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愛よりも脆く、愛よりも強く  作者: 久遠 睦


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7/12

第七章:絶え間ないリフレイン

十一月も終わりに近づき、兼六園は紅葉が見頃を迎えていた。休日の朝、明莉は少し早起きをして、健人との約束の場所へ向かった。空気は冷たく澄んでいて、吐く息が白く見える季節になっていた。金沢駅前で待ち合わせた健人は、いつもより厚手のコートを着て、少し眠そうな顔をしていた。

「おはよう。早起きしたんだ?」

「うん、明莉と紅葉見るの楽しみで、早く目が覚めちゃった」

 その言葉に、明莉は素直に嬉しくなった。二人でバスに乗り、兼六園へ向かう道中、他愛もない会話が続いた。バスの窓の外には、色づき始めた街路樹が次々と流れていく。健人は最近仕事で扱っている町家の写真を見せてくれ、明莉はその一つひとつに感想を返していた。明莉と健人は、園路を並んで歩きながら、色づいたモミジの下で足を止めた。頭上を覆う赤とオレンジのグラデーションに、明莉は思わず「きれいだね」と声を漏らした。

「本当にきれいだ。写真撮っておこう」

 スマートフォンを構えた健人が、しばらく画面を眺めたあと、ふとつぶやいた。周囲では他の観光客たちも、思い思いに紅葉の写真を撮り合っていた。

「穂乃香さんが見たら喜びそうだな」

 その一言に、明莉は一瞬、息を止めた。深呼吸をひとつしてから、なるべく平静な声を心がけた。園路を通り過ぎる人々の話し声が、遠くから微かに聞こえていた。

「二人って、本当に気が合うのね」

 皮肉のつもりだった。けれど健人はその響きにまるで無頓着なまま、素直な調子で頷いた。

「うん、穂乃香さん、こういう景色好きそうだから」

 そう言って、健人はためらいなく送信画面を開いた。明莉はその指の動きを、少し離れたところから見ていた。責めるつもりはなかったし、実際、責められるようなことは何もしていない。写真の一枚を友人に送ることは、ごく自然な行為だ。それでも、綺麗な景色を見た瞬間に、最初に思い浮かぶ相手が自分ではないという事実だけが、少しずつ積み重なっていく。明莉はスマートフォンの画面をそっと伏せ、園路の先へと視線を移した。

 もし今、自分が同じように綺麗な景色を見たら、誰の顔が最初に浮かぶだろうか。明莉は自問してみた。答えはすぐに出た。健人の顔だった。それなら、この違いはどこから来るのだろう。明莉にはまだ、その答えがはっきりとは見えなかった。

 園路の紅葉を眺めながら歩く途中、明莉はふと足を止め、健人の横顔を見つめた。健人は屈託なく笑って、次に立ち寄る場所の話をしている。この笑顔に惹かれて、自分は健人と付き合うことを選んだはずだった。その気持ちに、嘘はない。それなのに、この笑顔の向く先に、時折別の誰かの影がちらつくたびに、明莉の胸はかすかにざわめいた。

「明莉、あそこの紅葉もすごいよ。行ってみよう」

 健人が指差す方向を、明莉は素直に追った。確かに見事な紅葉だった。カメラを構える健人の隣で、明莉はもう一度、深呼吸をした。今日という一日を、素直に楽しむこと。それだけを、しばらくは自分に許してあげたかった。落ち葉を踏む音が、二人の足元で規則正しく響いていた。

「明莉、寒くない?」

「大丈夫。健人くんは?」

「俺も平気。もう少し歩こうか」

 他愛もない会話を交わしながら、二人は園路の奥へと進んでいった。こうして交わす何気ないやり取りの中には、確かな温かさがあった。その温かさを、明莉は疑っているわけではなかった。ただ、その温かさの隣に、いつも小さな影が寄り添っていることに、見ないふりができなくなっていただけだった。

 しばらく歩くと、ことじ灯籠のそばで、外国人観光客に声をかけられた。灯籠の前には、すでに何組かの観光客が列を作っていて、順番を待つ間、明莉と健人は手を繋いで待っていた。

「もう少し寄ってください」

 観光客のリクエストに応じて、明莉と健人は灯籠を背に、身を寄せ合った。健人の腕が、明莉の肩にそっと回される。周りには他の観光客たちも足を止め、それぞれのカメラで灯籠を撮影していた。ことじ灯籠の水面に映る紅葉が、逆さまの景色を作っている。

