第九章:告発
エレベーターを降りると、穂乃香の部屋のドアはすでに半分開いていた。廊下の照明が、開いたドアの隙間から漏れる光と重なって、床に細長い影を作っている。明莉は靴を脱がずに、玄関の三和土に立ったまま、穂乃香の顔をまっすぐに見た。パジャマ姿の穂乃香は、部屋の明かりを背にして、少し戸惑ったような表情を浮かべていた。
「知ってたんでしょ? 健人くんが、あなたを好きだって」
前置きも、挨拶もなかった。ここまで来る道すがら、何度も頭の中で練習した言葉のはずだったが、口に出すと、思っていたよりずっと平坦な声になった。息を切らして歩いてきたせいか、それとも感情が高ぶりすぎて、逆に声が凪いでしまったのか、明莉自身にもわからなかった。エレベーターの中で何度も繰り返し練習した台詞は、実際に口にしてみると、思っていたのとはまるで違う響きを持っていた。玄関の外から吹き込む冷たい風が、明莉の頬をかすめていった。
穂乃香は一瞬、視線を泳がせた。それから、ドアを閉める手を止め、その手が小さく震えているのに、明莉は目を留めた。パジャマの袖口を、無意識に握りしめている仕草も見えた。長い付き合いの中で、穂乃香が緊張した時に見せる癖を、明莉はよく知っていた。今、その癖が、いつもよりずっと強く現れていた。
「確信はなかった。でも、言わなきゃいけないことがある」
その返事は、明莉の問いをきれいに閉じなかった。肯定でも否定でもない、宙ぶらりんの言葉。明莉は靴を脱がないまま、玄関の中へ一歩踏み込んだ。
「中で話そう」
穂乃香がそう言って、明莉を招き入れた。玄関脇の短い廊下を進みながら、明莉はふと、穂乃香のスマートフォンが充電器に繋がれたまま、画面が暗くなっているのが目に入った。履歴を見せろとまでは言わなかったが、その空白の画面が、かえって明莉の疑念を刺激した。廊下の壁には、二人で選んだ小さなポスターが飾られていた。何年か前、雑貨市で見つけて、どちらが買うかでじゃんけんをした末に、結局穂乃香の部屋に飾ることになったものだった。そんな些細な記憶までもが、今この瞬間、鋭い痛みを伴って蘇ってきた。廊下の突き当たりには、季節ごとに入れ替える小さな観葉植物が置かれていた。今は、正月に向けて南天の実が飾られている。いつもなら、その赤い実を見て「もうすぐお正月だね」と何気ない会話を交わしていたはずだった。今夜は、そんな会話をする余裕は、どちらにもなかった。
「私の知らないところで、気持ちを通じ合わせてたんじゃないの?」
声に、抑えきれない棘が混じった。穂乃香は足を止め、はっきりとした声で答えた。目を逸らさず、まっすぐ明莉を見つめたままだった。
「二人で会ったことも、連絡を取り合ったこともない」
その否定は、事実なのだろう。穂乃香が嘘をつくとは思えなかった。それでも、その事実は、明莉の傷を少しも小さくはしてくれなかった。会っていなくても、連絡を取っていなくても、健人の気持ちが誰に向いていたかという事実そのものは、変わらないからだ。玄関の照明の下で、二人はしばらく無言のまま向き合っていた。
「信じるよ、それは。でも、それで安心できるわけじゃない」
「うん、わかってる」
穂乃香はゆっくりと頷いた。反論も、言い訳もなかった。その素直さが、かえって明莉の胸を締めつけた。
リビングのローテーブルに、穂乃香は白湯を二杯運んできた。湯気の立つカップを前に、二人は向かい合って座った。どちらも、その白湯に手をつけなかった。部屋の暖房の音だけが、低く響いていた。壁の時計は、もうすぐ午後十時を指そうとしていた。
「今日、健人くんと話したの」
明莉が切り出すと、穂乃香の肩がわずかに強張った。カップを持つ手に、力が入るのがわかった。何を言われるのか、身構えているようだった。窓の外では、雪がさらに強くなり、窓ガラスに雪の粒が当たる音がかすかに聞こえていた。テーブルの上の白湯からは、まだ細い湯気が立ち上っている。
「別れた。ちゃんと、自分から」
明莉はそう続けた。健人との別れを、まるで別の世界の出来事のように、淡々と語っている自分に驚いた。今夜という一晩で、自分の人生の中の大きな二つの関係が、同時に揺れ動いている。その現実の重さを、明莉はまだ完全には受け止めきれていなかった。
「そう……」
