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愛よりも脆く、愛よりも強く  作者: 久遠 睦


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第八章:解ける糸

十二月に入り、初雪が舞い始めていた。健人の部屋で、二人は旅行雑誌を眺めていた。窓の外は日が落ちるのが早くなり、部屋の中には暖房の温かい空気が満ちている。この部屋を訪れるのも、もしかしたら今日が最後になるかもしれない。そんな予感が、明莉の中でどこかよぎっていた。ソファに並んで座り、健人がページをめくるたびに、雪景色の温泉宿の写真が現れては消えていく。ある見開きで、健人の手が止まった。

「前に三人で話していた時、穂乃香さんが行きたいと言っていた場所だ」

 何気ない口調だった。健人にとっては、ただの思い出話のひとつに過ぎなかったのだろう。それでも明莉は、指先をいったん雑誌から離し、しばらく息を整えてから、ようやく口を開いた。窓の外では、初雪が音もなく降り続いていた。この数ヶ月間、明莉はずっとこの瞬間を、心のどこかで待っていたような気さえした。もう限界だった。今日という日に、はっきりさせたかった。膝の上に置いた両手を、明莉は一度強く握りしめた。

「どうして、いつも穂乃香の話ばっかりするの?」

 声は思ったより落ち着いていた。健人は一瞬、雑誌を持つ手を止めた。それからゆっくりとページを閉じ、表紙の端を揃えた。その仕草だけが、部屋の中でやけにはっきりと響いた。壁掛け時計の秒針の音まで、聞こえてきそうなほどの静けさだった。

「……ごめん」

 謝罪の言葉だけが返ってきた。理由でも、否定でもなく、ただの謝罪。明莉はその短さの中に、答えのすべてが詰まっているような気がした。健人は言い訳をしなかった。それが、かえって残酷なほど誠実に感じられた。健人はその場で頷き、それ以上何も言わなかった。それから少しの間、二人は無言のままソファに座っていた。雑誌のページが、暖房の風で微かに揺れている。この沈黙を、以前の明莉なら気まずいと感じていたはずだ。今は違った。この沈黙こそが、二人の間にあるものの正体を、何よりも雄弁に語っていた。

 ローテーブルの上には、二人分のコーヒーカップと、几帳面に並べられたコースターが二つ置かれていた。健人は物を並べる時、いつも几帳面だった。その几帳面さを、明莉はこれまで好ましく思っていた。今は、その規則正しさが、かえって余所余所しく感じられた。二人で選んで買ったコースターだった。数ヶ月前、雑貨屋で健人が「これ、明莉が好きそうな柄だね」と選んでくれたものだ。その時の健人の笑顔を思い出すと、今この瞬間との落差に、明莉は胸の奥が締めつけられた。沈黙が流れる中、明莉は思い切って、もう一歩踏み込むことにした。

「最初に好きだったのは誰?」

 率直すぎる質問だとわかっていた。それでも、もう遠回しな聞き方をする気力は残っていなかった。仕事なら、遠回しな表現を削り、直接的な言葉に置き換えることを、明莉はずっと心がけてきた。今日という日だけは、その姿勢を、自分自身の恋愛にも適用する番だった。健人は視線を落とし、コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、長い間、黙っていた。窓の外を通る車のライトが、一瞬だけ部屋の壁を照らして消えた。問い詰めるでもなく、ただじっと相手の反応を見つめる時間が続いた。健人の喉仏が、一度、小さく動いた。何かを言おうとして、結局言葉にならなかったもどかしさが、その仕草に表れていた。

「……今は、明莉と付き合ってる」

 その答えに、明莉はふと、何かが切れる音を聞いた気がした。質問に対する答えにはなっていない。それなのに、この曖昧な返し方こそが、一番はっきりとした答えだった。今は、という言葉が、これまでとこれからの境界線を、残酷なほど明確に示していた。

「そう」

 それ以上、明莉は何も聞かなかった。聞く必要が、もうなかった。答えを避けたという事実そのものが、どんな言葉よりも雄弁だった。明莉はコーヒーカップを両手で包み、すでに冷めてしまった液体を、ゆっくりと飲み干した。小さくつぶやいた声は、暖房の音に紛れるように消えた。

 健人はその後、話題を変えようとして、何か言いかけたが、明莉はそれを遮った。

「大丈夫、責めてるわけじゃないの。ただ、確かめたかっただけ」

 健人は驚いたような顔をして、それから小さく頷いた。窓の外では、いつのまにか雪の勢いが強まっていた。責めているわけではないという言葉は、半分は本当で、半分は自分自身に言い聞かせるためのものだった。怒りよりも、諦めに近い感情のほうが、今の明莉の中では大きくなっていた。