「これくらいでいいですか」

 シャッター音が鳴り、観光客は満足そうにお礼を言って去っていった。あとで見せてもらった写真には、肩が触れ合うほど近くに立つ二人の姿が写っていた。距離だけを見れば、恋人らしい写真のはずだった。それなのに、写真の中の自分の表情を見ながら、明莉はなぜか、実際の距離よりも遠くにいるような感覚を拭えなかった。写真の中の自分は、確かに笑っている。けれどその笑顔の奥にあるものが、健人にちゃんと届いているのか、明莉には自信が持てなかった。

「いい写真だね、待ち受けにしようかな」

 健人がそう言って、スマートフォンの画面を明莉に見せた。写真の中の自分たちは、確かに幸せそうに見えた。それでも明莉は、その写真を見つめながら、自分の中の違和感が、少しも軽くならないことを、自分でも感じていた。

 園内の茶店に立ち寄ると、健人は迷わずくるみ餅を注文した。店の縁台に腰掛け、二人は湯気の立つ加賀棒茶を前にしていた。縁台の周りには、他の観光客たちも思い思いに休憩を取っていて、賑やかな話し声が耳に心地よく響いていた。

「くるみ餅、穂乃香さんも好きそう」

 その一言に、明莉は思わず聞き返していた。店の縁台に座る他の客たちの笑い声が、遠くに聞こえていた。

「私が何を好きか、知ってる?」

 自分でも驚くほど、鋭い声になった。健人は虚を突かれたような顔をして、しばらく答えを探していた。その数秒間、明莉の指先はひどく冷たくなっていくのを感じた。茶碗の温かさも、その冷たさを溶かしてはくれなかった。

「明莉は……甘すぎないものが好き、だよな。抹茶系とか」

「うん、合ってる」

 答えは間違っていなかった。それでも、答えが出るまでの間の長さのほうが、明莉の中には強く残った。健人にとって、穂乃香の好みは反射的に出てくる言葉で、明莉の好みは、少し考えてから引き出す記憶になっている。その違いに、明莉はひそかに傷ついていた。

「よかった、合ってて」

 健人はほっとしたように笑ったが、明莉はその笑顔を、素直には受け取れなかった。合っていたことより、答えが出るまでにかかった時間のほうが、今の自分には大きな意味を持っていた。

「くるみ餅、明莉も食べてみる?」

「うん、少しだけ」

 健人が差し出した小皿を受け取りながら、明莉は表面上はいつも通りに振る舞っていた。もち米の柔らかさと、くるみの香ばしさが口の中に広がる。美味しいはずのその味も、今日はどこか遠く感じられた。周りの席では、他のカップルや家族連れが、楽しそうに紅葉の話をしていた。その賑わいの中で、自分たちだけが、少し違う速度で時間を過ごしているような気がした。

「美味しい?」

「うん、美味しい」

 健人が嬉しそうに聞いてきたので、明莉はそう答えたが、味の感想よりも先に、さっきの沈黙のほうが頭の中を占めていた。健人は自分の分のくるみ餅を食べながら、次に行く場所の話を始めていた。その屈託のなさが、今は少しだけ、明莉の胸を締めつけた。

 茶店を出たあと、二人は霞ヶ池のほとりを歩いた。池の水面に、色づいた木々が逆さまに映り込んでいる。

「ここ、絵になるね」

 健人がそう言って、また写真を撮り始めた。今度は誰に送るでもなく、ただ景色を記録するためだけの写真だった。明莉はその様子を見ながら、さっきの茶店での出来事を頭の中で反芻していた。健人が悪気なく口にする「穂乃香さんも」という言葉の数々が、少しずつ明莉の中に積もっていく。積もった分だけ、何かがすり減っていくような感覚があった。

 翌日、職場の校正机で、明莉は広告コピーの見直しをしていた。窓の外には、来月の展示会に向けた準備で慌ただしく動き回る同僚たちの姿が見える。デスクの上には、試作品の焼き菓子が積まれたままになっていた。昨日の兼六園での出来事を振り返る余裕もないほど、朝から忙しい一日だった。それでも、ふとした瞬間に、健人の言葉が頭をよぎることがあった。

「具体的じゃない言葉は、信じてもらえません」

 明莉は「やさしい味」という表現に赤字を入れながら、同僚の桐生にそう説明した。桐生は苦笑いしながら答えた。デスクの向こうでは、他の同僚たちが試作品の梱包作業に追われている。

