深淵の主
「ごめんよ。邪魔するよ。」
蛟の娘の案内で連れてこられたところに、その当の蛟が居た。例えて言うなら、物凄く大きくて牙の鋭い白い蛇だ。巻き付かれたら息もできずにお陀仏に成っちまうんじゃないかと心配してしまう。
外の冬の寒気のせいかもしれないが、少し寒い。
丸まっていた蛟がゆっくりと鎌首を上げて、こっちを見る。
一瞬だった。瞬きをする間もなく、蛟の口が大きく開き牙が光りグワッと飛び掛ってきた。
周りと自分と蛟の時間の流れがおかしくなっている。周りがゆっくり見えるのに、蛟の動きが素早くて、そして自分の身体が重い。ひょっとして、稲妻に打たれるとしたらこんな感じなのかもしれない。
こりゃぁ、いけねえ。
晴十郎は、真が着ている打掛を脱がすと、それで蛟を払うように真の前でクルリと振り回す。
カンと少し低い金物のような音がして、蛟を打ち払ったけれど、こちらも三尺一寸後ろにぶっ飛ばされた。
蛟が疾風迅雷の如きなら、晴十郎は電光石火の神速だ。
打掛を真に羽織らせて、真の髪に挿してあるご隠居の簪を引き抜くと、それを真の手に握らせた。不思議な事もあるもんだ、簪がスルスルと延びて小太刀になった。
「兄ちゃん、もうちよっと長いほうが良い。」
全く、文句言うんじゃないよ。晴十郎は小太刀の束から刃先の方へと親指で擦り上げていく、と、打刀ぐらいの二尺一寸の刀になった。
真は満足したのか片手で、ブンと振り下ろした後正眼に構える。
お前にそれはちと長いだろうに、それにその構えも教えていないのに、なんか納得出来ない。神っていったら、刀より太刀、太刀より剣、剣より弓だろうによ。
下から風でも吹いているかのように打掛の裾と真のほどけた髪が浮き上がり、真の身体からユラユラと陽炎のような湯気のようなもの、湯気なんかよりもっと良いものなんだろうけど、立ち上ってぼんやりと真の身体が光って見える。
千早振る神より瑞々しい女神になってもらいてえが、しかし、こりゃぁ、なかなか絵になってるね。
「おいおい、いきなりのご挨拶だね。」
蛟は白い息を吐いているだけで、晴十郎の言葉に口を開くことはなかった。それどころか、晴十郎に隙でもあらば、二の矢を継ごうとしているのか、眼光鋭く身構えている。
「山津波ってのを聞いたが、そらぁ余りにもいきなりじゃござんせんか。」
「正気を失ってるとでも思ったか。」
蛟が口を開いた。
「山津波起こそうなんざ、そらぁ失ってるでしょうよ。」
地すべりも山が崩れて土砂が降ってくるが、それが鉄砲水で勢い増したのが山津波だ。蛟がどうヤッたか知らねえが、地面やら崖やらにひび割れ作って後は長雨が降ったら出来上がりだ。
嫌な臭いがしてるから、あまりゆっくりしてると、山津波が起こっちまう。一度起きたら、御上でも止められないだろうて。
城は勿論、家々、人、動物、草木、田畑までもが土の下になっちまう。そしたら、ここら一帯は怨嗟で溢れ叫喚の響き渡る奈落の底だ。
「お前様は、黄泉平坂の千引岩を割るおつもりか。」
「深淵の主に成るのも一興。」
「お前様は何か勘違いをして居られぬか。このままだと朽ち果てる命運を、お前様の娘が方方に手を尽くし力添えを頼み込んでいるのだぞ。」
主になるなんぞ夢のまた夢。塵と成って消える他ない。
道案内をしてきた娘がシクシクと泣き出す。光に仇なす悪鬼に変わりつつある父を前にすれば無理もない。
「なら、のこのことここに来たお前達を先に牙にかけ、山津波をお前達の血溜まりで染めてくれようぞ。」
蛟が襲いかかってきたが、真の刀が弾き飛ばす。不意打ちでなければ、幼い真でも打たれやしない。そうだろうとも、名だたる神々の愛娘なのだから。
晴十郎は、蛟の牙の届く範囲に近寄って手を広げて見せてドッカリと腰を下ろした。蛟はそれを訝しがって少し体を引いた。躊躇したのではなく、いつでも襲いかかってやろうと体制を整えたのだ。
「何もお前様をとって喰おうなどとは少しも考えておりませぬ。」
「晴の兄ちゃん喋り方少し変。」
兄ちゃん今仕事してるからな。今良いところなんだから口を挟むんじゃないよ。真は大人しく前見て刀構えていなさいよ。
「この娘を御覧なさい。この娘は御上がお前様に肩入れする証として、差遣わして下さった娘なのですよ。」
「そうだったのか、知らなかった。兄ちゃんその事知ってたの。」
いや、頼むから黙っててくれ。そしてもう少しキリッとした顔付きでいて下さい。
「お前様の牙を跳ね除けることを出来たのが証に御座いますよ。」
話を聞くだけ聞いて駄目なら、山津波でも地割れも何でもしてくれ、と晴十郎は蛟に詰め寄った。
それに納得したのかどうか分かんねえけども、蛟は鎌首を少し緩めた。
「この私めが、話を付けてご覧に入れようぞ、そして頭を彼奴めらに垂れさせて見せまする。」
「御上の恩情と言うたか。ならば待つのもやぶさかではないわ。」
「では、仕上げを御覧じろ。」
さあ、真、行くよ。晴十郎は真に片目をパチリと瞑って出口へ促すと、真の方はやっぱり片目だけを瞑ることが出来なくて、両目をギュッと瞑って返して晴十郎の手を取った。