「本当に、ごめん」

 健人がもう一度、絞り出すように謝った。明莉はその声のトーンから、彼なりの罪悪感の重さを感じ取った。それでも、その罪悪感を軽くしてあげる役目は、もう自分のものではないと、明莉は思った。

「謝らなくていいよ。誰も悪くない」

 その言葉は、健人に対してというより、明莉自身に向けたものに近かった。誰も悪くない。それでも、何かが確実に壊れてしまった。その両立が、今の明莉には一番受け入れがたい真実だった。ソファの上に置かれた旅行雑誌は、開いたままになっていた。もう二人でその続きを見ることはないのだと、明莉はぼんやり思った。

 帰り支度をする明莉を、健人は玄関先まで見送った。玄関の狭い三和土で、二人はしばらく無言のまま立っていた。靴を履き終えた明莉は、片方だけ倒れていた傘を直しながら、最後にもう一つだけ聞いておきたいことがあった。

「私のこと、好きになろうとしたことはある?」

 健人は少しの間、視線を彷徨わせたあと、低い声で答えた。玄関の照明が、その表情に淡い影を落としていた。長い付き合いの中で、健人がこれほど言葉を選ぶ姿を見たのは、初めてかもしれなかった。

「努力はした。でも、その言い方も失礼だよね」

 その正直さに、明莉は思わず小さく笑ってしまった。悲しいはずなのに、笑いが漏れた。あまりにも遅すぎる正直さは、優しさではなく、刃物のように鋭かった。もっと早くこの言葉をもらえていたら、明莉は違う選択ができたかもしれない。今となっては、その正直さは、ただ傷口を広げるだけのものだった。それでも、最後の最後に、健人が誠実さを見せてくれたことだけは、明莉の中で、ほんの少しだけ救いになっていた。

「ありがとう、正直に言ってくれて」

 明莉はそう言って、玄関のドアを開けた。振り返らずに、外へ出た。ドアが小さく閉まる音が、背中越しに聞こえた。マンションの廊下を歩きながら、明莉は自分でも意外なほど、涙が出ないことに驚いた。悲しみよりも、長く抱えてきた違和感がようやく形になったことへの、奇妙な安堵のほうが、今の胸を占めていた。廊下の窓から見える街の灯りが、いつもより鮮明に映った。エレベーターのボタンを押し、階数表示のランプが降りてくるのを、明莉はぼんやりと眺めていた。

 雪の混じる夜道を、明莉は一人で歩いた。街灯の下を通るたびに、白い息が浮かんでは消えていく。歩きながら、明莉はスマートフォンを取り出し、穂乃香の名前を呼び出した。発信ボタンに指を置いたまま、しばらく動けずにいた。信号待ちの間、周りを行き交う人々の足音だけが、やけに大きく聞こえた。

「今すぐ聞かなきゃ」

 誰にともなくつぶやいた。それなのに、指は発信ボタンを押せなかった。頭の中では、穂乃香の声が想像の中で何度も再生されていた。驚いた声、戸惑った声、あるいは、ずっと待っていたと言わんばかりの、静かな声。どの声を想像しても、明莉の胸は締めつけられた。コートのポケットの中で、スマートフォンの画面がまだ光ったままになっている。その光を、明莉はしばらく見つめ続けていた。

「聞いたら、もう戻れない」

 もう一つの声が、頭の中で反論する。戻りたい場所が、本当にまだ残っているのかどうか、明莉自身にもわからなかった。今の三人の関係は、もうすでに、以前の形をとどめていないのかもしれない。それなら、戻る場所を探すより、新しい形を見つけるほうが、正しい向き合い方なのかもしれなかった。結局、明莉は発信画面を閉じ、スマートフォンをコートのポケットにしまった。雪が肩に落ちては溶けていくのを感じながら、明莉はしばらくその場に立ち尽くしていた。夜道を行き交う人々が、傘も差さずに立ち止まる明莉を、時折不思議そうに見ていった。それでも、明莉は動けなかった。今この瞬間、自分の中で起きている変化を、もう少しだけ、一人で抱えていたかった。

 信号が青に変わっても、明莉はすぐには歩き出せなかった。周りの人々が次々と横断歩道を渡っていく中、自分だけがその流れから取り残されているような感覚があった。しばらくして、ようやく足を踏み出した。次の角を曲がれば、いつも行くファミリーレストランがある。今夜はそこで、少し頭を整理する必要があった。