「恋愛も、校正できればいいのにね」

「そんなに削って、寂しくないの?」

 桐生が茶化すように聞いてきた。

「寂しいけど、曖昧なままより、ずっといい」

 明莉はそう答えながら、自分の言葉が、思っていたよりも重い響きを持って口から出たことに驚いた。桐生はそれ以上深く聞かず、笑って自分の作業に戻っていった。

「あ、そういえば」

 桐生がふと振り返って付け加えた。

「彼氏さんとは順調? 最近ノロケ話聞いてないけど」

「順調、順調。ちょっと仕事忙しくて、あんまり話せてないだけ」

 明莉は反射的にそう答えたが、自分の声が、いつもより一段高く聞こえていることは、自分でもわかっていた。桐生は特に気にする様子もなく、パソコンの画面に向き直った。

 冗談のつもりだったのだろう。けれど明莉は、その一言に笑うことができなかった。無言のまま、赤字の線をいつもより深く引いた。曖昧な言葉が信じてもらえないのは、広告コピーだけの話ではないのかもしれない。今の自分と健人の関係にも、削るべき曖昧な言葉が、まだたくさん残っているような気がした。「いいね」「今度」「そのうち」――健人が使う言葉の中には、そういう曖昧なものが多いことに、明莉は今更ながら思い当たった。

 赤字を入れ終えた原稿を見返しながら、明莉は自分の仕事のやり方と、自分の恋愛への向き合い方の違いに、皮肉な対比を感じていた。仕事では、曖昧な表現を容赦なく削り、具体的な言葉に置き換えることを徹底している。それなのに、自分自身の感情や関係性については、曖昧なままにしておくことで、なんとか平静を保とうとしていた。その二重基準に、明莉は今日初めて、正面から突きつけられた気がした。

 その夜、明莉は自室で、穂乃香へのメッセージを打とうとしていた。誰かに、この違和感を話してみたかった。デスクライトの明かりだけが灯る部屋で、スマートフォンの画面の光が、やけに白く目に映った。窓の外はすでに真っ暗で、遠くの街灯だけがぽつりぽつりと灯っている。

「健人くんが、別の人ばかり見てる気がする」

 そこまで打って、明莉は指を止めた。「その人は誰?」と穂乃香に聞かれたら、自分は「穂乃香だよ」と答えなければならない。想像しただけで、明莉は喉の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。相談する相手として、穂乃香ほどふさわしい人はいない。それなのに、まさにその人こそが、相談の中心にいる。明莉は下書きを最後まで消し、スマートフォンの画面を伏せた。

 もう一度、別の書き出しを試してみる。「最近、なんとなくモヤモヤしてて」――当たり障りのない書き出しにしてみても、その先に続く言葉は、結局同じ場所に行き着いてしまう。明莉は何度も打っては消し、打っては消しを繰り返した。画面の中の文字は、書いては消える度に、少しずつ違う角度から同じ真実に近づいていったが、どの角度からも、最後には穂乃香という名前に行き着いてしまう。

 三十分近く、明莉はそうやってスマートフォンと向き合っていた。指先が冷えてきて、明莉は一度両手を擦り合わせた。この違和感を誰かに話したいのに、話す相手が話の中心人物であるという矛盾。その矛盾に、明莉はどうしようもなく立ち往生していた。誰かに話すことで軽くなるはずの感情が、話し相手を選べないという事実によって、かえって重くのしかかってくる。この状況そのものが、今の自分の孤独を象徴しているようだった。最終的に、その夜、穂乃香に送ったメッセージは、「元気にしてる?」という、あたりさわりのない一文だけだった。

 送信ボタンを押したあと、明莉はスマートフォンを枕元に置き、天井を見上げた。既読はすぐについたが、返信はしばらく来なかった。穂乃香も何か忙しいのだろうと、明莉はそれ以上深く考えないようにした。

 週末、健人と電話で話しているとき、明莉は思い切って提案してみた。窓の外は日が暮れかけていて、部屋の中はまだ電気をつけていなかった。薄暗い中でスマートフォンの画面だけが明るく光っている。この一週間、ずっと考えていたことだった。健人と二人だけの時間を、もっと意識的に作りたい。その気持ちを、ようやく言葉にする決心がついた夜だった。

