第四章:食卓の亡霊
初デートの日、明莉は仕事を早めに切り上げ、念入りに支度をして待ち合わせ場所へ向かった。昼休みのうちに新しい口紅を試し、同僚に「今日デートなの」と冷やかされて照れ笑いを返したのを覚えている。香林坊の交差点で健人を見つけると、彼はいつもより少し緊張した面持ちで手を振ってきた。夕方の街路には、初秋の柔らかな西日が差し込んでいた。
「お待たせ。今日はよろしく」
「ううん、私も今来たところ」
二人が向かったのは、健人が予約してくれた町家を改装したレストランだった。梁の残る天井と、坪庭に落ちる柔らかな灯りが、初秋の夜にはよく似合っていた。案内された個室の窓からは、小さな庭の緑がぼんやりと見えている。店員が最初のドリンクを運んでくるまでの間、健人は少し落ち着かない様子でメニューを何度も見返していた。その姿が、明莉にはかえって微笑ましく映った。乾杯のグラスを合わせながら、明莉は素直に喜んでいた。店内には低く音楽が流れていて、他の客の話し声は控えめに包み込まれていた。
「このお店、どうして知ってたの?」
何気ない質問のつもりだった。健人は少し考えてから答えた。
「穂乃香さんが、こういう雰囲気を好きだって言ってたから」
明莉は笑顔のまま、グラスの脚を指でなぞった。答えそのものは自然だった。三人でよく話す仲なのだから、誰かの好みが会話に出てくるのは当たり前のことだ。それでも、初デートの店選びの理由として最初に出てきた名前が、自分のものではなかったことに、明莉は小さな引っかかりを覚えた。その引っかかりを、明莉はすぐに脇へ押しやった。今日という日を、些細なことで曇らせたくなかった。
「素敵な店だね。誘ってくれてありがとう」
「気に入ってもらえてよかった。実は予約する時、少し迷ったんだ。明莉に合うかなって」
「そうなの? ちゃんと合ってるよ、すごく」
健人の言葉に、明莉は少し安心した。迷った末に選んでくれたのなら、それは自分のための選択でもあったはずだ。明莉はそう思い直して、料理に手をつけた。運ばれてきた前菜の彩りが、テーブルの上で小さな庭のように広がっていた。
「金沢って、こういう古い建物を大事にする土地柄だよね。健人くんの仕事にもぴったりだと思う」
「うん、それが一番のやりがいかな。壊すのは簡単だけど、残すほうがずっと難しい」
「難しいことに向き合ってるの、素敵だと思うよ」
明莉が微笑むと、健人も少し照れたように笑った。会話は自然に弾み、最初の引っかかりは、いったんは明莉の意識の外へ追いやられていった。店員が次の料理の説明をしに来て、二人はメニューについて相談を始めた。
料理が運ばれてくると、話題は自然と好きな本や映画の話に移っていった。健人が最近読んだ小説の話をすると、明莉はその作家を知らなかった。
「その作家、穂乃香も好きだよ」
「やっぱり。感想を聞いてみたいな」
健人の言葉に、明莉は小さく頷いた。『私にも聞いて』という言葉が喉元まで出かかったが、明莉はそれをワインと一緒に飲み込んだ。三人で会うたびに感じてきたことだが、健人と穂乃香は、趣味の話になると驚くほど波長が合う。今日もまたその話題が繰り返されただけのことだと、明莉は自分に言い聞かせた。
「明莉は最近、何か読んでる?」
「仕事関係の資料ばっかりで、ゆっくり本を読む時間がなくて。今度、健人くんのおすすめ教えて」
「もちろん。今度一冊選んでくるよ」
その約束に、明莉は少しほっとした。次は自分のために選んでくれる番だと思えたからだ。ただ、前菜が半分ほど残ったまま冷めていくのを、明莉はしばらく見つめていた。会話の主導権が、いつのまにか自分の手からこぼれ落ちていたような感覚が、うっすらと胸に残っていた。仕事で新商品の魅力を一行に言い切る企画会議なら、こういう感覚の正体を、項目に分けて整理することもできる。けれど、今この胸の中にあるものは、そんなふうに簡単には分けられなかった。
食事を終えて店を出ると、外は小雨が降り始めていた。健人が傘を一本だけ開き、二人は身を寄せ合うようにしてせせらぎ通りを歩いた。歩道の敷石に、雨の輪が次々と広がっては消えていく。川のせせらぎと雨音が重なって、静かな夜だった。
「次は、健人くんが本当に行きたいところにしよう」
明莉は肩に入った力を抜きながら、そう提案した。健人の答えを急かすつもりはなかった。
「今日の店も行きたかったよ」
言葉自体は素直な返事だった。ただ、そう言った時、健人の目は明莉ではなく、少し先の濡れた敷石に向いていた。答えの速さより、目が合わなかったことのほうが、明莉の中には長く残った。それが何を意味するのか、明莉はまだ言葉にできずにいた。傘の下で肩が触れ合う距離を、明莉はもう少しだけ縮めてみようとしたが、健人の歩調はそのままだった。
「寒くない?」
「大丈夫。傘、ありがとう」
「今度から傘、二本持ってこようかな。濡れずに歩けるように」
