第六章:沈黙の重さ
橋場町の小さな喫茶店で、穂乃香はノートパソコンを開いていた。窓際の席からは、通りを歩く人々の姿が見える。クライアントのサイトの導線を、朝からずっと引き直している。何度もボタンの配色を変えては元に戻す作業を繰り返していた。画面の端に、明莉からのメッセージが表示されたままになっていた。「今週末、久しぶりに会えない?」
穂乃香はしばらくその文面を見つめていた。会いたい気持ちは、本当にあった。それなのに、その気持ちがあるからこそ、会うことが怖くもあった。今の自分の顔を見れば、明莉には何かを見抜かれてしまうかもしれない。長い付き合いだからこそ、明莉の観察力の鋭さを、穂乃香は誰よりもよく知っていた。
穂乃香は返信欄に指を置き、しばらく迷ってから文字を打った。カーソルは何度も進んでは消え、また進んだ。
「ごめん、急な案件が入っちゃって」
嘘だった。今抱えている仕事は、来週まで余裕がある。それでも、送信ボタンを押す指は、迷いなく動いた。むしろ、迷いなく動いたことのほうが、穂乃香には恐ろしく感じられた。以前の自分なら、こんな嘘は思いつく前に、正直な気持ちのほうが先に口をついて出ていたはずだった。
「仕事なら仕方ないね。また誘う」
明莉からの返信は、いつも通り優しかった。その優しさが、穂乃香にはかえって重く感じられた。もし明莉が少しでも不満を口にしてくれたら、穂乃香はまだ、その不満に応える形で自分を正当化できたかもしれない。けれど、明莉は何も疑わず、ただ優しく受け止めてくれる。その無防備な優しさこそが、今の穂乃香には一番耐えがたかった。送信した嘘の文面は、もう消せない。穂乃香は画面を閉じ、シャツの袖のボタンを外しては留め直す仕草を、無意識に三度繰り返していた。
自宅の作業机に戻ると、部屋はすっかり暗くなっていた。仕事を終えた解放感より先に、静けさが穂乃香を包んだ。カーテンを開けたままの窓から、隣の建物の明かりが漏れ、部屋の中に薄く光の筋を作っていた。穂乃香は検索窓に「健人」と打ちかけて、途中で指を止めた。何を調べるつもりだったのか、自分でもわからなかった。SNSのアカウントを見に行きたかったのか、それとも単に、その二文字を画面に映してみたかっただけなのか。文字を消し、画面はまた暗くなった。
「会わなければ、気持ちは薄くなる」
誰にともなく、小さく声に出してみる。それらしい理屈のはずだったが、口に出した瞬間、自分でもその薄っぺらさに嫌気が差した。会いたくないわけではない。むしろ、会いたい気持ちのほうが強いからこそ、会わないようにしている。その矛盾に、穂乃香は自分でも疲れていた。
「薄くしたいのは気持ち、それとも罪悪感?」
もう一度、今度は問いかける形で言い直してみたが、答えは出てこなかった。穂乃香はスマートフォンを手に取り、通知をすべて切った。明莉から届くかもしれない次のメッセージを、今は見たくなかった。
机の上には、健人と穂乃香が食事会で会った日のレシートが、片付けきれずにまだ残っていた。捨てるタイミングを逃したまま、いつの間にか三週間近くが経っている。穂乃香はそのレシートを手に取り、しばらく眺めてから、結局また元の場所に戻した。捨てることも、取っておく理由を説明することも、どちらも今の自分にはできなかった。
翌日のオンライン打合せで、穂乃香はクライアントに、入力フォームのエラーメッセージの文言案を説明していた。共有画面には、入力ミスがあった際に表示される案がいくつか並んでいる。打合せの前、穂乃香は珍しく寝坊してしまい、朝食も取らずに画面の前に座っていた。空腹のせいか、頭の回転がいつもより鈍く感じられた。
「『入力内容をご確認ください』だと、どこが違うのか伝わらないと思います」
穂乃香がそう指摘すると、画面の向こうで担当者が首をかしげた。
「でも、具体的に書きすぎると、責めてるみたいに見えませんか」
