第五章:古い街の三人
紅葉が色づき始めた頃、三人でひがし茶屋街を歩く約束をした。健人が「町家の勉強にもなるから」と言い出し、穂乃香も「久しぶりに三人で出かけたいね」と乗ってきた話だった。待ち合わせの日、明莉は前の晩から少し気合を入れて、新しく買ったコートに袖を通した。石畳の表通りには、観光客の間を縫うように、着物姿の人々が行き交っている。三人分の影が、石畳の上に長く伸びていた。
「久しぶりだね、三人で歩くの」
「そうだね。最近、二人で会うことが多かったから」
健人の言葉に、明莉は小さく頷いた。付き合い始めてからというもの、健人と二人で会う日が増えた分、三人で集まる機会は少しずつ減っていた。それが自然な変化なのか、それとも何かを避けた結果なのか、明莉自身にもまだわからなかった。
「今日は久しぶりに、健人くんの案内で回ろうよ」
明莉が提案すると、健人は少し照れたように笑った。
「そんな詳しくないけど、いくつか面白い建物は知ってるよ」
「楽しみ」
穂乃香もそう言って、三人は連れ立って歩き始めた。石畳を踏む音が、三人分重なって響いた。少し先を歩く観光客のグループが、着物のレンタル店の前で写真を撮り合っている。その賑やかな声を背景に、三人はゆっくりと表通りを進んでいった。
「穂乃香、最近どう? サイトの仕事、落ち着いた?」
明莉が尋ねると、穂乃香は少し苦笑いした。
「まあまあかな。新しいクライアントが入って、また忙しくなりそう」
「無理しないでね」
「明莉こそ、健人さんとうまくいってる?」
「うん、順調だよ」
その答えを口にしながら、明莉は自分の声が、少しだけ台詞めいて聞こえたことに、自分でも戸惑っていた。順調、という言葉の中に、まだ言葉にできていない小さな引っかかりが、いくつも隠れている気がした。
「そういえば、この前の見学会の日程、健人さんから聞いた?」
穂乃香が話題を変えるように尋ねてきた。
「うん、再来週の土曜だって。穂乃香も来るよね?」
「うん、行くつもり。楽しみにしてる」
その答えは自然に聞こえた。明莉は少し安心しながら、石畳の続く道を歩き続けた。
「残すなら、触れない方がいいのかな」
明莉が古い格子戸を眺めながら、何気なくつぶやいた。すると、健人がすぐに答えた。
「触れないままでは、建物も人も使われなくなるよ」
「そうそう。放っておくのが一番傷むの早いんだよね、こういう建物って」
穂乃香が健人の言葉に続けて頷く。二人の会話は、まるで事前に打ち合わせていたかのように滑らかに繋がっていった。明莉は自分の疑問が、二人の間であっという間に答えを見つけられていく様子を、少し離れた場所から眺めているような感覚を覚えた。会話に加わろうと、明莉は近くの店の看板を指差した。
「あの看板、随分年季入ってるね」
「本当だ。あれも直さず残してるパターンだ」
健人が明莉のほうを向いて答えてくれたので、明莉は少しほっとした。それでも、その直後にはまた健人と穂乃香の会話が続いていく。三人で歩いているはずなのに、明莉は時折、自分だけが少し後ろを歩いているような気がした。
「あの店、和菓子屋さんかな。ちょっと寄ってみない?」
明莉が提案すると、二人とも快く頷いた。小さな店の中に入ると、季節の上生菓子が並んでいる。明莉は職業柄、その細工の細かさに目を奪われた。
「これ、うちの会社でも参考になりそう」
「明莉、こういう時だけは本当に目が違うね」
健人が笑いながら言うと、明莉も嬉しそうに笑い返した。この時ばかりは、会話の中心に自分がいるという実感があった。
「明莉、さっきから静かだね。大丈夫?」
和菓子屋を出たあと、健人に聞かれて、明莉は我に返った。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「無理してない? 顔色、あんまりよくない気がして」
「大丈夫だよ、心配してくれてありがとう」
明莉はそう言って笑ったが、健人が自分の変化を見逃さなかったことに、少し驚いてもいた。少なくとも今この瞬間は、健人の意識が自分に向いている。その事実だけで、明莉の中の小さな不安は、いくらか和らいでいった。
