馬の拍手喝采で喧嘩は終わった。
荒磯は事が済んだとして草履を履き直していると、そこへ小さい子供が、歳は五つか六つを数えるぐらいだと思う、半べそを描きながら荒磯の膝元に抱きついて来た。この子供があの侍にぶつかったのが事の起こりらしい。
「ありがとう、ダメかと思った。」
荒磯は子供のほっぺたを軽くつまんで、お前の名前はと聞いた。
「おいら、源六」
「そうか。源六か、俺も源六だ。まぎわらしいから俺の事は新之助って呼びな。源六だけ特別にそう呼んでいいぞ。」
「新之助、ありがとう。謝ったんだけど許してくれなくって。」
「いいって事よ。今度危ない目にあったならな、紀州の新之助を呼んでくれって言いな。俺が直ぐに助けてやる。」
子供はわかったと言いながら向こうの方へ走っていく。
晴十郎はこういう気風のいい男は嫌いじゃ無い。何より晴十郎の庭先での揉め事を納めたのだ。
どれ、少し褒美をやるかと晴十郎は新之助へ近づいていった。勿論、新之助にも周りの人達にも、晴十郎の姿は見えやしないし気配すらわからないだろう。
新之助の正面に立った晴十郎は、新之助の眉間を人差し指でコツンと小突いて、こう言った。
「おい新之助。お前、今がこの時と思ったら名前を吉宗に変えな。いいな、その時に思い出して吉宗と名乗るんだぞ。」
また、眉間をコツンと小突いた。新之助は何も感じてないはずだ。感じたとしても何かが風で飛んできてぶつかったぐらいだと思うはずである。
新之助は仕切り直しで、もう一度賽銭を投げ入れ出世の願いを告げた。そして帰っていった。
その願いは叶えてやったぜ、と呟きながら自分の社の奥へ入っていく晴十郎は、そもそものあの娘は何処へ消えたんだと考える。そこで晴十郎はハッとある事に気づいたのだ。
あの娘と目が合った、確かに目が合ったよな、と。