その質問に、穂乃香は一瞬言葉に詰まった。画面越しに見える担当者の顔が、心なしか不安げに映った。自分の言葉が、まるで誰かへの告白のように、頭の中で反響した。曖昧な言い方で相手を傷つけないようにしているつもりで、実は自分が具体的に説明する痛みから逃げているだけではないか。穂乃香はグラスの水を一口飲んで、間を取った。
「責めるためじゃなくて、直すために書く。そこがずれなければ、具体的でも冷たくは伝わらないと思います」
「なるほど。じゃあ、『メールアドレスの形式が正しくありません』みたいな感じですか」
担当者が確認するように聞いてきた。穂乃香は画面を見つめながら、答えた。
「はい。曖昧にぼかすより、何がどう違うかを伝えたほうが、結局は親切だと思います」
「なるほど、勉強になります」
担当者の声に、穂乃香は頷いた。
「修正案、今日中にお送りします」
言いながら、穂乃香は自分がここ数週間、明莉に送ってきた文面を思い出していた。「急な案件が入っちゃって」。それは、ユーザーへの不親切なエラーメッセージと、同じ種類の言葉だった。どこがどう違うのかを隠したまま、ただ「申し訳ありません」とだけ表示する画面。相手を傷つけないためではなく、自分が具体的に説明する痛みを避けるための曖昧さだった。
打合せを終えたあとも、穂乃香はしばらく画面の前から動けなかった。仕事の言葉として発した内容が、こんなにも自分自身に跳ね返ってくるとは思わなかった。
その週末、穂乃香は近江町市場へ買い出しに出かけた。買い物袋の中で、長ねぎの葉先が揺れている。加賀れんこんの入った袋が、その下で重みを増していた。師走を控えた市場は、いつもより人通りが多く、威勢のいい呼び込みの声があちこちから聞こえていた。歩道を歩いていると、少し先の交差点に、明莉と健人の姿が見えた。二人は楽しそうに並んで歩いている。健人が何かを指差し、明莉が笑って頷いていた。
昨日、穂乃香は仕事仲間の友人と、久しぶりにランチをしていた。話の流れで、最近顔を出さなくなった三人組のことを聞かれた。
「明莉ちゃんたちとは、最近会ってないの?」
「うん、ちょっとお互い忙しくて」
「そうなんだ。仲良かったのに、寂しいね」
友人の何気ない一言に、穂乃香は曖昧に微笑んで頷くしかなかった。忙しいから、という理由は、半分は本当で、半分は都合のいい言い訳だった。忙しさを理由にすれば、誰も深く追及してこない。その便利さに、穂乃香は自分でも嫌気が差していた。友人はそれ以上何も聞かず、話題を別の方向へ移してくれた。その気遣いに救われながらも、穂乃香は自分がまた一つ、本当のことを言わずに済ませてしまったことを、胸の奥で自覚していた。
穂乃香は反射的に、隣の路地へと足を向けた。声をかける勇気も、かけない理由を説明する言葉も、今は持ち合わせていなかった。路地の陰から、遠ざかっていく二人の後ろ姿を、穂乃香はしばらく見つめていた。健人がふと振り返るような仕草を見せた気がしたが、それが自分を見つけたからなのか、単なる偶然なのか、確かめる術はなかった。もし勘づいていたとしても、健人はきっと何も言わずに、そのまま歩き続けるだろう。そう思うと、穂乃香の胸は、安堵とも寂しさともつかない感覚で満たされた。
路地の壁にもたれかかりながら、穂乃香は買い物袋の持ち手を強く握りしめていた。今の自分の行動が、どれほど滑稽か、頭のどこかでは理解していた。ただ買い物をしていただけの日に、たまたま見かけた友人二人を、こそこそと避ける。誰に見られているわけでもないのに、穂乃香は自分の顔が赤くなっているのを感じた。
しばらくして、二人の姿が完全に見えなくなってから、穂乃香はようやく元の道に戻った。買い物袋の中身が、いつの間にか片方に寄っていた。それを直しながら、穂乃香はもう一度、自分の中の小さな臆病さと向き合わざるを得なかった。