三人は路地にある古民家カフェに入った。木の引き戸を開けると、囲炉裏の残る土間の奥に、小上がりの席が三つほど並んでいる。店内には香ばしい焙じ茶の香りが漂っていた。店主らしい年配の女性が、丁寧にお辞儀をして三人を席に案内してくれた。天井の梁を見上げると、一箇所だけ木の色が明らかに違う場所がある。
「あそこだけ新しい木ですね」
穂乃香が指差すと、健人もほぼ同時に同じ場所を見上げていた。
「本当だ。継いだ跡を隠してない」
「隠さないほうが、逆に信頼できる気がする」
その言葉に、健人は深く頷いた。
「わかる。完璧に直したように見せるより、直した過程が見えるほうが、その建物の歴史がちゃんと伝わる気がするんだよね」
「私も同じこと思った。だから今日、ここに来てよかった」
二人は顔を見合わせて、小さく頷き合った。木の柱の傷ひとつにも、二人は同じように目を留めているようだった。明莉はメニューを開いたまま、二人の視線が戻ってくるのを待っていた。数秒の間、自分の存在が二人の会話の外側にあるような感覚があった。
「二人とも、注文決まった?」
明莉が声をかけると、健人と穂乃香はほぼ同時にこちらを向いた。その反応の速さに、明莉は少しだけ安心した。考えすぎているだけかもしれない、と思い直しながら、明莉はメニューの中から加賀棒茶のセットを選んだ。店員が注文を取りに来るまでの短い時間、三人は窓の外を通り過ぎる観光客を眺めながら、他愛もない会話を交わした。
「こういうお店、金沢らしいよね。観光客も地元の人も、同じ空間で寛げるっていうのがいい」
健人がそう言うと、穂乃香が頷いた。
「私、こういう店でリモートワークしたくなる。集中できそう」
「それ、店の人に怒られない?」
明莉が笑いながら言うと、二人も一緒に笑った。この瞬間だけは、三人の間に自然な空気が流れていた。
運ばれてきたコーヒーに角砂糖を落としながら、話題は自然と最近読んだ本の話に移っていった。健人が話す作家の名前に、穂乃香がすぐに反応する。焙じ茶の香りが、二人の会話にほのかに寄り添っていた。
「この前の展示、余白がきれいだった」
穂乃香が言うと、健人がすぐに応じた。
「穂乃香さんならそう見ると思った」
その一言に、明莉はカップの底に残った砂糖の粒を、スプーンでゆっくりとかき混ぜた。自分の名前がしばらく呼ばれていないことに、明莉は思い当たっていた。作家の話から町家の話へ、会話は滑らかに続いていく。明莉はその流れに入るタイミングを、何度か探ったが、うまく見つけられなかった。
「そういえば、健人くんの会社の説明会、この前大変だったんだって?」
明莉はふと、健人から聞いた話を持ち出してみた。
「ああ、うん。反対意見をうまく扱えなくて、ちょっと反省した」
「私も似たようなことある。クライアントの要望と現実的な予算の折り合いつけるの、いつも大変」
穂乃香がすぐに共感を示すと、健人はそれに応じて、また二人の会話が続いていった。二人の話は、お互いの仕事の悩みを比較しながら、次第に深いところまで及んでいく。
「そういう時、健人さんはどうしてる?」
「一回持ち帰って、頭冷やしてから考え直すかな。穂乃香さんは?」
「私は逆に、その場で一気に片付けたい派。あとに残すと余計モヤモヤするから」
「それ、なんか二人の性格出てるね」
健人が笑うと、穂乃香もつられて笑った。明莉が持ち出した話題のはずなのに、気がつけばまた自分は聞き役に回っている。悪いことは何も起きていないのに、明莉の中には、小さな徒労感のようなものが積み重なっていった。
「明莉、静かだけど大丈夫?」
しばらくして、穂乃香がそれと察して声をかけてくれた。
「うん、大丈夫。二人の話、聞いてるだけで楽しいから」
明莉は笑ってそう答えたが、その言葉の中には、半分だけ本当で、半分だけ強がりの響きが混じっていた。窓の外を、着物姿の観光客のグループが通り過ぎていく。その賑やかな笑い声が、店内の静けさと対照的に響いた。
「そういえば明莉、最近仕事どう? 新商品の企画、進んでる?」
健人がふと話題を振ってくれた。明莉は少し驚きながらも、嬉しさを感じた。
