噂の裏
勝軍の背中の方から、気付かれないように近付いてきた年老いた和尚が、ほれ、この悪童者めが、と勝軍の頭を手にした竹箒の柄で叩く。
「なんでぇ、いつもいつもしてやられるわ。」
不意にポカリとやられた勝軍は、叩かれた頭を擦りながら和尚の方へ振り返った。これは土産だと手にしていた酒徳利と源九郎を突き出した。
「蔵王の和尚、化粧してないササでありんす。」
和尚の手を握って嬉しそうに佐保姫は近づいた。手練手管の佐保姫とは思えないほどの破顔で、子供の様な素振りを見せる佐保姫は、普段勝軍にすら見せない姿である。
「そうかい、揚巻がそう言うのなら、天之美禄の般若湯で昇天させてもらうかの、ホッホ。」
佐保姫に手を握られた蔵王の和尚と呼ばれた和尚は、これまた、孫娘と会えて嬉しい爺の様子だ。
蔵王の和尚と呼ばれたこの和尚、名を金剛蔵王権現と言い、役小角が衆生救済を願って一心不乱に祈りを捧げ、オン・バサラ・クシャ・アランジャ・ウン・ソワカと幾度となく唱えたところ、目の前にあった大きな岩が粉々に砕け散り、役小角の祈りに答えた蔵王権現が飛び出してきたのだと言う。
左足で悪鬼を踏みしめ右足で羅刹を蹴り上げる、左手で刀印を結び右手の秘剣を高々と掲げた究極不滅の真理を説く王という存在らしい。役小角がそう言ったのだからそうなんだろう。
作務衣姿で竹箒を抱えた坊主姿で、とても偉そうな和尚には見えねえが、佐保姫の懐き具合からしてもご隠居にした態度とは雲泥の差で、佐保姫にとっては大事な御人なんだろうねってのは、直ぐに分かる。
「ほら早く相手をせぬか、助六の小僧。」
「蔵王の和尚には敵わねえな。」
案内をされる前から源九郎は奥へ引っ込み勝軍は敷居を跨ぐ。勝手知ったるというところなんだろうけど、それにしたって遠慮ってもんがあると思うがお構いなしだ。
「あいも変わらず何にも無いから簡単ですよ。」
奥から源九郎が盆に載せてきたのは、豆腐の胡麻汚しと菜の花だった。
「ホッホ、起きて半畳寝て1畳、天下とっても二合半。足るをしれば自ずと何とやらだの。」
豆腐をほんの少し口に入れて、酒で流す、その後で胡麻を箸の先に一寸つけて舐めて又酒で流す。菜の花は茹でてあるのを芥子を溜まりで溶いたもので食べた。菜の花を茹でるときに、一番綺麗な色の茹で上がりで、一旦、桶に井戸水を張った中に放ち、軽く冷ましてから引き上げると、色も香りも味も良いらしい。
同じ味でからし菜ってのがあるが、あれは何時も辛くて飽きちまうが、こっちは加減ができるからこっちの方が良いと勝軍が言う。
「おい、鼻垂れ小僧が一人足りないが、あいつはなんで顔を出さない。」
「和尚そこなんでさ、何でも熊野の誓紙はどうとかで、付き合い悪いんでさ。」
なんでも東照権現絡みの訳ありで、源九郎の奴がそこんところの事情に首突っ込んでるって話でさと勝軍が源九郎をチラリと見てから、蔵王の耳元に囁いた。
それを聞いて蔵王権現は、背中に近付いてくる源九郎をギンと振り返りながら睨みつけ、自分の隣の畳をトントンと指で小突く。隣へ座れという意味だ。
臆病者の源九郎なら、見なかったふりをしてそっと逃げ出すに違いない。事実そうであり、視線をソワソワと動かすところと勝軍に捕まり諦める一連の動きまで、いつもと一緒だった。
「なにやら面白そうな話ではあるが、騙されてるんで無ければ良いがの。」
「あれは気の良い優男でありんすから、知らないところで好かねえ事をやらされてると違いますか。」
「佐保はいつも彼奴の事を悪く言わねえ、面白くねえな。」
あら、妬いてる男も可愛いもんでござりんすと勝軍に言い、白状しないとあちきは何を仕出かすか分かりやせんと、佐保姫は源九郎に凄んで見せた。源九郎は酒をグッと喉に流し込み、勝軍に目を合わせて口を開く。
「私もよくは知らないんですがね、晴十郎の兄さんを江戸から連れ出すのがご隠居の御役目だったらしいんですよ。」
「俺は家康絡みの仕事だと思ってたが、ほぉん、ご隠居も一枚噛んで江戸からってことかい。」
源九郎は、全部が全部、事細かく顔の表情に表れてしまう。しまった喋りすぎたとばかりに、アタフタと両手でもって自分の口を塞ぐ。
「まあ、拙僧達が聞いてどうこうするわけでもないのだから、胸の支えを外しなさいよ。」
蔵王は源九郎の背中を擦りながら、諭すように優しく言うが、興味本位の野次馬に見えなくもない。
改めて言うが、神の理屈やら仏の垣根を取っ払った衆生救済の権現様だ。なのだが、その老獪な笑顔が源九郎にはとても怖い。
これは私が神君様から、特に漏らすなと聞いた話なんですがね。なんでも、火産霊神様から回ってきた話で、近々、ご隠居が晴十郎の兄さんを江戸から連れ出すから、駿府で少し足止めをして、久能山の事は忘れさせろと言伝されたんですがね、ほら、私の分霊の現身が駿府に居りますから、その縁で。どういった理由でとお尋ねしたのですがね、どうやら火産霊神様よりずっと上の方からのお話らしいんですよ。私もそれ以上は何も知らないんですよ、一つ言えるのは掛川に行かせたかったらしいんですよ。それとなく話の端々に掛川を匂わせろって言われてましたから。
「火産霊神様の上の方の話ってよ、それ、お伊勢様の事じゃねえの。」
「伊勢の都合は気分次第で、善にも悪にも、天地が引っ繰り返る事すらもあるからのぉ。」
それで、下谷殿が与力で同行されなすったか、と蔵王は膝を叩く。与力じゃなくて目付けでありんすと佐保は酒を注いで回った。
「俺らと神様連中とは仲が良くっても一線引かれてるから、こっちまで話は回ってこないわな。」
「あちきは向こう側でありんすが、いつも蚊帳の外でござりんす。」
天神地祇の違いもあるが、佐保姫は山の息吹が具現したもので高天原の住人達とは反りが合わないのかもしれない。
「伊勢の都合は納得し難いものもあるでの。清明が身罷った時もそうじゃった。」




