春霞
ほら、あそこに見えるのが源九郎社だ。
「おう、邪魔するよ。」
ぅぁぅぁぁぃうぉおおおぅぁ、悲鳴なのか唸り声なのか、なんだかよく分かんねえ声が奥の方から聞こえてきやがるから、そっちを見れば源九郎が、人の背格好ではあるけれども、顔も手足も狐のそれで慌ててこっちに手をブンブン振っていやがる。
とても泡食ってこっちにに来るなって言っているような違うような、首までブンブン横に振り始めた。
「なんだいなんだい、歓迎しねぇで、帰れって言うのかい。」
あっぁあ、とまた分かんねえ声上げながら源九郎は晴十郎のほう指差した。
「久し振りじゃありんせんか晴十郎。あちきのことは忘れちまったのかと思いんしたんぇ。」
声が後ろからしたかと思ったら、何かが晴十郎に覆いかぶさってきた。どうやら源九郎が指差したのは、この声の主の事のようである。
晴十郎に覆いかぶさったのか、抱きついてきたのか、羽交い締めしてきたのか、兎に角そんな感じでしがみついてきたそれを晴十郎は振り解くことが出来なかった。
源九郎が晴十郎に、兄さん違うんです、居留守使ったんですけども押しかけられちまって、ほとほとまいってたところなんです、と言い訳を早口で捲し立てる。
「お黙り、それじゃぁあちきが疫病神じゃありんせんか、聞き捨てならないよ。」
声の主が源九郎を睨みつけると、源九郎はひぃぃと今度こそ本物の悲鳴を上げた。
「お前さん、いつにもまして切符がいいねぇ、アタシゃ惚れちまうかもしれないよ。」
「あらご隠居さんもいましたか、あちきは晴十郎に操を立ててますので、それはごめんだね。他を当たっておくれよ。」
「このおばさん誰、兄ちゃんの昔の女なの。」
「おやぁ、可愛らしい娘でありんす、飴あげるからコッチにきんしゃい。」
ぁっと小さくご隠居の口から言葉が漏れる、晴十郎もダメだダメだと言うが間に合わずに、真は近づいてしまった。飴をくれるということにほだされてしまっている。
真を捕まえて、ほっぺたをぷにぷにと手遊びしてたと思ったら、此処に飴玉があるじゃないかとギュゥゥとつねった。
「おばさんとは聞き捨てならないね、それに昔じゃなくて今も昔も晴十郎の情婦でござりんす。」
「オイラの情婦って言ったか、お前の間夫は勝軍の野郎じゃねえか。」
「おい、佐保冗談が過ぎるんじゃねえか、真、こっちに来い。」
奥の方から別の声が煙管の匂いと一緒に聞こえてきた。その声は真にとって馴染みの深い勝軍地蔵菩薩の声であった。
急にほっぺたをつねられた真は何が起こったのか理解できずにいたが、勝軍の声の我に返り、うぁぁんと泣きながら勝軍に駆け寄り抱きつく。
「兄ちゃん、兄ちゃん、つねられた。」
「わっちは悪くありんせん、桜の香りのする小娘でありんしたら、あちきは元締めみたいなもんでありんすよ、オベッカ使えとは言いしませんが、もっとこうないもんかねぇ。」
一寸見ねえうちに、なんだかお前女神になったんか、晴の野郎が名付けしたんだろうけどなんて名だい。勝軍は真のほっぺた擦りながら、これぐれえ痛くねえだろうによ、と言う。
「桜真比売命なんだって。でも真は真だよ。」
「そうかい、桜の女神様になったか。そしたらな、ありゃあ春の女神だからお前の姐さん筋になるからな、挨拶しとけよ。」
おいお前ら突っ立ってねえで早く座んな、酒が熱くなっちまうと勝軍が言えば、いつからお前が此処を仕切ってやがんでぇ一昨日来やがれと晴十郎が返す。だけれども、既にご隠居が座り込んで盃を口に運んでいた。
「アタシはもうちょっと温いほうが好きなんだけどね。九郎なんか肴はないのかい。」
「へぇ、勝軍兄さんが持ってきてくれた伊勢海老が御座いやすが。」
「それじゃあ晴十郎頼んだよ。こっちの面倒はアタシが見るからさ。」
又体よくオイラに仕事押し付けやがったわ、このでっぷり腹の化け狸めが、面倒はアタシが見るって言ったか、始末してんのはオイラじゃねえか。
「縁あってこの春より姐様の下座に加えさて頂きました桜真比売に御座います。姐様のことはなんとお呼びしたら宜しいのでしょうか。」
「なんだい少しはまともな事も言えるじゃないか、ご隠居の躾が宜しいんだねぇ。」
問われて名乗るもおこがましいが、と勝軍に佐保と呼ばれた女子が啖呵を切り始めた。それを晴十郎は見て、ブツブツと愚痴りながら源九郎に手伝えと奥の方へ引っ込んでいく。
問われて名乗るもおこがましいが、始めはいつか覚えちゃねえが子供の頃から春の風、桜の霞に柳の若葉で大和の平城染め歩き、都の東で佐保山の匂い運びし絹衣、誰が詠んだか知らねえが、吹きな乱りそ春の山風、付いた浮名が春の一柱、ご存知、佐保姫たぁあちきのことでありんすよ。
「よっ佐保姫、粋だね。ほれ真、お前も持ち上げとくれよ。」
やんややんやの拍手喝采、紅く頬染め佐保姫が鼻息荒く啖呵を切って、真を抱えて膝に乗せ、これからはあちきがお前の姐様と、言って聞かせて花吹雪。
「よかったな真、晴の野郎なんかよりよっぽど頼りになるぜ、佐保の姐御はよ。」
「佐保の姐様のお好きなように、私はそれを守ります。」
なんだか真がとても潮らしい。そりゃそうだろうとも、今まで初めこそは目付き鋭く凄んでみせるばっかりの周りだったが、それも直ぐに真のことを猫可愛がりしちまう大人しかいなかった。ここまでハッキリと怒気を含んだ物言いや仕草は初めてなのだから。
「あら可愛いところもありんすな。なら、あちきの間夫とベタベタするのも許してあげんす。勝軍地蔵菩薩の情婦はあちきだけでござりんす。」
あいも変わらず黒白ハッキリさせる女だな、それじゃ勝軍もお見限りになるぜ、と晴十郎の声が奥の方から聞こえてきた。酒をすすってるご隠居じゃぁ頼りにならないと聴き耳を立てていたのだった。
「お見限りだったのは主さんのほうでやんす。最後に顔見せたのは、ほれ、美濃の胡蝶に岡惚れして帰蝶って名付けした頃でありんす。」
「帰蝶って兄ちゃんの昔の女でしょ。さっきも会いに行ってた。」
おい真、さっきまでの潮らしい態度はどこに行ったんでぇ、そのズケズケした物言いをいつもだったらご隠居が戒めるもんだが、殊の外オイラに関することに限ってあの狸親父はだんまりを決め込んでやがる。
「小粋な二枚目なのに、いつまでも女々しくて野暮な男でござりんす。」
佐保姫、もういい加減黙れ。