市場の中央通りを歩きながら、穂乃香はふと、健人と初めて食事会で会った日のことを思い出した。あの日、健人が語った「壊さず残すだけじゃ、町は息をできない」という言葉に、自分がどれほど強く共感したか。あの共感が、単なる価値観の一致だったのか、それとも既にその時から芽生えていた何かだったのか、今となっては見分けがつかなかった。あの日の食卓には、まだ何の陰りもなかったはずだ。三人でただ楽しく食事をして、それだけの夜だったはずなのに、今振り返ると、その記憶の中にさえ、小さな予兆が隠れていたような気がしてしまう。
鮮魚店の前を通りかかると、店主が威勢よく声をかけてきた。
「お姉さん、今日のブリいいよ!」
「あ、じゃあ一切れください」
穂乃香は反射的にそう答え、財布を取り出した。店主は慣れた手つきでブリを捌きながら、世間話を振ってきた。
「今日は一人? いつも友達と一緒に来てなかった?」
「あ……はい、今日は一人です」
「そうかい。また今度、一緒にいらっしゃい」
何気ない一言だったが、穂乃香の胸に小さく残った。この市場でも、明莉との日常が、他人の記憶の中にまで刻まれていたことを、今更ながら痛感した。日常の些細なやり取りに応じることで、さっきまでの動揺を、少しずつ普段の自分に戻していった。ブリの切り身を買い物袋に加えながら、穂乃香は今日の夕食の献立を考え始めた。考える対象を目の前のことに移すことで、心のざわめきを、なんとか押しとどめようとしていた。
その夜、明莉から音声メッセージが届いた。再生すると、明莉の明るい声が流れてきた。仕事で少し失敗した話を、笑い話のように話している。企画会議で資料の順番を間違えて配ってしまい、上司に指摘される前に自分で見つけて事なきを得た、という他愛もない話だった。声の背景には、テレビの音か何かが小さく聞こえていて、いつものように部屋でくつろぎながら話しているらしいことが伝わってきた。その声の端々に、会えていないことへの寂しさが、隠しきれずに滲んでいた。
「最近、穂乃香不足なんだけど」
最後にそう付け加えられた一言に、穂乃香はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。明莉の声は、いつもと変わらず明るかった。それだけに、その明るさの奥にある本当の寂しさが、穂乃香にはよくわかってしまった。
「今度、落ち着いたら必ず」
穂乃香はそう返信した。「いつ」という具体的な日付を入れないまま、約束の形だけを残した文面だった。送ってしまってから、その曖昧さに、自分自身が一番落胆していた。かつての自分なら、こんな返し方はしなかったはずだ。具体的な日を決め、手帳に書き込み、その日を心待ちにする。今の自分は、約束の形を保ちながら、その中身をずっと先延ばしにしていた。
既読がついたのを確認して、穂乃香はスマートフォンを裏返しにテーブルへ置いた。明莉が今、この曖昧な返信をどう受け止めているのか、考えるだけで胸が痛んだ。もしかしたら明莉は、この「今度」という言葉の軽さに、既に何かを感じ取っているのかもしれない。それでも今の穂乃香には、具体的な約束をする勇気が、まだ持てずにいた。テーブルの上で、スマートフォンの画面がもう一度、短く光った。今度は見ないことにした。
夜、穂乃香は一人で浅野川沿いを歩いた。中の橋の下を、黒い水が音もなく流れていく。晩秋の夜気は、思ったより冷たかった。マフラーに顎をうずめながら、穂乃香はいつもより遠回りの道を選んで歩いていた。人通りのない道で、穂乃香は誰もいないことを確かめてから、小さく声に出してみた。
「私も最初から健人さんが好きだった」
声は思ったより小さく、川の音にかき消されそうだった。それでも、口に出したことで、自分の中にある感情の輪郭が、少しだけはっきりした気がした。何度も心の中で繰り返してきた言葉を、初めて空気の振動として外に出した瞬間だった。橋の下を通り過ぎる自転車のライトが、川面に一瞬だけ光の筋を作って消えた。想像の中で、明莉が驚いた顔でこちらを見て、問いかける。
「それを、どうして私に言わなかったの」
その問いに、穂乃香は声を失った。しばらく黙り込んだあと、ようやく絞り出すように言葉が出てきた。
「怖かった」