穂乃香の声が、かすかに揺れた。その反応が、慰めなのか、安堵なのか、それとも別の何かなのか、明莉には読み取れなかった。カップを持つ穂乃香の手が、わずかに震えているのが見えた。
「明莉が告白するって言った日も、私は好きだった」
穂乃香が、低い声で、しかしはっきりと口を開いた。明莉は息を吐き、反射的に飛び出しそうになった言葉を、いったん飲み込んだ。カップの中の白湯から立ち上る湯気が、二人の間でゆっくりと形を変えていた。
「じゃあ、どうして応援したの」
問いは、責める口調にはならなかった。むしろ、本気でわからなかった。穂乃香は少しの間、言葉を探すように黙り込んだ。
「明莉のため……」
そこまで言いかけて、穂乃香は自分の言葉を止めた。カップに映る自分の顔を見つめながら、しばらく黙っていた。
「ううん、違う。明莉のためじゃない。私が、怖かっただけ」
その言い直しに、明莉は何かが小さく動くのを感じた。美しい理由を取り繕おうとして、それを自分で撤回する穂乃香を見たのは、初めてだった。長い付き合いの中で、穂乃香はいつも、誰かのためという理由を、行動の柱にしてきたはずだった。その柱が、今、目の前でゆっくりと崩れていくのを、明莉は見ていた。ソファのクッションを抱きしめるようにして、穂乃香は身を縮めていた。
「怖かったって、何が」
明莉は落ち着いた声で問い返した。責める口調ではなく、純粋な問いだった。この一晩で、明莉は自分の中の怒りが、少しずつ違う形に変わっていくのを感じていた。
「明莉に嫌われることが。それから……自分の気持ちを認めることも」
穂乃香の声は、次第に小さくなっていった。それでも、その言葉のひとつひとつが、これまでの曖昧な態度よりも、ずっと明莉の胸に響いた。
「認めるのが、そんなに怖かったの」
「うん。認めた瞬間、もう後戻りできなくなる気がして。明莉と健人さんが幸せそうにしてるのを見るたびに、自分の気持ちを、ないことにしようとしてた」
穂乃香の告白は、堰を切ったように続いた。声には、これまで抑え込んできた感情が、一気に溢れ出ているようだった。指先が、白湯のカップを強く握りしめている。
「でも、無理だった。隠せば隠すほど、苦しくなっていくだけで。私、自分でもどうしたらいいか、わからなかった」
穂乃香は両手で顔を覆い、しばらく肩を震わせていた。明莉はその姿を見つめながら、慰めの言葉をかけるべきか、それとも黙って見ているべきか、判断がつかなかった。結局、明莉は何も言わずに、ただその場に座り続けた。
その言葉に、明莉は複雑な感情を覚えた。穂乃香の苦しみが本物だということは、疑いようがなかった。それでも、その苦しみを一人で抱え込んだことが、結果として明莉自身を深く傷つけたという事実は、消えなかった。誰かの苦しみを理解することと、その結果生じた痛みを許すことは、別の問題だった。
「それは、そう。あなたが苦しんでたことは、わかる」
明莉はゆっくりと答えた。怒りだけでは片付けられない複雑さが、自分の中にあることを、明莉自身も感じていた。
「でも、私も苦しかった。健人くんとのことも、穂乃香とのことも、全部わからないまま、一人で抱えてきたの」
「わかってる」
「わかってるなら、なんで言わなかったの」
同じ問いを、明莉は何度も繰り返していた。答えは変わらないとわかっていても、言葉にせずにはいられなかった。声を荒げるたびに、喉の奥が痛んだ。穂乃香は、その繰り返しに、逃げずに向き合い続けていた。何度目かの沈黙のあと、穂乃香がぽつりと呟いた。
「棚の写真、見た?」
穂乃香が、部屋の隅の棚を指差した。中学の制服姿で笑う二人、大学の卒業式で並んで写る二人、金沢のあちこちで撮った、数え切れないほどの写真。桜の下、雪の兼六園、夏祭りの浴衣姿、二人で作った不格好なクリスマスケーキ。どの写真にも、屈託のない笑顔が並んでいる。十四年分の思い出が、今この瞬間、互いを責める材料に変わっていくのを、明莉は感じていた。
棚の一番手前には、つい先月撮ったばかりの写真も飾られていた。三人で紅葉を見に行った日の、健人と穂乃香、明莉が並んで写る写真だった。あの日はまだ、こんな結末が待っているとは、誰も想像していなかった。写真の中の三人は、屈託なく笑っている。その笑顔が、今の状況とあまりにかけ離れていて、明莉は目を逸らさずにはいられなかった。あの日撮った写真を、穂乃香はまだ捨てていなかった。その事実に、明莉は複雑な思いを抱いた。