「今度は、私たち二人の場所を作りたい」

 健人が旅行の計画を立ててくれることを、期待しての言葉だった。行き先はどこでもよかった。ただ、健人が自分だけのために何かを考えてくれる時間が欲しかった。

「いいね。穂乃香さんにもおすすめを聞こうか」

 その返事に、明莉はしばらく黙り込んだ。二人だけの場所、という言葉の意味が、健人にはうまく伝わらなかったらしい。あるいは、伝わったうえで、無意識のうちに三人目を招き入れてしまったのかもしれない。悪気がないことは、明莉にもわかっていた。だからこそ、それを指摘する言葉が見つからなかった。窓の外を、夕暮れの最後の光が、ゆっくりと消えていくところだった。

「明莉? 聞いてる?」

「あ、うん、聞いてる。ちょっと考えてた」

「穂乃香さん、旅行雑誌の仕事もしてたことあるって言ってたから、いい場所知ってそうだなと思って」

 健人は悪気なく続けた。その説明が理にかなっているだけに、明莉はますます反論の言葉を失っていった。もっともらしい理由をつけられるたびに、明莉は自分の違和感のほうが、不合理なものであるかのように感じさせられていった。それが一番、苦しいところだった。

「そっか、確かに詳しそうだね」

 自分の口から出た言葉が、自分でも驚くほど平静だった。本当は違うと言いたいのに、言葉にする勇気が出てこない。健人はそのまま、穂乃香におすすめの旅行先を聞くことに乗り気になって、話を続けていた。

「ごめん、ちょっと仕事の電話入りそう。また今度話そう」

 明莉はそう言って、通話を切った。仕事の電話などなかった。ただ、これ以上その話を続ける自信が、明莉にはなかった。通話を終えたスマートフォンの画面には、健人との通話時間が表示されている。数字を見つめながら、明莉はしばらく動けずにいた。

 通話履歴の画面を、明莉は指先でなぞった。今日という日のこの通話も、いつか振り返ったときに、何かの境目として記憶されるのだろうか。それとも、こんな小さな出来事は、時間とともに埋もれて忘れられていくのだろうか。今の明莉には、まだどちらとも判断がつかなかった。

 電話を切ったあと、ふと、学生時代の記憶がよみがえった。毎年同じ時期に、明莉と穂乃香は決まった場所で紅葉を見に行っていた。高校の裏山にある小さな展望台で、二人だけの秘密の場所のように思っていた。制服のまま自転車で駆け上がり、息を切らしながら眺めた夕焼けと紅葉の重なり。あの頃は、誰かに「二人だけの場所」を説明する必要すらなかった。それが当たり前に、二人の間だけで完結していたからだ。展望台のベンチには、二人で彫った小さな印がまだ残っているはずだった。卒業してからも、何度かその場所を訪れたことがある。あの頃の「二人だけの場所」には、迷いなど何もなかった。

 翌朝、明莉は台所に立ち、二人分の朝食を作る想像をした。トーストとスクランブルエッグ、それにコーヒーを二杯分。頭の中で健人と過ごす朝を描きながら、明莉は食器棚から皿を二枚取り出した。窓の外には、まだ靄がかった十一月の朝の空気が広がっている。皿を二枚並べようとして、途中で一枚を戻す。健人と食べる朝食を想像したはずが、頭の中にはなぜか、いつも第三の存在が浮かんでしまう。この想像の中でさえ、健人の意識がどこか別のところに向いているような気がしてならなかった。

「私は誰と付き合ってるんだろう」

 小さくつぶやいた声は、冷蔵庫の作動音にすぐに吸い込まれて消えた。誰にも届かない問いだった。それでも、その問いを口にしたことで、明莉は自分の中の何かが、はっきりと形を持ち始めたのを感じた。台所の窓から差し込む朝の光が、まだ弱々しく、部屋の隅々までは届いていなかった。

 問いを口にしてしまうと、もう後戻りはできない気がした。今まで曖昧なままにしておくことで保っていた平穏が、この一言で少しずつ崩れていくのを、明莉は感じていた。けれど、崩れることを恐れて口をつぐみ続けるよりは、たとえ痛みを伴っても、自分の本当の気持ちに向き合うほうを選びたかった。

 トーストが焼き上がる音を聞きながら、明莉はもう一度、昨日一日の出来事を頭の中で振り返った。兼六園での紅葉、ことじ灯籠での写真、茶店でのくるみ餅、電話での提案。どの場面でも、健人の意識の端には、常に穂乃香の存在があった。それは決して悪意によるものではない。ただ、その無自覚さこそが、明莉には一番こたえた。悪意があれば、まだ怒ることができる。悪意がないからこそ、明莉は自分の違和感を、どこにぶつければいいのかわからずにいた。