 いつのまにか、二十四時間営業のファミリーレストランに入っていた。誰かに会う予定はなかった。ただ、一人で座って考える場所が必要だった。店に入る前、明莉は一度立ち止まり、夜空を見上げた。雪雲に覆われた空には、星ひとつ見えなかった。それでも、この雲の向こうには、いつも通りの星々が瞬いているはずだった。見えないからといって、そこに何もないわけではない。健人の本当の気持ちも、穂乃香の本当の気持ちも、今はまだ、明莉の目には見えない雲の向こうにある。それでも、いつか必ず、その雲は晴れる。明莉はそう信じることにした。窓際の席に座ると、店員が水を運んできて、注文を尋ねた。明莉はホットコーヒーだけを頼んだ。店内は深夜特有の静けさに包まれていて、他の客はまばらだった。明莉は紙ナプキンを一枚取り、青いボールペンでいくつかの問いを書き出した。

「いつから知ってた? 二人で会った? 私を笑ってた?」

 書き並べた文字を見つめながら、明莉は自分の中に渦巻く感情の激しさに、少し驚いていた。運ばれてきたコーヒーが湯気を立てているのに、それを飲む余裕もないほど、頭の中は疑念でいっぱいだった。ペンの先が紙ナプキンに小さな穴を開けるほど、力が入っていたことに、明莉は今更ながら驚いた。それでも、ペンを持つ手を止め、もう一度冷静に考え直そうとした。窓の外を、深夜のタクシーが一台、音もなく通り過ぎていった。

「事実と想像を分けなきゃ」

 仕事で何度も使ってきた言葉が、こんな場面で自分を救ってくれるとは思わなかった。パッケージデザインの会議で、根拠のない主観と、データに基づいた事実を切り分けるとき、いつもこの言葉を自分に言い聞かせてきた。まさか恋愛関係の終わりを見つめ直す夜に、同じ言葉を使うことになるとは、思ってもみなかった。明莉は紙ナプキンに書いた三つの問いを、もう一度見直した。「いつから知ってた」は、確かめようのない想像だ。「二人で会った」も、証拠のない推測に過ぎない。「私を笑ってた」に至っては、悪意を前提にした憶測でしかなかった。明莉は一つひとつの問いに、青いボールペンでそっと二本の線を引いて消していった。

 線を引くたびに、頭の中の靄が、少しずつ晴れていくような感覚があった。感情のままに問い詰めれば、きっと誰かを深く傷つける言葉になっていただろう。仕事で培った「事実を確認する」という習慣が、今この瞬間、自分自身の暴走を止めてくれていた。皮肉なことに、一番感情的になっていい場面で、一番冷静な自分の一部が顔を出していた。

 残ったのは、たった一つの確かな事実だけだった。健人の気持ちは、最初から、明莉には向いていなかった。それだけが、想像でも憶測でもない、動かしようのない真実だった。この夜、明莉が下した決断は、健人との関係を終わらせるだけでは終わらなかった。もっと大きな、もっと根本的な問い直しの始まりだった。三人で築いてきたはずの関係が、実はいつからか、少しずつ歪んでいたこと。その歪みに、明莉自身も、見て見ぬふりをしてきたこと。それらすべてを、今夜、正面から受け止める必要があった。

 残された事実を見つめながら、明莉は不思議と、自分が落ち着いていくのを感じた。真実がひとつに絞られると、そこから先に進むべき道も、自然と輪郭を持ち始める。誰を責めるでもなく、ただこの一つの事実を受け止めて、そこから自分がどう動くかを考えればいい。コーヒーはすっかり冷めていたが、明莉はそれを一口飲み、窓の外に降り続く雪を眺めた。夜のファミリーレストランの明かりが、雪の粒を一つひとつ照らし出していた。

 紙ナプキンを畳んで、明莉はバッグの中にしまった。捨ててしまうこともできたが、なぜかそうする気にはなれなかった。今夜、自分がどんな問いを抱え、どうやってそれを事実と想像に分けたか。その過程そのものが、今の明莉にとって、大切な記録のように思えたからだ。店員が水のおかわりを持ってきて、明莉は小さく会釈した。深夜のファミリーレストランには、他にも一人で座る客が何人かいた。それぞれが、それぞれの事情を抱えて、この時間にここにいるのだろう。そう思うと、自分の孤独が、少しだけ普遍的なものに感じられた。

 窓際の席で一人、参考書を広げる学生らしき若者の姿があった。もう少し離れた席には、スーツ姿のまま眠りこけているサラリーマンもいた。誰もが、それぞれの理由でこの深夜の時間を過ごしている。明莉はその光景を眺めながら、自分だけが特別に苦しいわけではないのだと、そう思い直した。