初めて、自分の中の感情に、正確な名前をつけた瞬間だった。何が怖かったのか。明莉に嫌われることか、二人の関係が壊れることか、それとも、自分の気持ちを認めてしまうこと自体か。穂乃香にはまだ、それをさらに細かく分けることはできなかった。ただ、「怖かった」という一言だけが、今はっきりと形を持って、胸の中にあった。
誰かに打ち明けるでもなく、ただ川に向かって呟いただけの言葉だった。それでも穂乃香の中では、何かが確かに動いた感覚があった。今まで曖昧にぼかしてきた感情に、輪郭という一枚の膜ができたような、そんな感触だった。輪郭ができたからといって、すぐに何かが解決するわけではない。むしろ、これからその輪郭とどう向き合っていくかという、新しい問題が始まっただけなのかもしれなかった。
橋の欄干に手をかけ、穂乃香はしばらく川面を見下ろしていた。黒い水は、街灯の光を細かく砕きながら、絶え間なく流れ続けている。この水のように、自分の気持ちも流れて消えてくれればいいのに、と穂乃香は思った。けれど、感情はそんなふうに都合よくは流れてくれなかった。
橋を渡り終えたところで、スマートフォンが震えた。画面には、明莉の名前が表示されている。着信だった。穂乃香は数秒、画面を見つめたまま動けなかった。街灯の下に立ち止まり、その光の輪の中だけが、やけにひっそりと感じられた。出れば、今日一日で積み重ねてきた自分の言い訳が、声のわずかな震えから見抜かれてしまうかもしれない。出なければ、また一つ、明莉に不自然な印象を与えてしまう。どちらを選んでも、何かを失うような気がした。
結局、穂乃香は通話ボタンをタップした。
「もしもし」
「穂乃香? 今大丈夫? ちょっと声聞きたくて」
「うん、大丈夫だよ。散歩中」
「そっか。最近全然会えてないから、声だけでも聞けてよかった」
明莉の声は、いつも通り明るかった。その明るさに救われながらも、穂乃香は自分の声のトーンが、いつもより硬くなっていないかを気にしていた。電話の向こうで、明莉が小さく笑う気配がした。何気ない笑い声のはずなのに、穂乃香にはその一つひとつが、今はとても愛おしく、同時にとても遠く感じられた。
「今度、絶対会おうね」
「うん、絶対」
電話を切ったあと、穂乃香は橋の途中で立ち止まり、しばらく夜空を見上げていた。雲の隙間から、細い月が覗いている。今度、絶対。その言葉を、自分は何度目にしただろうか。約束の言葉を重ねるたびに、その言葉の重みが、少しずつ軽くなっていくような気がしていた。言葉というのは不思議なもので、本当に大切な約束ほど、口にする回数が増えるほど、かえって軽く聞こえてしまうことがある。今の自分と明莉の間にあるのは、まさにそういう種類の言葉だった。
ふと、明莉が失恋した夜のことを思い出した。高校三年の冬、明莉が付き合っていた人に振られて、電話越しに泣きじゃくった夜。穂乃香はすぐに明莉の家に駆けつけ、朝まで同じ布団の中で、他愛もない話をして過ごした。窓の外は雪が降っていて、二人で温かいココアを飲みながら、くだらない冗談を言い合って笑った記憶がある。あの夜、明莉は何度も「穂乃香がいてくれてよかった」と繰り返していた。その言葉を聞くたびに、穂乃香は自分の存在が明莉の支えになれていることを、素直に誇らしく思っていた。あの時、明莉を支える自分に、迷いなど何もなかった。あの頃の自分と今の自分の間に、いつの間にか埋められない隔たりができてしまったことを、穂乃香は深く噛みしめていた。
あの夜、迷わず明莉のもとへ駆けつけられたのは、自分の中に何も隠すものがなかったからだ。今はもう、そうはいかない。明莉のために何かをしようとするたびに、自分の中の隠したい部分が、行動にブレーキをかける。かつては当たり前にできていたことが、今はこんなにも難しい。その変化の理由を、穂乃香は誰よりもよくわかっていた。
