夏の乱
「佐保姫様への御注進に御座います。」
声の主がそう言ったので、勝軍が障子を開けた。外から見た部屋の中は、上座の佐保姫が居り、側に袈裟姿の和尚が控え、佐保姫の近習と言っても差し支えない男が障子を開けて控えている。
その和尚が声の主を招き入れる。
「どれ構わぬから中に入っておいで。」
「下賤の身である故に此処で控えさせて頂きとう御座います。」
声の主は、城の石垣の泣き地蔵に化けていたあの子狸だった。
「なんでぇ、あの時の化け狸じゃねえか。」
武突で平伏していた狸がプハッと息を吐きその場に座り込む。強張っていた顔が緩み少し安堵したかのようである。
「とても偉い御方だから失礼の無いように、こうしろって言われてきたけど、この前の兄さん達じゃないですか。」
此処まで走り詰めで来て喉がカラカラというから、少し塩辛えがこれで我慢しろと膳の残りの味噌汁を勝軍が狸に手渡す。源九郎が酔いつぶれているから水を汲みに行けないのだ。
「んで、御注進てぇのは穏やかじゃねえな、誰からだい。」
「えっとですね、なんでしたっけ。そうそう、松永のお殿様からで。」
春北斗消ゆるともなく消え果てて風の彼方に空ぞ移ろふ、とだけで後は姫様がご理解下さるということでした。
それを聞いた佐保姫は畳をバンッと掌で打ち据えてから、片膝立ちで畳を踏み抜く。怒り心頭、キレてしまった感である。
「九郎、起きなんし、白南風には早いでありんす。」
「俺も行く。」
「助六お前は駄目だ。」
神様連中の争いに仏が混じるのは御法度ものだよ、広がって神と仏の戦になってしまったら誰も得をしない、と蔵王権現が勝軍地蔵を諌める。
「けっ、和尚もご隠居と同じでこれもダメあれもダメ。」
佐保姫に呼ばれた源九郎はまだよだれを垂らしていびきをかいていた。酔いつぶれた九郎を起こしたって役に立つものかね。
「おい、子狐。吾が起きろと言ったのだ。」
佐保姫は源九郎の二の腕の所を、これでもかと思い切り蹴りつけ、三回目にしてようやく九郎が起きた。
「ん、姐さん、どういたしましたか。腹でも空きなさったか。」
「九郎よく聞け、筒と名乗る狢が吾の庭に出たそうじゃ。」
佐保姫の口調の違いで九郎は、かなりのお怒りだと思い、水をがぶ飲みにする。少しでも酔いを覚ましておかないと後が怖い。
佐保姫が自分を指す時にあちきでは無くて吾と呼ぶ時は冗談が通じないのだから。その時に佐保姫の考えの先に辿り着く事に努めなければ、その怒りの矛先がこちらに来てしまう。
九郎は佐保姫に言われる前に狐の姿に戻り、佐保姫に跨がれとばかりにその前に伏せた。
「そこな豆狸、来た早々苦労をかけるが、吾を連れて行ってくれぬか。」
佐保姫は九郎に跨り狸に案内させようとするが蔵王権現が少し待てという。
「どれ、豆狸ご苦労じゃったな、褒美をやるから近くにおいで。」
お前は春の眷属になったようだから名前をやろう、春北斗の禄存と名乗るが良いぞ、と言って狸の眉間を人差し指と中指でコツンと突いた。
「和尚、それって晴の奴がよくやる奴じゃねえか。」
「そうだろうとも、拙僧が教えたものじゃからのぉ。」
ここに運気を司る経穴があっての、そこにこう小突いて力をの少しくれてやるのじゃ、そう蔵王が言って禄存の頭を撫でる。勝軍地蔵は、ホホウと感心をした。
「ほれ、禄存、佐保の力になっておくれよ。お前が望めば力が湧くぞ。」
「なんか腹のあたりがムズムズします。」
禄存は、そのまま人の姿に化けて腹をポリポリ掻いた。年格好は元服前の小姓さんぐらいだ。
「じゃぁ、姫様行きますか。」
「馬鹿を言うんじゃないよこの豆狸がっ、人の姿では走っても遅いじゃないかっ、すぐ戻れ。」
いきなりの佐保姫の怒気に当てられて、禄存は目に涙をためて体が固まっちまった。
源九郎が、血が昇った姐さんは無理難題を平気で言いなさる、お前は姐さんの子分になっちまったから諦めな。慰めたのか言い含めたのか、でも、源九郎の経験から言っているのだから、諦めるのが正解なのかもしれない。
「して禄存とやら、筒はどこにおるのじゃ。」
「氷室神社の鏡池の前に陣を敷いておりまする。」
「池の前が戦場か、禄存とやらお前は先駆けて味方を集めるのじゃ。」
佐保姫から指図を受けた禄存が、狸に戻って草薮に紛れて消えてゆくのを見届けた源九郎は、氷室神社に歩を向けた。
「姐さん、このまま正面きっても宜しいか。」
「構わぬ、筒の馬鹿面拝んでやろうぞ。」
氷室神社は、昔、帝に仕える氷を扱うことに長けた者が祀られている神社であるが、大和の地に幾つか有り、佐保姫達が目指す社は、佐保のお山を南に降り東大寺の南門を抜けた先にある。東大寺にある鏡池には厳島神社があり、あの市杵島姫が祀られている。
特に何かされるとか言うことも無く、あれからわだかまりが残っているとかそういう事は一切無いのだが、佐保の足は自然と遠のいている。
木花咲耶姫が本性の現身の佐保姫とはいえ一心同体ということでもないから、あの晴十郎の件で、市杵島姫と木花咲耶姫の中が悪くなったという話も聞かない。
でも、そういうことだ。それだけ晴十郎の存在が市杵島姫と佐保姫にとって、消すことのできない胸の高鳴りだったということだ。
今、目指している鏡池はそれではなくて、氷室神社の鏡池だ。やっぱり社本殿の南にある。
そこと池の間に、夏の筒姫は春日の鹿を従えて陣を敷いていた。
金峯山に出向いている佐保姫が帰りに近くを通るだろうと見越して、この鏡池に待ち伏せのつもりでいたが、松永よりの知らせにより佐保姫は不意打ちを喰らうことなく、筒姫の目前に姿を現した。
「おい九郎、ここらに筒と名乗ったアバズレが居るらしいが、まさか、鹿に跨がったあの醜女ではあるまいな。」
池を挟んで睨み合う佐保姫が、ここぞと大声で筒姫を挑発し、源九郎も大声で返事をする。
「なにやら鹿に乗っておりますが、馬のつもりなんでしょうね、佐保の姐さん。」
「ありゃぁ、馬のつもりで鹿に跨がってるなんて馬鹿だねぇ。どうりで馬鹿面下げた女だよっ。」
筒姫はその場で馬上立したかったのだろうが、鐙が無いためにもんどり打ちそうになって、鹿の角を思い切り掴んだ。鹿は前足を浮かせて足踏みをする。
「なんだい、妖怪みたいな成りした狐に跨がった女が吠えていやがる、頭から白い煙が立ち昇ってるよっ。」
「寸足らずの品のないアバズレが一丁前に吠えるんじゃないよ、田んぼの泥でも顔に塗りたくれば少しは見れる顔になるってもんだ。」
「五月蝿え、愛宕のまえじゃぁ、あちきがありんすとか吐かしやがるカマトト女がっ。」
姐さん言われちゃってるね、皆そう思ってるという事なんだね、源九郎は声に出さずに、その思いを佐保姫に横目で送りつけた。




