駿府
どうも下谷の御隠居様、ご無沙汰でございます。んで、いつの間に、娘さまが、いやお孫様でしたか。源九郎と呼ばれた黒狐が、真の手を引きながら訪ねてきた。
「いやね、娘でも孫でもないんだよ。晴十郎の妹なんだよ。真と呼んであげておくれ。」
今までの経緯をかい摘んで話して聞かせると、へぇ、それは嘘みたいな話でごさいますね、と源九郎が肩をすぼめてみせた。
「そうさ、このオイラの妹は、嘘から出た真さ。」
兄さんが上手いこと言ったらお城に着きました、こちらからどうぞ。と連れてこられたのは、神君の居城であった駿府のお城。
大手門を堂々と通り抜けられるのもそのはずで、お狐様の御一行は人様には見えないのだから、呼び止められることも立ち塞がれることも無い。
通されたところは、広すぎず狭すぎず、五、六人程度が丁度いいくらいの広さだった。
「此処はお城の台所の隣で具合がよろしいんですよ。昔、兄さんが神君に口聞いてくれたお陰でございます。」
「あの約束はまだ生きているのかい。」
「そうですね、東照大権現に成られた家康様からは特に何も。」
これにつながる元々の話はこうである。
昔、徳川家康が征夷大将軍を秀忠に譲り、自身はこの駿府のお城にて、日の本に覇を唱えようかという頃の話だけれども、なんだかんだの縁があって、晴十郎家康がちょっとした話をする事があった。どういう話かは今は端折るが、まあ、晴十郎が家康に貸しを作ったから、家康が晴十郎の頼みを聞いたと言う事なのだ。
その頼みが、今後、駿府のお城の台所に黒い狐が現れてもお咎めなしという頼みだ。その黒い狐がこの源九郎狐というわけだ。
未だに守られている約束は、神様と人様の間のお話だから、そう簡単に破ることのできないのはわかるが、東照大権現に成られた神君家康公は、晴十郎と顔を合わせることのできるお立場になったのだから反故にできると思うんだけれども、律儀に守られているという訳だ。
ん、まてよ。駿府のお城は久能山の東照宮の縄張りだから、神君は、オイラが来ている事に気付いてるはずだけれども音沙汰がない、顔も見せない、知らぬ存ぜぬを決め込むつもりか。元はといえば、幕閣の争いの火事でその後始末にオイラが使い走りさせられてるんじゃねえか。そこに狐の格好した下谷のエセ狸がいやがるが、まっこと本物の古狸だな神君は。オイラは騙されねえよ。
晴十郎の心の声は、苦虫を潰したような顔になって表に出てきた。
「あるときに、城のお侍と腰元が雪隠で逢引を繰り返したことがあって。」
このままでは城の風紀がままなりません、家康様、ご処断下さいますように、とお付のお侍が進言したところ、少し灸をすえたら、後は、皆が見たのは台所の狐だろうよ、そういうことにしておけ、と家康公。
「私のせいにされたので御座いますよ、非道い話でしょう。」
それからも辻褄の合わないことは、黒狐の悪戯にしておけと全部私のせいですよ、まあ、そういう事もあって、約束をお守り頂いているんじゃないでしょうか、と源九郎は言った。
「さあさ、鍋が煮えましたよ。包丁好きの兄さんには敵いませんが、どうぞどうぞ。」
ほれ、真さんもどうぞ。と源九郎は真に椀を持たせて促した。鰯のつみれと豆腐と大根の菜を味噌で煮た鍋で、つみれと豆腐の隙間に熱々の味噌の汁が染み込んでいて、噛むと旨味が飛び込んでくる。これに胡椒を少しかけるとこれまた美味い。
胡椒は日の本で育てることができなかったので、唐からの商いでしか手にはいらなかったが、どっかのお寺で育てることに成功してから、結構手にはいるようになった。
胡椒を日の本で育てられたら商売にならないから、唐の商人達はそれに熱湯をかけてから日の本に持ち込んでいたそうだ。
それを畑にぶち撒けたところ、そのなかの二粒だけ芽が出たそうだが、聞いたところでは、五石もの胡椒をぶち撒けたというから随分と豪快な話だ。
「これはな、頭痛い時に粒のまま、一粒齧ると治っちまうよ。」
ご隠居が真にそう教えていた。江戸では、薬喰いといって、風邪を引いたときには、粉にしたのを飲むそうだ。
「兄さんの妹さんなら私の妹さんにでもなるんですかね。」
真の椀に豆腐とつみれをよそいながら言った。
「わからねえぞ。何しろ、元は化け物だったが、今じゃホムスビ様のお気に入りだし、後ろにゃ勝軍とご隠居が控えてダイナリの兄貴の加護まで手にしちまった。お前、子分になるんじゃねえの。」
それを聞いた源九郎はアハハと笑う。
「良うございますよ。晴十郎の兄さんのお身内なら子分でも。なんなら、佐藤忠信にでも、なりましょうか。」
「それじゃぁ真は静御前か。」
「静御前ってのは知らないけど、オイラは木花咲耶になるんだから、その御前にはなれないや。」
ほれ、口の周りが汚れているよ、駄目じゃないか。ご隠居は真の口を手拭いで拭い、真の姿勢を正さした。
「オイラって言ったらいけないよ。私って言いなさい私だよ。ほれ、いつ何時でも背筋伸ばしてシャンとおしよ。」
端から見れば、世話好きの爺と落ち着きのない孫だ。この先、綺麗になる娘だって言ったって、こんなんじゃぁダメなんじゃねえの、と晴十郎は思う。
口ばっかり達者になりやがって、静御前は知らねえとほざきやがるが、木花咲耶だって知らねえだろうよ。
晴十郎は酒を喉に流し呑む。
「これは旨い酒だね。流石は神君家康公のお膝元、駿府のお城だな。」
「酒だけじゃ御座いませんよ。今じゃ幕府直轄地になってから旗本さんが詰めていますが、当初より劣ったとはいえ、魚も菜も見事なもんです。」
今頃は鴨が旬でとても美味いですよ、二、三日ゆっくりしていってくださいと、源九郎は晴十郎とご隠居に酒を注いだ。