「失恋した時、朝までいてくれたのは誰だった?」
明莉は、あえてその問いを口にした。高校三年の冬、初めての彼氏に振られて泣いた夜。穂乃香がすぐに駆けつけてくれて、朝まで同じ布団の中で過ごした。あの記憶を、まさか今、こんな形で持ち出すことになるとは、思ってもみなかった。あの夜、穂乃香が淹れてくれたココアの温かさまで、明莉は今でも鮮明に覚えている。穂乃香の目に、初めて涙が浮かんだ。
「だから失いたくなかった。だから黙った」
その答えに、明莉は思わず声を荒げた。
「失いたくない相手だからこそ、本当のことを言うべきだったんじゃないの?」
声が、自分でも驚くほど大きくなっていた。穂乃香は何も言い返さず、ただ唇を噛んでいた。部屋の空気が、一瞬にして張り詰めた。壁の時計の音だけが、やけに大きく響いていた。
「私だって、言おうとしたことは何度もあった」
穂乃香がようやく口を開いた。声は震えていた。膝の上で重ねた両手が、白くなるほど固く握りしめられていた。
「三人で会うたびに、何度も。喉まで出かかって、でも、その言葉を発したら、明莉との関係も、健人さんとの関係も、全部変わってしまう気がして」
「でも、言葉にした瞬間に、全部が壊れる気がして。だから、いつも直前で止めてた」
「止めた結果が、これだよ」
明莉の声は、自分でも制御できないほど鋭くなっていた。穂乃香は、その言葉を黙って受け止めていた。反論する権利など、自分にはないと言わんばかりの表情だった。
穂乃香は、テーブルの上の白湯にようやく手を伸ばした。冷めかけたそれを一口飲み、小さくため息をついた。
「明莉、覚えてる? 中学の入学式の日、席が隣になった時のこと」
突然の話題転換に、明莉は戸惑いながらも頷いた。
「覚えてるよ。穂乃香が、消しゴム忘れて、半分こしてって言ってきた」
「あの時から、ずっと一緒だった。十四年間、ずっと」
穂乃香の声が、震えていた。
「高校の文化祭も、大学の入学式も、就職の面接の前も、いつも隣にいたよね。私が落ち込んでる時は、明莉がいて。明莉が落ち込んでる時は、私がいた」
「うん」
「その関係が、こんな形で崩れるなんて、考えたこともなかった」
穂乃香の目から、涙がこぼれ落ちた。明莉はその涙を見ながら、自分の中の怒りと、消えない愛着とが、同時に胸の中でせめぎ合っているのを感じた。
「その十四年を、私は今夜、自分の手で壊しにきたのかもしれない」
明莉がそう言うと、穂乃香は首を振った。
「壊したのは、私だよ。明莉じゃない」
その言葉のやり取りに、明莉はどう応じればいいのか、わからなくなった。誰が壊したのかを議論することに、もう意味はないのかもしれない。それでも、その問いから逃げずに向き合おうとする穂乃香の姿勢だけは、今夜初めて見る、正直な穂乃香の姿だった。
窓際に立ち、明莉はガラスに映る二人の姿を見つめた。並んで座っていたはずの二人が、今は部屋の対角線上に離れて立っている。その距離が、ガラスの中にはっきりと映っていた。夜の街の明かりが、ガラスの向こうで小さく瞬いている。二人の姿は、その光と重なって、どこか現実離れした景色のように見えた。
「言ってくれたら、告白するかやめるか、私は選べた」
明莉が本当に苦しかったのは、自分だけが事実の外側に置かれていたように感じたことだった。穂乃香が胸の内を話してくれていたら、告白する前に立ち止まり、自分の気持ちを確かめることはできたかもしれない。ただし、健人が告白を受け入れたことまで穂乃香の責任ではない。その区別をつけられるほど、今の明莉はまだ冷静ではなかった。
「うん。私の気持ちを隠して、明莉が考えるために必要だったことを、ひとつ言わなかった。でも、健人さんが告白を受けたことまで、私の責任だとは言えないと思う」
穂乃香が、初めて言い訳を置かずに、まっすぐそう認めた。その率直さに、明莉はかえって涙がこぼれた。責められている時より、認められた時のほうが、なぜか痛みが増した。反論されれば、まだ怒り続けられた。認められてしまうと、その先にあるのは、ただの深い悲しみだけだった。
「これから、どうするの」
穂乃香が、震える声で尋ねた。明莉は少し考えてから答えた。窓の外の雪音だけが、二人の間の静けさを埋めていた。
