恋焦
突然に障子が開いて、小僧が膳を三膳運び入れて、上座の前に並べ置く。
「和尚、あれはひょっとして見えてるのかい。」
「いんや、見えてないよ。ただ、毎日三膳をお供え代わりに運んできよる。」
その証拠ということなのか、坊主は車座に座っている四人の真ん中を突っ切って部屋から出ていった。
「精進だから破戒のお前には、物足りないかのぉ。」
麦飯と味噌をお湯で溶いただけの味噌汁と、筍と木の芽を白味噌の酢味噌で和えてある物が乗っている一汁一菜の精進の膳だった。一つが和尚へ、客が来た時用のと足りない時用三膳だ。
「丁度三膳だからお前達でお食べ。拙僧は酒が甘露での。」
「嘘でも般若湯とおっせぇすものでござりんす。」
「近くに居りながら足が遠のいて申し訳御座いませんが、人様のお世話があるのなら安心で御座います。」
源九郎がやや頭を下げながら言うと、気にするな、お前は本業とは別に久能山の相手もあるから難儀であろうと蔵王はニコニコと源九郎に返す。
「お前達、鼻垂れの悪童どもの世話にはまだまだならんて。」
「和尚それより清明がなんたらって話よ、なんだいそらぁ。」
「おぉ、そうであったな。源九郎と佐保は、その時におったから、お前も知っているとばかりに。」
そうだな、酒の肴に言って聞かせてやろう。
時は何時だったか忘れたが秋深まる九月の末に、かのご高名な安倍朝臣晴明が天寿を全うした時の事、サメザメと悲哀の慟哭の中、空に一筋の星が流れ落ちていたという。
その清明が気がついた時に、坂に立ち塞がる大きな岩の前にいたらしい。清明はポツリとこれが千引岩というものかと呟いたそうだ。
次に清明が気がついた時には、なにやら目に眩しい後光の差した人が居並ぶ前で、その後光が眩しくて顔もよく見えなかったらしいが、佇まいが帝のそれよりも数倍、ご立派だと感じたと思ったそうだ。
その居並ぶ端の方の一人が口を開き、安倍晴明お前を千引から引き戻したのは私らだ、残念なことに泰山府君にお前の半身を取られて完全ではないが、と言った。
完全な形で御上の御前に引き立てたかったが、泰山府君が安倍晴明は陰陽に優れたものであるから、我が眷属も同じなのに何故拐かすような真似をするのかというから、仕方なくではあるけれども、安倍晴明を泰山府君に渡すことにしたが、安倍晴明に元より備わっていた神格は、高天原が貰うとした。
あれは、神狐の葛葉姫と天皇の間の子で、高天原の子孫と言っても間違いはないと言う主張らしいが、拙僧が思うに、あれの母は葛葉だが父は天皇とは関係の無い人の子じゃから眉唾もんだが、何でも藤原の流れらしいが、葛葉の神格を受け継いでおるのは確かだからのぉ。
泰山府君に渡された安倍晴明は晴明神社の主に成ったが、狐の方は見た感じは瑞々しくて見目麗しく、初老の姿の清明とは雲泥で、特に女子は息を呑むほどじゃったそうだ。今は下谷殿の教えで幾分か抑えられているが面影は残っているだろうよ。
事の起こりは安倍晴明が稚児の頃に、清明を見初めた女神が欲したところからだそうだ。命を全うするまで待っておったところは感心するが、千引から引き戻すなんて余程の神様じゃて。まあ、何方にしろ名を出すから先に言っておくがの、恋慕したのが市杵島姫で、引き戻したのが姫の父の建速須佐之男命だ。
いつの世も子に甘い親というのはどこにでもいるものでな。
その命を散らさずにおれた恩義を感じるのならば、この後の態度で示せと、貴種の居並ぶ前で、清明はそう言われたそうだが、清明にしてみれば、目が覚めたら此処にいてなんのことやら、思い当たる節もとんとない。強いて言えば端の女子が清明に秋波を送っているのが分かったそうだ。