 翌朝、明莉は普段どおり出社した。昨夜のことがまるで嘘のように、朝の光は変わらず明るく、社内はいつも通りの慌ただしさに満ちていた。会議室では、新商品の販促案を巡って議論が交わされていた。誰かが「お客様に喜ばれる企画です」と自信ありげに説明していたが、明莉はその根拠が気になった。眠れなかったはずなのに、頭の中は不思議なほど冴えていた。窓の外には、昨夜の雪がうっすらと積もり、朝日を受けて眩しく光っていた。

「それは、お客様が望んでいると確認できていますか」

 明莉が尋ねると、担当者は一瞬詰まった。会議室の空気が、少しだけ緊張したものに変わった。周囲の同僚たちが、資料をめくる手を止め、明莉と担当者のやり取りを見守っていた。

「今まで問題にならなかったから」

 その答えに、明莉は小さく首を振った。デスクに置かれたカレンダーには、来月の展示会の日付が赤く囲まれていた。

「『今まで』は、理由にならないと思います。今回、もう一度確認しませんか」

 会議室に短い沈黙が落ちた。数秒後、誰かが小さく頷き、議論は仕切り直しになった。田村が明莉のほうを見て、小さく頷いた。

「明莉さんの言う通りだね。前提を疑うところから、もう一度組み立て直そう」

 会議室の他のメンバーも、次々と資料をめくり直し、議論の方向性を修正し始めた。誰かが小さく「確かに、思い込みだったかもな」とつぶやくのが聞こえた。自分の指摘が、これまでの前提を音もなく覆した瞬間だった。曖昧な前提のまま進めることが、どれほど危ういか。明莉は昨夜のことを思い返しながら、今朝の自分の言葉に、思いがけない重みを感じていた。

 会議を終えて自分の席に戻ると、ふと、告白の前日に穂乃香が選んでくれたワンピースのことがよみがえった。ベッドに広げられた三着の中から、穂乃香が「こっちの方が明莉の顔が明るく見える」と選んでくれた、あのベージュのワンピース。あの日、迷わず自分のために時間を使ってくれた穂乃香の姿を、明莉は今、はっきりと思い出していた。鏡の前で髪を整えてくれた穂乃香の手つき、その時に交わした他愛もない冗談、玄関で交わした最後の一言。どれも鮮明に、色褪せずに残っている記憶だった。

 あの日、穂乃香は自分の気持ちをおくびにも出さず、ただ明莉の幸せを願うように、丁寧にワンピースを選んでくれた。今思えば、その優しさの裏にどれほどの葛藤があったのか、明莉には計り知れなかった。それでも穂乃香は、その葛藤を一切見せずに、明莉の背中を押してくれた。その事実だけは、今のこの複雑な状況の中でも、揺るがない温かさとして、明莉の中に残っていた。

 もしあの日、穂乃香が本当の気持ちを打ち明けていたら、今頃どうなっていただろう。明莉はふと、そんな仮定を考えかけて、すぐにやめた。過去にどんな選択肢があったかを数えることに、今はもう意味がない。大切なのは、これから自分がどう動くかだった。デスクの上のパソコン画面には、まだ午後の業務メールが並んでいる。明莉は一度深呼吸をして、目の前の仕事に意識を戻した。パソコンのキーボードを叩く音だけが、静かなオフィスに規則正しく響いていた。

 夕方、仕事を終えた明莉は、スマートフォンを取り出し、健人とのメッセージ履歴を開いた。これから会う予定になっていた週末の約束を、画面から迷いなく削除する。それから、短い一文を打ち込んだ。オフィスビルを出たところで、外の冷たい空気が頬を刺した。街はすでに夕闇に包まれていて、イルミネーションの灯りがちらほらと灯り始めていた。街路樹に巻かれたLEDライトが、通りを行き交う人々の顔を、青白く照らしている。師走の街は、どこか浮き足立った空気に包まれていたが、明莉の足取りだけは、静かで落ち着いていた。同僚たちの忘年会の話し声が、通りの向こうから聞こえてくる。今年最後の月を迎えたこの街で、自分だけが違う季節の中にいるような、そんな感覚があった。

 メッセージアプリを開き、健人の名前をタップする。指先が一瞬止まったが、それは迷いのためではなく、この一文にどれだけの重みを込めるべきか、慎重に考えるための間だった。

「付き合いは、ここで終わりにします」

 送信ボタンを押す指に、迷いはなかった。数ヶ月間積み重ねてきた関係が、たった一行の文章で終わりを迎える。それでも、この一行にたどり着くまでの道のりは、決して短くはなかった。しばらくして、返信が届いた。