「うん、なんとか進んでる。来月の展示会に向けて、パッケージの最終調整中」
「見てみたいな、完成したら」
「うん、絶対見せる」
健人が自分に話題を向けてくれたことで、明莉の中の小さな引っかかりは、少しだけ和らいだ。ただ、その安堵が長く続かないことを、明莉はどこかで予感していた。
「明莉の仕事の話、もっと聞きたいな。俺、和菓子とか洋菓子の違いとか、全然詳しくないから」
「そんな難しい話じゃないよ。今度、試作品持ってくるね」
「約束だよ」
健人が笑ってそう言うと、穂乃香も横から口を挟んだ。
「私もその試作品、味見したい」
「もちろん、二人とも招待するよ」
その瞬間だけは、三人の間に自然な均衡が戻ったように、明莉には感じられた。ただ、その均衡がどれくらい続くのか、明莉にはまだ確信が持てなかった。
カフェを出たあと、三人は浅野川大橋のたもとで足を止めた。夕暮れの光が川面を橙色に染めている。
「二人、そこに並んで。背景がきれいだから」
明莉はスマートフォンを構えながら、健人と穂乃香を橋の欄干の前に立たせた。夕日を背にした二人のシルエットが、画面の中でちょうどよいバランスに収まっている。
「明莉も入ろうよ。誰かに頼もう」
健人がそう言ってくれたが、明莉は「いいから、いいから」と手を振って、シャッターを切った。画面越しに見る二人は、自然な距離感で並んでいた。撮った写真をすぐに二人に見せると、穂乃香が「いい写真だね、ありがとう」と笑った。三人での写真を、あとで通りすがりの観光客に頼んで撮ってもらったが、できあがった写真を見返すと、明莉にはなぜか、健人と穂乃香が中心にいて、自分だけが少し画面の端に寄っているように見えてしまった。実際の並び順は変わらないはずなのに、そう見えてしまう自分の目のほうが、何かおかしいのかもしれないと明莉は思った。
橋を渡ったあと、三人は細い路地に迷い込んだ。主計町の入り組んだ小路は、観光地図にも載っていない曲がり角がいくつもある。夕暮れ時の路地には、格子窓から漏れる明かりが、ぽつりぽつりと灯り始めていた。三味線の音色がどこかの稽古場から聞こえてくる。旧い料亭の暖簾が、風もないのに小さく揺れていた。
「こういう迷路みたいな道、好き」
明莉がそう言うと、健人が笑いながら返した。
「迷った時に戻れる目印があるならね」
「じゃあ、私が目印覚えとく」
穂乃香がそう言って、周囲の建物の特徴を指差しながら歩き始めた。実際、しばらく歩くうちに三人は完全に道に迷ってしまったが、穂乃香が「あの赤い郵便受けのある角、さっき通った」と的確に指摘し、来た道を戻ることができた。
「すごいね、穂乃香さん。方向感覚いいんだ」
健人が感心したように言うと、穂乃香は少し照れたように笑った。
「昔から、地図読むの得意なの。頭の中で自然と道を覚えちゃう」
「羨ましいよ、俺なんてすぐ迷子になる」
「健人さんは、迷ってもなんとかなるタイプでしょ。誰かに聞けばいいやって顔してる」
「バレてる」
二人が軽口を叩き合うのを聞きながら、明莉は、自分だけが先頭に出て、次の角を無言で決めていたことに、ふと思い当たった。誰かに頼るより先に、自分で答えを出そうとする癖が、こういう時にも出ているのかもしれなかった。路地の奥から、三味線の稽古らしい音がかすかに聞こえてきた。
「明莉も方向感覚いいよね。さっきからずっと先頭歩いてる」
健人に言われて、明莉ははっとした。
「あ、ごめん。勝手に決めちゃってた」
「ううん、頼りになるよ。ありがとう」
健人の言葉に、明莉は少し救われた気持ちになった。とはいえ、自分が無意識のうちに先頭に立ってしまう理由が、単なる方向感覚の良さだけではないような気もしていた。誰かに委ねるより先に、自分で決めてしまうほうが、今は楽だったのかもしれない。
日が暮れかけた頃、三人は別れ際のバス停で立ち話をしていた。時刻表のガラス面には、小さな水滴がいくつも張り付いている。
「今度の見学会、もし興味が――」
健人が穂乃香に向かって言いかけて、途中で明莉のほうを見た。
「三人で行ける日なら」
