疑念
遠江掛川藩の主城である掛川城、現在では一国一城が原則であるから、支城は殆ど廃城されている為にl主城という呼び方は正しいのか間違いなのか分からないけれども、その主城は、徳川一門の北条氏重が藩主として治めていた。
元は甲斐源氏の武田の家臣であった父と神君の異父妹である母を持つが、後北条の養子になり北条を名乗っている。
徳川一門ながら松平を名乗る事を許されておらず、一処にあまり落ち着くことはなく、何度も国替えを繰り返した。配置転換などの幕府の政策ではなく、どうやら懲罰の意味合いの方が強かったらしいから、愚鈍と揶揄されることもままあったらしい。
蛟の住処の池を埋め立てたのも、大した理由は無かった。たぶん、多分だけれども、狩場にあって邪魔とかそんなところの理由じゃないかと思う。
その程度の理由ならば、元に戻させるのも簡単だと思うが、さて、どういう理由で戻させようかと晴十郎の頭を悩ます。
蛟には少し待つ猶予をもらったのだけれども、地面の亀裂が限界を迎えている事もあり、余り時間が無いのも本当の事だ。
山津波云々なんかはどうせ信じやしないだろし、夢枕に立って脅かすぐらいが関の山。やるだけやって手を尽くしたと誤魔化すのも、男、晴十郎の名が廃るってもんよ。困ったものだね。
北条氏重は夕餉の膳の前で溜息を付いていた。好き嫌いを口にしても叶えて貰うことは叶わず、いつも、出された物を食し腹一杯にする事も出来ない。出された物を全部平らげようとしても、それ以上はお身体に宜しくありませぬ、と膳を下げられてしまう。たまには、酒が付いてくる時もあるが、何かの節目の時だけだ。
これが江戸であれば、二、三人の供を付けねばならぬが、市中を回って好き放題出来たものだった。深川で食べた浅利の剥き身を味噌で炊いた汁を飯にぶっかけたのが、特別に美味いわけでもなかったが、供と一緒に腹一杯に出来た。人と一緒に食べる事が何より格別の美味になったのは言うまでも無い。
今は一人で膳に向かい、まるでお役目かのように箸を運ぶ。八方に剥いて炊いて塩を振っているだけの里芋を、溜息混じりで口に運ぶ。
夕餉の後は、何をすることも無く、少し早めに床に付いた。明日は馬を出して何処かに行こうと考えながら眠りに就く。
ストンと眠りに落ちてから少し、今は何時なのだろうか、何かの気配で目が覚めた。不寝番が炭の様子を見に来たのだろうかと気に留めなかったが、枕元に置いてある香炉がチチチチチチと音を立てた。鳴いているように聞こえた。
不思議な事もあるものだと思った。まるで豊臣秀吉の寝所に石川五右衛門が忍びこんだ時の話そっくりだ。それと違うのは、自分以外誰も居ない。
寝直すかと思って布団を引き寄せたら、吃驚して息を飲んだ。胸がドキンと痛みを伴い音を立てる。心の臓が止まるかもしれないと思った。
布団の横に、此方に平伏している男とその少し後ろに艶やかな打掛を羽織った小娘がいる。
「掛川城主、北条氏重様とお見受け致します。」
手前の男が口を開く。少し小さなゆっくりとした口調だが、ハッキリと澱み無く聞こえる声だった。
この部屋を隔ててる襖の向こうには宿直の家中の者が居るはずだ、誰か居ないか、と言おうとしてやめた。この二人はこの世の者で無いのだろう。恐らくは城が傾いた事と関係している怪異なのかもしれない。
そう考えないと辻褄が腑に落ちない。誰にも気づかれずに此処にはこれないのだから。
父祖に地黄八幡の北条綱成を持つ家であるから、いささか年を召したとはいえ度胸は未だあるつもりだ。床の間の刀に手を伸ばし、この悪鬼妖怪めがと、刃先を目の前の男に振り下ろした。
「その様なご無体、御容赦下さいませ。」
確かに斬ったはずだが手応えが無い。それどころか目の前の男は構える素振りも避ける素振りも無く、へりくだった感はするが、暗に無駄であると言ってきた。
その男はゆっくりと顔を上げこう言った。
「我らの意図は言わずもがな。お前様の狙いが同じ事を切に願うばかりです。」
「言葉を濁しているのでは、何を言っているのかよく分からない。身共にもよくよく噛み砕いてくれぬか。」
斬り伏せることを諦めた氏重は布団の上に胡座で座った。
「お前様が怨敵と指を指すのは雨桜様の縁故の白蛇でございましてな。時を重ねて蛟に成られ、果ては龍神と成りて遠江を鎮護為さる御方なのじゃ。」
やはり、あの話に関わった話であったか。ということは、加持祈祷も効果があって、その蛟とやらが苦しんでおると言う事か。その蛟とやらの姿が無いのがその証拠ではないか。それとも、後ろの小娘がそうなのか。
「後ろの姫君がその蛟殿か。」
「桜真比売命様に御座います。」
「では、当の蛟殿は来られないのか。」
やはり祈祷が効いて苦しんでいるのだろう、切羽詰まって使いを寄越したのだな。
「お前様の考えは調伏ということなのでしょうが、蛟殿のお考えは少し違いましてな。」
男は沈黙の間も無く語りだした。切々と説く様でもあり、感情を乗せずに淡々と言葉を重ねている様でもある。氏重は、何とも腹の中が見えてこない男だと思った。
その男が言うのには、城を傾けたのは、少し脅せば池を元に戻すだろうと思っていた。だが、怨敵との名指しを受け憤慨してしまったという。
その蛟を怒らせたと言うが、池を埋めただけなのに城を傾けるほうが悪いのではないか。
「お前様は城下に漂う匂いにお気づきか。」
そう言えば、最近少し臭う。それもあまり良い匂いではなく、どちらかというとムカムカと鼻につく匂いだ。だけれども、それがどうして今の話に結び付くのか理解出来ない。
「もし、もしも、今山津波が起きて、この傾いた城を飲み込んだらどうなるとお思いか。」
言うまでもない。城は流れ城下は埋まり田畑が潰れる。北か南の山どちらかは分からないが、北なら東海道が潰れてしまうし、南なら城が潰れる。
どちらにしても、江戸は掛川藩の問題にするだろうという事は容易に想像が付く。
その時に、部屋の襖が開いて、別の男が入ってきた。宿直が。やっと異変に気づいたと思ったが違うようだ。
その男は、先ず件の男に会釈をした後に、小娘に平伏し、その後にあろう事か掛川藩主である氏重を蹴りつけた。
「何故お前が桜真比売命様の上手におるのじゃ。」
その男は、氏重と桜真比売命と呼ばれる娘との間に腰を下ろした。
氏重は眉をひそめて自分を蹴った男を見ると吃驚した。まだ年端もいかない幼子の時に、御目見得が叶ったあの御人に瓜二つだったからだ。
あの時は、髷も鬢も真っ白で優しく微笑ってはくれていたが、眼差しだけが物凄く怖かった。それにそっくりだが、顔全体が恐ろしい。
氏重はその場で平伏し床に額を擦り付けた。
「大御所様。」
「なんだ、覚えていたか。」
最初、あの二人が現れた時の驚きどころではない。頭が真っ白で、どうして何故、何がどうなってると必死に知恵を絞り出そうとしたが、何も思い付かない。
「お前、大層なことを仕出かしてくれたな。ワシが出張って仲立ちしたところで、治まるかどうか。」
大御所と呼ばれた男は、持っている扇子で氏重の後ろの首のあたりを叩いた。