「わかった。本当にごめん」

 その謝罪に、明莉は何も返さなかった。返す必要はもう、感じなかった。健人を責めるつもりも、これ以上何かを問い詰めるつもりもなかった。ただ、自分で選んだ道を、自分の足で歩き出す。それだけが、今の明莉にできることだった。

 スマートフォンの画面を閉じ、明莉はそれをコートのポケットに入れた。オフィスビルの前を通り過ぎる人々の流れに乗って、明莉も駅の方向へ歩き出した。歩きながら、胸の中にあるのは、悲しみだけではなかった。むしろ、長く抱えてきた重荷を、ようやく下ろせたような、奇妙な軽さのほうが強く感じられた。ただ、その軽さの向こうには、まだ向き合わなければならない、もう一つの大きな問題が待っていた。

 スマートフォンをバッグにしまい、明莉はコートの襟を立てて、駅とは反対の方向へ歩き出した。向かう先は、穂乃香のマンションだった。今すぐ聞かなければならないことが、まだ残っていた。もう戻れないとしても、このまま知らないふりを続けることは、明莉にはもうできなかった。この数ヶ月間、明莉はずっと、見て見ぬふりをする自分と、本当のことを知りたい自分との間で揺れ続けてきた。今夜、その揺れに、ようやく終止符を打つ時が来たのだと、明莉は確かに感じていた。夜の街に、初冬の冷たい風が吹き抜けていく。明莉は一歩ずつ、迷いのない足取りで、その風の中を歩いていった。

 歩きながら、明莉は今日一日の出来事を、頭の中でもう一度たどり直していた。健人の部屋での短い会話、玄関での最後のやり取り、雪の中で押せなかった発信ボタン、ファミリーレストランで線を引いて消した三つの問い、会議室での指摘、そして健人への別れの言葉。どれもが、一本の糸のように繋がっていた。糸の始まりをたどれば、あの初夏の日、金沢駅前で水引ピアスを選んだ日にまで、遡ることができるのかもしれない。その糸を、明莉は今日、自分の手で少しずつ解いてきた。健人との関係を繋いでいた糸は、もう完全にほどけてしまった。だが、その先に何が待っているのか、明莉にはまだわからなかった。

 マンションの前まで来て、明莉はエントランスのインターホンを見上げた。夜空から、まだ雪がちらついている。マンションのエントランスの明かりだけが、ぽつんと暖かく灯っていた。ここまで来て、まだ迷いがないと言えば嘘になる。けれど、ここで引き返せば、また同じ曖昧さの中に戻ってしまう。明莉は深く息を吸い込み、指をインターホンのボタンに伸ばした。冷たいボタンの感触が、指先にはっきりと伝わってきた。もう後戻りはできない。それでも、後戻りしないことを、明莉は今日、自分の意志で選んでいた。

 エントランスの上に取り付けられた小さな照明が、明莉の姿を淡く照らしていた。マンションの窓の一つに、穂乃香の部屋の明かりが灯っているのが見える。あの窓の向こうに、これから自分がぶつけようとしている問いへの答えが、待っているのかもしれない。答えを知ることが怖くないと言えば、それも嘘になる。だが、知らないままでいることのほうが、今の明莉にはもっと恐ろしく感じられた。

 インターホンの呼び出し音が、静かな夜の中に響いた。返事を待つ数秒間が、これまでのどの沈黙よりも長く感じられた。しばらくして、スピーカー越しに、穂乃香の声が聞こえてきた。

「はい……? って、明莉? こんな時間にどうしたの」

 驚きと戸惑いの混じった声だった。声の向こうから、テレビの音か何かが小さく聞こえていた。いつもの穂乃香の部屋の、ごく普通の夜だったのだろう。その日常を、自分がこれから壊しに来たのかもしれないという思いが、明莉の胸をよぎった。けれど、もう引き返すことはできなかった。明莉は一度深呼吸をしてから、口を開いた。

「ごめん、急に。少しだけ、話せる?」

 スピーカーの向こうで、一瞬の沈黙があった。それから、ドアの開錠される音が響いた。

「うん……上がって」

 その短い返事の中に、明莉は何かを察したような響きを感じ取った。エレベーターに乗り込みながら、明莉は自分の心臓が、いつもより速く打っているのを感じていた。ボタンを押す指先が、わずかに震えていた。これから交わされる会話が、二人の関係をどんな形に変えていくのか、まだ誰にもわからなかった。それでも、明莉はもう、前へ進むことしか考えていなかった。


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