「わからない。今日は、もう帰る。時間が必要だと思う、お互いに」
「うん」
その短いやり取りに、二人はしばらく黙り込んだ。今すぐに答えを出せる問題ではないことを、二人とも理解していた。
帰り支度をする明莉を、穂乃香は玄関まで追ってこなかった。リビングに一人取り残された穂乃香の姿が、明莉の背後で小さくなっていくのがわかった。玄関マットの上に、明莉の靴の跡だけが乱れて残っていた。コートを羽織りながら、明莉は最後にもう一度だけ、リビングのほうを振り返った。穂乃香は、ソファに座ったまま、まだ顔を覆っていた。声をかけようとして、明莉は結局、その言葉を飲み込んだ。
「健人くんより、穂乃香が言わなかったことが苦しい」
最後にそれだけを告げた。声を絞り出すのに、思ったより時間がかかった。穂乃香は俯いたまま、小さく答えた。
「わかってる、とは言えない。でも、忘れない」
穂乃香の声は、涙で滲んでいた。その一言に込められた重みを、明莉は今、正確には測れなかった。それでも、その言葉が、軽々しく口にされたものではないことだけは、はっきりと伝わってきた。
その言葉に、明莉は何も返さなかった。返せる言葉が、もう見つからなかった。玄関のドアノブに手をかけたまま、明莉はしばらく動けずにいた。忘れないという言葉が、慰めなのか、それとも今後もこの傷を抱え続けるという穂乃香なりの覚悟なのか、判断がつかなかった。どちらであっても、今の明莉には、その言葉を受け止める余裕がなかった。ふと、中学から十四年間、互いの家の冷蔵庫を勝手に開けるほどの親しさがあったことを思い出した。合鍵を渡し合い、相手の実家の話まで自分のことのように語れた仲だった。あの気安さは、もう二度と戻らないのかもしれない。
ドアを開け、明莉は十四年間で初めて、振り返らずに部屋を出た。エレベーターホールへ向かう廊下は、来た時よりもずっと長く感じられた。一歩ずつ踏み出すたびに、今夜交わした言葉が、頭の中で繰り返し再生されていた。
帰りのエレベーターの中で、明莉は泣くのを止めなかった。赤い階数表示の数字が一つずつ変わっていくのを見つめながら、涙が頬を伝うままにしていた。エレベーターの鏡に映る自分の顔は、いつもより幼く見えた。まるで、十四年前の中学生の自分が、そこに映り込んでいるかのようだった。
「許さなくていい。今は、それでいい」
誰にともなく、明莉は口の中でつぶやいた。この言葉が、穂乃香に向けたものなのか、それとも自分自身に向けたものなのか、明莉にもはっきりとはわからなかった。穂乃香の声は、もうすぐには届かない。それでも、いつか届く日が来るのか、来ないのか、今の明莉には見当もつかなかった。扉が開くたびに、明莉は昔の自分から、一階ずつ確実に離れていくような感覚があった。エレベーターの中の空気は、外の寒さとは違う、また別の種類の冷たさを帯びていた。
一階に着き、エレベーターの扉が開くと、ロビーには誰もいなかった。明莉は涙を拭い、深呼吸をしてから、自動ドアの外へ足を踏み出した。マンションのエントランスを出るその瞬間まで、明莉は何度も、この十四年の重みを、頭の中で数え直していた。エントランスの自動ドアが背後でひっそりと閉まる音を、明莉はしばらく聞いていた。もう、あの扉の向こうへ、簡単には戻れない。そんな予感が、はっきりとした形を持って、明莉の胸に残っていた。
マンションを出ると、外はまだ雪が舞っていた。明莉は傘も差さずに、しばらくその場に立ち尽くした。今夜起きたことのすべてを、まだ受け止めきれずにいた。コートに積もった雪を払うことすら、今はどうでもよく感じられた。マンションの窓を見上げると、穂乃香の部屋の明かりは、まだ灯っていた。あの窓の向こうで、穂乃香は今、何を思っているのだろう。想像しても、答えは出なかった。それでも、確かなことがひとつだけあった。もう、知らないふりはできない。そして、知ってしまった今、以前と同じ関係には、二度と戻れない。
雪の中を歩きながら、明莉はスマートフォンをコートのポケットから取り出した。画面には、健人と穂乃香、二人分の連絡先が並んでいる。今夜はもう、どちらにも触れる気力はなかった。明莉は画面を伏せ、歩き続けた。息を吐くたびに、白い息が夜の中に溶けていく。この先どうなるのか、まだ何も見えなかった。けれど、今夜自分が選んだ道は、間違っていなかったと、明莉は思った。街灯の明かりが、雪の粒を一つひとつ照らしながら、歩道の先まで続いていた。