穂乃香が健人の言葉を引き取るように、そう付け加えた。正しい答えだった。誰も責められるようなことは、何も言っていない。それなのに、明莉の胸には、その正しさが小さな棘のように刺さった。健人が最初に穂乃香だけに向けて話しかけたという事実が、あとから付け加えられた「三人で」という言葉で、きれいに上書きされてしまったような感覚があった。
「見学会、いつなの?」
明莉は努めて明るく尋ねた。
「再来週の土曜。もしよければ二人とも来てほしいな」
「行きたい。楽しみにしてる」
明莉はそう答えたが、心のどこかで、健人が最初に誰の名前を呼んだかを、まだ覚えていた。バスの到着を知らせるアナウンスが流れ、三人はそれぞれの荷物を持ち直した。
「見学会って、どんな町家見るの?」
穂乃香が尋ねると、健人は嬉しそうに説明を始めた。
「築百年くらいの古い町家で、今度改修プロジェクトが始まるところなんだ。中も見せてもらえることになってて」
「わあ、楽しみ。写真いっぱい撮ろう」
「明莉も、パッケージデザインの参考になるかもよ。古い建物の意匠とか」
「そうだね、見てみたい」
明莉はそう答えながら、この話題に自分がきちんと加われたことに、小さな安堵を感じていた。それでも、心のどこかに、まださっきの棘は残ったままだった。
ふと、三人で初めて金沢21世紀美術館へ行った初夏の午後がよみがえった。あの日は、三人の間に今日感じたような偏りはなかったはずだ。誰の話も、同じように聞かれ、同じように返された。健人が水面のインスタレーションの前で見せた表情も、あの頃はまだ、明莉に対しても穂乃香に対しても、同じ温度だった気がする。何が変わったのか、それとも変わったのは自分の見方のほうなのか、明莉にはまだ判断がつかなかった。
あの日、三人で並んで歩いた美術館の芝生広場を、明莉はふと思い出した。あの時は誰も、恋人でも親友でもなく、ただの「三人」だった。今はもう、その関係の中に、恋人と親友という役割が入り込んでいる。役割が増えたことで、何かが豊かになったはずなのに、明莉の実感としては、何かが少しずつ削られていくような感覚のほうが強かった。
バスが来て、明莉と穂乃香が乗り込んだ。健人は反対方向のバスを待つらしく、その場に残って手を振っていた。バスが走り出すと、穂乃香が窓の外を見ながら言った。
「今日、楽しかったね」
「うん、楽しかった」
明莉はそう答えながら、窓ガラスに映る自分の表情を確かめた。笑顔は自然に見えているはずだった。それなのに、胸の奥には、今日一日で積み重なった小さな棘が、まだ形にならないまま残っていた。
「健人さん、本当に町家のこと詳しいよね。話聞いてて飽きないもん」
穂乃香が何気なく言った一言に、明莉は小さく頷いた。
「うん、仕事に対する熱意がすごいよね」
「明莉は、健人さんのそういうところ、好きになったの?」
不意に聞かれて、明莉は少し考えてから答えた。
「うーん、それもあるし……一緒にいて、無理しなくていいところかな」
その答えを口にしながら、明莉は自分でも、今日一日感じていた小さな無理を思い返さずにはいられなかった。無理しなくていい、という言葉が、今の自分にどこまで当てはまっているのか、明莉自身にもよくわからなくなっていた。
「穂乃香は、今誰か気になる人いないの?」
明莉は何気なく聞き返した。バスの窓の外を、街灯の光が一定の間隔で流れていく。
「いないよ、今のところ」
穂乃香の返事は、いつもと変わらない調子だった。明莉はそれ以上深く聞かず、話題を変えた。
「そっか。明莉が幸せそうでよかった」
穂乃香はそう言って、窓の外に視線を戻した。その横顔が、いつもより少しだけ硬く見えたのは、夕方の光の加減のせいかもしれないと、明莉は思うことにした。
翌日、明莉は職場の会議室で、新ブランドの立ち位置を示すポジショニングマップと向き合っていた。競合他社の商品を配置した図の中で、自社の新商品だけが枠の外にはみ出している。会議室には明莉のほか、上司の田村と、企画チームの数名が集まっていた。
「枠を広げれば、全部入ります」
明莉が提案すると、上司が首を振った。
「それでは比べる意味がなくなります」