暫くは高天原で過ごしたそうなんじゃがの、言い寄って来る市杵島姫を袖にすることもできずに、誤魔化していたそうだ。須佐之男のねぶるような目付きに寒気を感じたと清明は言ってたな。
ところがだ、本人の意図のせなんだところで、由々しき事態を引き起こしてしまった、見目麗しく若返った清明に神格が備わってしまったのだからさもありなん。
拙僧には分からないことなのだが、なにやら運命の相手に巡り合ってしまうと、胸をドンと叩かれ目の前に雷が落ちてギュウと目の端が暗くなり、息をするのも忘れてしまうと聞いた。
その姿を見るとなってしまうと聞くが、清明はちょっと違って、目が合うとそうなるらしい。
聞いた者から聞いた又聞きではあるけれども、足元には七色の霧が立ち込め、清明が歩くと瑞雲がついて回ったそうだ。そして清明は目で女子を殺して回ったとか。
これはある意味天香香背男と同じくらいに高天原の脅威ではないかと神々が口にするようなった為に、清明を高天原から追放することになり摂津に流した。
天香香背男は今の常陸の信仰を集めた星の神で、鹿島や香取の御祭神の二柱でもなかなか敵わずで、なんとか封じ込めたが抑え込む為にその二柱は鹿島と香取に鎮座されたと聞く。国譲りの頃だから、拙僧なんかよりもずっと古い話じゃな。
清明はそれと同じだと言うわけだ。
此処までは清明だったり須佐之男尊に聞いた話で、こっから先は源九郎と佐保もよく知ってる話になるでの。
「私が高天原から降りてくる兄さんを出迎えたんです。」
晴明神社の安倍晴明に頼まれたと言う源九郎は、酒を舐めながら相槌を打つ。
「晴十郎は清明の現身なのかい。」
「いや、魂を分けたのだから外見の容れ物ごと別人じゃろうて。」
ただ、元は同じだから惹かれ合うものがあってもおかしくはないだろうよ、と蔵王が言った。
「それで迎えた私が此処に連れてきて蔵王様にお願いしたんです。」
高天原に縁のある清明様の所なんかより、権現の蔵王様の方が良かろうと思った次第で、結果それが良かったのやら悪かったのやら。珍しく、佐保姫と勝軍地蔵に遠慮せずにスラスラと饒舌に源九郎が語る。
「当の市杵島姫が追いかけてきてたらしいんじゃが、拙僧のこの場所には来なんだ。」
「ところが佐保の姐様が来ちゃったんですよね。」
「九郎、叩かれたいんでありんすか。」
「そうなんだよ、佐保が晴十郎にやられてしまったのは吃驚したわい。」
勝軍地蔵は口を開けたまま絶句して、手にしていた杯かわりの茶碗をポトリと畳の上に落とした。その後は、だから晴の奴の悪口言わねぇんだな、とブツブツつぶやき暗い顔をする。
「今のあちきはお前様一筋でありんす、お疑いなら指切りしてもようござりんす。」
「馬鹿なことを言うんじゃねえよ、指貰ったからって嬉しくなんかねぇよ。」
あの頃の晴十郎は、振り向きながら伏し目から、下からスッと目を合わせるのが得意技で、高天原の女子は皆が皆、腰砕けで座り込んでしまい、ほっぺを紅くしてトロンとした目で溜息混じりになっちまうから、噂の一つでも伝わっていれば抵抗出来たんだろうけどな。
青嵐の風が薫る頃になっても佐保が佐保山に帰らなくて晴十郎から離れたがらなくなっての、いつも晴十郎を目で追ってしまう。それから筒姫とは仲違いしておるという訳だ。
「今も昔もあの女はあちきの間夫を欲しがるざんす。」
佐保姫はまるで親の仇でもあるかのように、勝軍の胸を拳で小突いた。