バス停のベンチに座り、明莉はしばらく一人で夜空を見上げていた。雪雲の切れ間から、わずかに星が見えた気がした。健人との関係を終わらせ、穂乃香との関係にひびを入れた今夜は、明莉にとって、間違いなく人生の一つの分岐点だった。だが、この分岐点を過ぎたことを、明莉は後悔していなかった。曖昧なまま続けるより、痛みを伴っても、真実と向き合うことを選んだ。その選択の重さを、明莉は今、噛みしめていた。ベンチの冷たさが、コート越しにも伝わってくる。ただ、しばらくはこの場所を動きたくなかった。
バスが来るまでの間、明莉はスマートフォンの待ち受け画面を見つめた。そこにはまだ、三人で撮った写真が設定されたままだった。金沢21世紀美術館の前で、三人並んで笑っている写真。この写真をいつまで待ち受けにしておくのか、明莉にはまだ決められなかった。今すぐ消してしまうことも、そのまま残しておくことも、どちらも今の自分には、正しい選択だとは思えなかった。
バスに乗り込み、窓際の席に座ると、明莉は自分の顔がガラスに映るのを見た。泣いた跡が残る目元、いつもより青白い頬。けれど、その顔の奥に、何か新しい強さのようなものが宿っているのを、明莉は感じ取った。今夜という夜を、乗り越えたという実感だけが、今の明莉を支えていた。車内の暖房が、冷え切った体をゆっくりと温めていく。座席の隣には誰もおらず、明莉は一人分の静けさの中で、ようやく肩の力を抜くことができた。
バスが走り出すと、窓の外を流れる夜の街並みを、明莉はぼんやりと眺めていた。イルミネーションで飾られた店先、忘年会帰りらしい人々の賑やかな声、雪に濡れたアスファルトに反射する街灯の光。いつもと変わらない師走の金沢の夜が、そこにあった。ただ、この街を見る自分の目は、今夜を境に、少しだけ違うものになったような気がしていた。
自宅の最寄りのバス停で降りると、明莉はいつもの帰り道を歩いた。夜はさらに更けて、人通りもまばらになっている。街灯の下を歩くたび、自分の影が伸びては縮んでいくのを、明莉はぼんやりと眺めていた。マンションの一室に灯る明かりを見上げながら、明莉はふと、今夜のことを誰かに話したい衝動に駆られた。だが、話す相手が思い浮かばなかった。これまでなら真っ先に話していたはずの相手が、今夜の出来事の当事者そのものだったからだ。会社の同僚に話すには、あまりにも個人的すぎる。親には、まだ心の整理がつかないうちは話せそうにない。結局、明莉は誰にも連絡を取らないまま、一人で夜道を歩き続けた。
自室に戻り、明莉はコートを脱がずに、しばらくベッドの端に腰掛けていた。今夜起きたことのすべてを、頭の中で整理する気力は、もう残っていなかった。壁にかけた時計の針は、すでに日付が変わろうとしていた。けれど、明日はまた、いつも通りの一日が始まる。仕事があり、会議があり、日常が待っている。その日常の中で、今夜の出来事とどう折り合いをつけていくのか、明莉にはまだ想像もつかなかった。
スマートフォンを充電器に繋ぎ、明莉はようやくコートを脱いだ。鏡に映る自分の顔を見つめながら、今夜という一日が、これからの自分にとって、どんな意味を持つことになるのかを、胸の中で考え続けていた。答えはまだ、どこにも見えなかった。だが、鏡の中の自分は、今朝出かける前の自分とは、確実に何かが違っていた。何が変わったのかを、明莉はまだ正確には言葉にできなかった。ただ、これまで見て見ぬふりをしてきた何かに、今夜、ようやく正面から向き合えたという実感だけは、はっきりと残っていた。
ベッドに横になり、明莉は天井を見つめた。眠れる気はしなかったが、目を閉じることだけはできた。瞼の裏に、今夜交わした言葉の数々が、次々と浮かんでは消えていった。穂乃香の震える手。棚に並んだ写真。ガラスに映る二人の距離。すべてが、今夜という夜の記憶として、明莉の中に刻み込まれていくのを感じた。この記憶を抱えたまま、明日からどう生きていくのか。その答えは、まだ見つからなかった。それでも、今夜という夜を、明莉は確かに生き抜いた。その事実だけが、今の自分を、かろうじて支えていた。明莉は震える手を布団の中でそっと握りしめ、浅い眠りに落ちていった。