その指摘はもっともだった。枠を広げて全部を収めてしまえば、比較という行為そのものが意味を失う。田村はさらに続けた。
「明莉さん、この商品の独自性をもっと明確にしないと、結局どこにも位置づけられなくなりますよ」
「わかりました。もう一度、軸を見直してみます」
明莉は素直にそう答えたが、内心では、田村の言葉が別の意味を持って響いていた。独自性を明確にしないと、位置づけられなくなる。それは商品の話であると同時に、今の自分自身の状況にも、そのまま当てはまるような気がした。明莉は図を直しながら、ふと昨日の三人のことを思い出していた。誰かが枠の外に出てしまうことを避けるために、枠そのものを広げてしまうのは簡単だ。けれど、それでは本当に見なければならないものが、見えなくなってしまう。
会議が終わり、企画チームのメンバーが席を立つ中、明莉はしばらくその場に座ったまま、ノートパソコンの画面を見つめていた。「独自性を明確にしないと、位置づけられなくなる」。田村の言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。窓の外を見ると、隣のビルの植え込みが、秋の陽射しを受けて色づき始めていた。同僚の一人が声をかけてきた。
「明莉さん、大丈夫ですか? 顔色よくないですけど」
「あ、大丈夫です。ちょっと考え事してて」
明莉はそう答えて、資料をまとめ始めた。仕事に戻ることで、頭の中の靄を一時的にでも払いのけようとした。
赤い丸で囲まれた空白を見つめながら、明莉はしばらく手を止めていた。この空白が、今の自分の立ち位置と重なって見えるのは、考えすぎだろうか。それとも、この数週間ずっと感じてきた違和感が、ようやく形になり始めているだけなのだろうか。会議室の窓の外では、秋の乾いた風が、色づき始めた街路樹の葉を揺らしていた。
昼休み、明莉は自分のデスクで、昨日撮った三人の写真をもう一度開いた。健人と穂乃香が並んで笑っている写真、そして通りすがりの人に頼んで撮ってもらった三人の写真。何度見返しても、後者の写真の中で、自分の位置がほんの少し画面の端に寄っているように見える。実際の距離は変わらないはずなのに、そう見えてしまうのはなぜなのか、明莉は自問し続けていた。
スマートフォンをしまい、明莉は午後の会議のための資料を開いた。仕事に意識を向けている間だけは、昨日からの小さな翳りを、一時的にでも脇に置いておくことができた。それでも、資料の文字を追う目の奥で、昨日の光景――天井の梁を同時に見上げた二人の横顔が、何度も浮かんでは消えていった。
その日の夜、明莉は自室の机に向かい、日記代わりにつけているノートを開いた。ここ数週間、仕事の記録に混じって、三人で過ごした日のことを短く書き留める習慣がついていた。ペンを持ったまま、明莉はしばらく手を止めた。今日あった出来事を、そのまま正直に書けば、そこには小さな違和感の羅列が並ぶことになる。それを書いてしまえば、もう見なかったことにはできない。明莉は結局、「ひがし茶屋街、楽しかった」とだけ書いて、ノートを閉じた。書かなかった部分のほうが、今の自分にとっては、ずっと重い意味を持っていることを、明莉自身が一番よくわかっていた。
布団に入ってからも、明莉はしばらく寝付けなかった。天井を見つめながら、今日一日の光景を、順番に思い返す。天井の梁を同時に見上げた二人。滑らかに繋がっていく会話。自分だけ端に寄って見える写真。正しい答えなのに棘のように刺さった「三人で行ける日なら」という言葉。どれも、単独で見れば取るに足らない出来事だった。それでも、こうして並べてみると、そこには確かに、無視できない模様が浮かび上がっていた。
明莉は寝返りを打ちながら、自分がこれから何を選ぶことになるのだろうと考えた。今はまだ、その答えを出す準備ができていなかった。ただ、この違和感がこのまま消えてなくなることはないだろうという予感だけが、確かなものとして残っていた。明莉は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。そのまま、いつのまにか眠りに落ちていた。