 トーストにバターを塗りながら、明莉は自分自身にも問いかけた。もし健人が、これほどまでに穂乃香の名前を口にしなかったら、自分は今の関係に満足していただろうか。答えはおそらく、イエスだった。健人と過ごす時間そのものは、今でも楽しい。穏やかで、優しくて、一緒にいて疲れない。それだけに、この違和感がなければ、何も知らずに済んだのかもしれない。そう考えると、自分の感受性の鋭さが、時に恨めしくもあった。

 明莉はキッチンの隅にあったノートを開き、思いつくままにペンを走らせた。今日一日で、健人の口から穂乃香の名前が出た回数を、正の字で数えてみる。園路での写真、くるみ餅、電話での提案。数えるうちに、正の字は七画に達していた。たった一日で、七回。この数字を、自分は今まで意識的に数えないようにしてきたのだと、明莉はノートを見つめながら思い知らされた。

 数字にして眺めてみると、これまで感覚として捉えていた違和感が、急に生々しい実感を伴って迫ってきた。七回という数字自体は、多いとも少ないとも言い切れないかもしれない。ただ、その七回のすべてが、無意識のうちに、しかも自然に、健人の口から漏れ出たものだという事実が、明莉には何よりも重かった。意識して抑えられているならまだ理解できる。意識せずに出てしまうということは、それだけ深く根を張っているということだ。

 ノートのページをめくると、これまで何気なく書き留めてきた仕事のメモや、パッケージデザインのアイデアが並んでいる。その合間に、今日初めて、健人と穂乃香についての記録を書き加えたことに、明莉は妙な感慨を覚えた。数字にすることで、曖昧だった違和感が、動かしようのない事実に変わっていく。企画書を作るときと同じ手順で、明莉は自分の感情までも、データとして扱おうとしていた。それが正しいやり方なのかどうか、自分でもわからなかった。ただ、このまま数字にしないままでいるよりは、少なくとも前へ進める気がした。

 仕事なら、データを集めたあとには、必ず次のアクションを考える。今回も同じように、この記録をもとに、次に何をすべきかを考える必要があった。健人に直接問いただすのか、それとも穂乃香に確かめるのか、あるいはもうしばらく様子を見るのか。どの選択肢も、それぞれに違う痛みを伴いそうだった。けれど、何も選ばずにいることが、一番危険な選択かもしれないと、明莉は薄々感じ始めていた。

 絶え間なく繰り返される、その名前のリフレイン。もう、聞かなかったふりはできない。明莉はノートを閉じ、朝食の支度を再開した。皿は一枚だけ、テーブルに置いた。焼き上がったトーストを皿に乗せながら、明莉は自分の呼吸が、いつのまにか少し落ち着いていることに、自分でも驚いた。

 トーストを齧りながら、明莉は窓の外を眺めた。十一月の朝の光が、ゆっくりと部屋の奥まで届き始めている。今日という日を境に、自分は何かを見過ごさない選択をした。その選択が正しいのかどうかは、まだわからない。それでも、七つの正の字を刻んだノートのページを閉じたことで、明莉は自分の中で、小さな覚悟のようなものが芽生えたのを感じていた。

 朝食を終えると、明莉はいつも通り身支度をして、仕事へ向かう準備を始めた。玄関で靴を履きながら、ふとスマートフォンを確認すると、穂乃香からの返信が届いていた。「元気だよ、明莉は?」という、こちらもまた、あたりさわりのない一文だった。その短さに、明莉は今までとは違う意味を感じずにはいられなかった。以前なら、もっと長い、他愛もない話が続いていたはずだった。短くなったやり取りの理由を、明莉はまだ突き止められずにいた。それでも、今日という日から、その理由を探し始めることだけは、心に決めていた。

 玄関を出ると、外はすでに明るく、通勤する人々の姿がちらほらと見えた。冷たい空気を吸い込みながら、明莉は駅までの道を歩き始めた。ノートに刻んだ七つの正の字が、まだ頭の中に残っている。その数字が示す意味を、これからどう受け止めていくのか。答えはまだ出ていなかったが、少なくとも今日の明莉は、昨日までの自分より、少しだけ前に進んでいた。


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