腰掛石
真と東風が遊びつかれて湖面から上がってくると、その乗っていた馬が霧のように霞んで真の打掛に吸い込まれていった。真の打掛にあしらった馬の刺繍が、どうやら具現したようである。
「おい、その馬どうした。」
「なんか出たらいいなって思って、振ってみたら出た。」
兄ちゃん、なんか色々理解できないよ。ついこの前まで、草鞋切りの小僧は娘になってオイラの妹に成ったまでは、まあいいや、その後だよその後。
ほうぼうから貰いまくって、それを振り回せば刀になるわ馬になるわ、ちょっとした悪意は跳ね返すわ神になるわで、もう兄ちゃん必要無いね、オイラが弟に成りたいよ。
「んで、その馬名前付けたのか。」
「うん、薄墨。」
知ってか知らずか意味深な名前を付けるね。
木曽の舞台の仕手役、朝日将軍の愛馬が薄墨で、九郎判官の愛馬太夫黒も薄墨毛だったから、元々は薄墨と呼ばれていた。
芦毛によく似た灰褐色の毛色だが、芦毛は成長するにつれ白が強くなり末は白馬になるのだけれど、薄墨は毛色の変わりが無い。
「含みを持たせるなんざ、なかなかどうして賢いね、アタシの孫は。」
火産霊神が言うなら分からないでもないが、腹黒狸まで孫って言い出しやがったよ。含みってのはアレか、打出浜の敵味方が愛した馬を、神の真が乗りこなしたって言いたいのかい。本人は絶対にそんな事思っちゃいねえよ。
やっとこさご隠居の腰が上がって西へ向かい、山科に辿り着いた。ところでご隠居がまた疲れたという。
「丁度いいところに、義経の腰掛石がありなすったからには、座らないとね。」
「さっきも言ったでしょうよ、疲れたならそう言ってくれと。」
此処らへんは須佐之男命様の目があちこちにあるから、早く通り過ぎたいんですがね。見つかったら、俺の娘の何が気に入らないのかと詰め寄られちまう。
「兄ちゃん、義経って何。」
「義経ってのはな、オイラの孫弟子だけれども、まあ可哀想な奴だ。」
簡単に言えば、型破りで機転の利く男だったけれど、京の出なのに粗野で無骨で田舎者そのもの、我が強く人の言う事なんかこれっぽっちも聞くことができない、だから嫌われることも多くて、本人にその気はないけど勘違いされて、結局、口の上手い奴の悪口で身を滅ぼしちまった。
晴十郎が使う剣は京八流だが、元々は晴十郎が鞍馬山の烏天狗に教えた鞍馬流の事で、その弟子に源義経がいる。
実のところ、暴力的な行動の話が沢山ある。
五条大橋なんかは、短絡的に見れば弁慶を力でねじ伏せた話だし、正にご隠居が腰掛けている腰掛石の話もそうだった。
父の源義朝が平清盛に敗れた後、義朝と常盤御前の間の子の今若、乙若、牛若、は皆男子であった為に処刑される事になる。が、常盤御前の懇願で、命を拾いそれぞれ別の寺へ預けられる事になった。
そのうちの牛若は鞍馬寺に預けられ、源九郎義経となった。義朝の九番目の子供だから九郎だ。
この常盤御前が、京の都で一番の美人は誰かと聞くと、まず間違いなく常盤御前の名が出るほどに美しく、俺の物になれと言う清盛に従って、なれば子供たちの命ばかりは、と懇願したので、清盛は子供らが出家して僧になることを条件にそれを飲んだ。
それから、清盛と常盤御前がどうなったかは分からないが、清盛から離れた常盤御前は藤原某という貴族と再婚し三人の子供らも無事である。
その義経が十五歳くらいの時のこと、遮那王と名乗って鞍馬寺に居た義経は、再三の出家の促しを拒否して京の都を抜け出す事にした。
その時に追いかけてきたのか、偶々出会したのかは分からないけれども、十人の平家主従に出会した。
そこで争いになり、義経は平家の供廻り九人を斬り殺してしまった。
齢十五歳にして人を簡単に斬り殺してしまう胆力を物語る逸話ではあるけれど、普通は無手ならまだしも刀でもって、躊躇わずに人を斬るどころか殺してしまうなんざできやしない。鞍馬寺で人を斬った経験でもあったのだろうか。
義経方にも弁慶や供廻りが居たであろうが、九人を斬り殺したという事は眉唾もんで、結構な誇張があると思うが、斬り殺したという事実はあったんだと思う。
その時に、血糊の付いた刀を洗った池があったのがこの辺りで、その後に一休みして腰掛けた石が、ご隠居が今座っている石だ。
我ら神々やその眷属なんかも、千早振る荒神やら祟り神どころか豊作やら雨乞いの神様までもが怒らしちまったら鎮めるのに大変な思いをするが、良い例が件の蛟様だが、まあアレだ、似た様なもんか、気紛れで暴れちまうおっかねえ神様も居るしね。
北国に住んでいる神様が南国に住んでる姫君を口説きに行ったわけだ。途中で疲れて一夜の宿を人に頼んだ。神様なんだから、どうにでもなるのに、わざわざ頼んだわけだ。
門構えも立派で大きな家を訪ねたが、身なりもみすぼらしく少し怪しい神様の姿を見て、当然断る。次の家に頼みに行った。
そこは先程の裕福な家と比べてみすぼらしく、隙間風が入り込むような家だったけれど、主人の蘇民将来は、今出せる食べ物全てで神様をもてなした。
それで神様は言うわけだ。
儂は北から南に嫁取りに向かう途中だ、お前のもてなしが殊の外嬉しい。だが、あの家はもてなすどころか、儂を追い払った。だから、ここらを滅ぼすことにした。だが、お前は許そう、茅で編んだ茅の輪を身に付ければ、厄災が横を通り過ぎるだろう。
儂は建速須佐之男だ、信じなくとも構わない。
それだけ言うと、かき消されるように薄れて消えていった。
程なくここら一帯に疫病が流行り、それに侵された人がバタバタと死んでいった。蘇民将来の一族は茅の輪を付けていたので助かったそうだ。
暴れるのとは少し違うが似たようなもんだ。神の御技の術を持つ御方が、一夜の宿を断られたから辺りを厄災で呑んでしまうなんざ、その程度で気紛れ起こしたとしか思えない。
真がそうならないと良いが、先のことは分からねえ。
確かなことは、オイラがこの道に引き釣り込んだわけだから、いざという時には体を張らにゃぁいけねえ。その覚悟を今から考えねえとな。
「おい、真。どうだい、桜が綺麗だろう。」
真はウンと頷いて、晴十郎の真似をする。
片目を瞑りたいんだが瞑れなくて両目をギュッと瞑った。