数日後、穂乃香は久しぶりに喫茶ひばりを訪れた。閉店間際の店内には、穂乃香のほかに客はいなかった。カウンターの向こうで、店主が片付けをしながら声をかけてきた。この店には、明莉と何度も一緒に来ていた。窓際の席には、二人でよく座った定位置があった。店主は二人の顔をすっかり覚えていて、注文を言わなくても好みの飲み物を出してくれるほどだった。今日は一人で座るその席が、いつもより広く感じられた。
「最近、明莉ちゃん見ないね。二人、喧嘩でもした?」
その問いに、穂乃香は指先をいったん止めた。
「してないです。忙しいだけ」
言いながら、穂乃香は自分の言葉の空虚さを、自分でもわかっていた。喧嘩さえしていない。それなのに、この距離感がある。喧嘩なら、まだ仲直りという道筋が見える。何も揉めていないのに離れていくことのほうが、よほど根が深い問題なのかもしれなかった。
「そう。仲良かったのに、寂しいわね」
店主の何気ない一言が、穂乃香の胸に、じんわりと刺さった。
「私も、寂しいです」
思わずそう漏らすと、店主は少し驚いた顔をして、それ以上は何も聞いてこなかった。ただ黙って、コーヒーのおかわりを注いでくれた。年配の店主らしい、余計な詮索をしない優しさだった。穂乃香はそのコーヒーを両手で包み、しばらく湯気を見つめていた。誰かに本当のことを話したいという衝動が、喉の奥までせり上がっていたが、それを言葉にする相手は、今この店にはいなかった。窓の外はすでに暗く、閉店の準備を告げる看板の明かりが、通りに小さく灯っていた。穂乃香はコーヒーの残りを飲み干し、椅子を立った。向かいの席には、誰も座っていない予約札だけが、そのまま置かれていた。
帰り道、穂乃香はスマートフォンを取り出し、明莉とのメッセージ履歴を開いた。最後のやり取りから、もう一週間近くが経っている。何か書こうとして、指を止めた。「今度、落ち着いたら必ず」と自分が書いた言葉が、まだ画面に残っている。その「今度」がいつなのか、穂乃香自身にもまだ、答えは出せずにいた。
履歴を遡ると、以前の二人の会話は、もっと頻繁で、もっと軽やかだった。「今日何食べた?」「これ見て、可愛くない?」といった、何気ないやり取りが、画面いっぱいに並んでいる。そこには、健人と出会う前の二人の日常が、そのまま残されていた。写真も一緒に送り合っていて、他愛もないスイーツの写真や、道端で見つけた面白い看板の写真が、時系列に並んでいる。それがいつからか、こんなにも間隔の開いた、言葉数の少ないやり取りに変わってしまった。変化はゆっくりと進んだから、どの一通が境目だったのか、穂乃香にはもう特定できなかった。
夜道を歩きながら、穂乃香は自分の中の沈黙の重さを、初めて正面から感じていた。何も言わないことは、何も傷つけないことだと、これまでずっと思ってきた。けれど、その沈黙が積み重なるほど、自分と明莉との間には、言葉にしなかった分だけの距離が、確実に広がっていく。その事実から、穂乃香はもう、目を逸らし続けることができなくなっていた。
自宅に戻り、玄関の鍵を閉めると、穂乃香はコートも脱がずに座り込んだ。明莉に送った「今度」という二文字が、約束ではなく逃げ道に見えた。しばらくして我に返ったように立ち上がり、ようやくコートを脱いでソファに座り直す。テーブルの上には、まだ返信していないメッセージがいくつか溜まっている。仕事関係のもの、フリーランス仲間からの雑談、そしてその中には、明莉からのものも含まれていた。穂乃香はしばらくその画面を見つめたあと、ゆっくりと目を閉じた。今夜はもう、何も返信しないことにした。答えを出す準備が、まだできていなかった。
ソファに深く沈み込みながら、穂乃香は自分がこれからどうしたいのかを、もう一度考えようとした。健人への気持ちを、このままずっと胸の内に留めておくことができるのか。明莉との関係を、この距離感のまま保ち続けることができるのか。どちらの問いにも、明確な答えは浮かんでこなかった。ただ、今日という一日を通して、自分の中の沈黙が、もう限界に近づいているという実感だけは、はっきりと残っていた。穂乃香はソファの上でひざを抱え、その姿勢のまま、しばらく動かなかった。




