事の起こり
ここまでが噂の大筋だが、本当のところの振袖火事の話は全く違う話である。
事の起こりはこうであった。
江戸幕府に、阿部忠秋という先代将軍の家光から殊の外寵愛を受けた老中が居た。
家光は元来、無茶苦茶な難題を面白がって押し付ける遊び癖があったが、大抵の者は叶えることが出来ずに機嫌を悪くする事が度々にあったらしい。が、忠秋が一言申すとすとんと機嫌が治った事がままあった。
家光が庭に小姓を連れて散歩に出た時の事。途中櫓に登り、小姓に、ここから飛び降りた者には褒美を使わすと言う。
櫓とは、高所から辺りを見渡したり、いざという時にはここから弓を射る為の建物。簡単に登れるとはいえ低ければ役目を果たさないので、それなりにそこそこの高さがある。
小姓全員が一同の顔を見渡しそして顔を伏せてしまった。それを見た家光は当然のように不機嫌になり、ボソッと忠秋ならばどう答えたであろうのと呟く。
それを聞いた小姓の一人が、恥を忍んで忠秋のところへ教えを乞いに行ったところ、忠秋は、そんなときは傘があれば開いて降りますとお答えなさい、上様はそれ以上の無体はなさらないはずです。其方が大怪我でもしたら大問題ですから。そう笑って答えた。
後日同じ櫓で同じ状況になった時に、家光は同じ問い掛けを小姓に投げる。そして、忠秋に教わった通り、傘があればと答えたら、家光は大きな高笑いをしてその小姓を大いに褒めた。
其方先達に教えを乞うたな、それで良い。但し噛み砕いて己のものとするのだぞ。おおいに励め、と言いながら。
話を戻そう。この阿部忠秋の屋敷から出た火が発端である。それが神田と湯島の方へ飛び火しただけに収まらず、江戸城の天守を焼き落とし数多の死者を出してしまう。
これを内密に出来たのは、保科正之の鶴の一声である。老中の屋敷から失火したなどとは口が裂けても言えないと。
但し調べは付いていた。阿部忠秋の失脚を狙った政敵からの邪な攻撃である放火であると言うところまで分かっている。いかんせん証拠が無い。何処の某まで分かるが、腹の探り合いやら狸の化かし合いに終わってしまう。
だから本妙寺に頼み込んだ。身代わりになってくれれば悪いようにはしない、それ相応の話の筋も此方で用意するからと。
よく出来た話だったが、そもそも法華宗の本妙寺に真言宗や密教が行う護摩焚きは無い。火事事態は同時刻ではなく、一つ一つが半日くらいの隔たりがある。
ただ、江戸の噂を集めるのには十分だった様である。火元になった本妙寺に避難の声が集まることは無く、菊や娘の無念を供養しようとしたが、恋慕の無念が勝ってしまった様だと、皆々の涙を誘った。勿論、遠州屋も菊も作った話で実在していないのだから、それ以上野次馬が騒ぐこともなく、江戸の立て直しに皆々が力を注いだ。
焼け落ちた江戸城天守の再建を如何いたそう、資金を大名達に捻出させてはどうだろうかなどと、お偉方がああでもないこうでもないと言い合い、では其方がやってはどうか、いやはや貴殿のほうがお役に立てるのではないかと始末を押し付け合う。とても立て直しどころではない。そこへ、天守の再建は一旦棚上げしてその資金を江戸の町に使おう、と声を上げたのが保科正之。
この保科は先代の家光公の異母弟に当たるお方で、長らく徳川一門に認められなかった方ではあるが、偶然ながらも事情を知った家光公に、正式な公言こそ無かったが、格別の計らいを受けたそうだ。なんでも、慣例として家光公しか着ることのできなかった萌黄色の直垂と烏帽子の着用を許されもした。
その保科肥後守が言う事である。反論は一切無く即座に始末が進んでいった。
火事の後、水をかけられた焼け跡のくすんだ匂いや、焼け出された人達が座り込む辻角など、辛くて悲しいさまの雰囲気が、向こうから此方の空気の全部を支配していた。
がしかし、少しずつ少しずつではあるが、笑顔が戻りつつあった。
空が高くて青く雲が白い。それだけで優しい気持ちになれそうだ。