「ううん、これくらいがちょうどいいよ」
明莉はそう言いながら、健人の腕にそっと自分の腕を絡めた。健人は驚いたように一瞬体を強張らせたが、すぐに歩調を合わせてくれた。その反応の一瞬の遅れも、明莉の中には小さな記録として残った。
他愛もない会話を交わしながら、二人は駅までの道をゆっくり歩いた。雨脚は次第に弱まり、通りの店々の灯りが濡れた路面に反射していた。
その週の間、明莉と健人はメッセージのやり取りを重ねた。仕事の合間に届く「おはよう」や「今日は雨だから傘忘れずに」といった何気ない言葉に、明莉はそのたびに小さく心が温まった。夜、仕事を終えて帰宅する電車の中で、健人からのメッセージを見返すのが、いつのまにか明莉の小さな楽しみになっていた。二度目のデートの約束を決めるやり取りの中で、健人が「映画、何か観たいのある?」と聞いてきたので、明莉は前から気になっていた作品のタイトルを送った。
「それ、いいね。予告編見たことある。楽しみにしてる」
健人からの返信には、いつもよりはっきりとした前向きさがあった。その一文だけを見れば、二人の関係は何の問題もなく育っているように思えた。明莉はその一文を、何度も読み返した。
翌日、明莉は職場の試食室で、新商品のパッケージ案を同僚の桐生に見せていた。酸味の強い和菓子を「やさしい味」というキャッチコピーで売り出す案について、意見を交わしていたところに、桐生がふと話題を変えた。
「そういえば彼氏さんと親友さん、仲良いんだってね。恋人と親友まで仲がいいなんて、理想的じゃない」
何気ない一言だったが、明莉は視線を試作品の割れた薄い皮に落としたまま、少しの間、言葉を選んだ。試食室の蛍光灯が、二人の間のテーブルを白く照らしている。
「理想って、誰が決めた形なのかな」
自分でも思ったより硬い声が出た。桐生は軽く肩をすくめただけで、それ以上深くは触れてこなかった。
「そんな深い意味で言ったわけじゃないよ。ただ、羨ましいなって」
「ごめん、ちょっと言い方きつかったね」
「ううん、いいよ。仕事のプレッシャーで気が立ってるんでしょ、二人とも通るか通らないかの案件だし」
桐生はそう笑って流してくれたが、明莉はパッケージの角を指先で強く押さえながら、昨夜の健人の視線のことを、また思い出していた。理想的、という言葉が、なぜこんなにも自分の中で引っかかるのか、明莉自身にもまだうまく説明がつかなかった。試食用に並べられた菓子の甘い匂いが、いつもより遠くに感じられた。
「明莉、大丈夫? なんか今日ぼーっとしてる」
「ごめん、ちょっと寝不足で」
「無理しないでね。彼氏さんとうまくいってるなら、それが一番だから」
桐生の何気ない気遣いに、明莉は曖昧に微笑んで頷いた。うまくいっている、という言葉を、素直に肯定できない自分がいることに、明莉は少し戸惑っていた。
午後の会議で、明莉はその酸味の強い菓子を「やさしい味」と売り出す案を、なんとか通した。仕事に集中している間だけは、昨夜からの小さな引っかかりを忘れていられた。会議室を出るとき、明莉はふと、自分がこの数日、仕事にいつも以上に没頭していることに、自分で驚いた。
その週末、明莉は穂乃香と待ち合わせて、駅二階の喫茶スペースでお茶を飲むことにした。いつもの習慣だった。天気予報では午後から崩れるとのことで、窓の外の空は灰色に沈んでいる。穂乃香は先に来ていて、窓際の席で本を読んでいた。
「お待たせ、ごめん」
「ううん、全然。座って座って」
注文を済ませると、明莉は自然とデートの話を始めた。穂乃香はいつも通り、相槌を打ちながら聞いてくれる。ただ、明莉はふと、穂乃香の視線がカップの縁を何度もなぞっていることに、目が留まった。
「穂乃香、最近忙しいの? ちょっと疲れてない?」
「そう見える? 大丈夫、ただの寝不足」
穂乃香は笑ってごまかしたが、明莉にはその笑い方が、いつもより少しだけぎこちなく見えた。長い付き合いの中で培った勘のようなものが、何かを告げようとしていたが、明莉はその勘に従うことを、あえて避けた。踏み込んで、もし何もなかったら、余計な心配をかけてしまう。そう考えて、明莉は話題を変えた。窓の外では、予報通り、細かい雨が降り始めていた。
「そういえば、穂乃香の仕事の話、最近あんまり聞いてなかったね。受注サイトの改修、進んでる?」
「うん、少しずつね。クライアントとのやり取りが多くて、頭がパンクしそうだけど」
穂乃香はいつも通りの調子で仕事の愚痴をこぼし始めた。話しながら、コーヒーカップを両手で包むように持つ癖は、昔から変わっていない。その様子に、明莉はさっきの引っかかりが、単なる自分の考えすぎだったのかもしれないと思い直した。
「今度、健人くんも誘って三人でどこか行こうよ。紅葉、そろそろ見頃だし」
「うん、いいね。楽しみにしてる」
穂乃香の返事は自然だった。それでも、明莉の中に残った小さな違和感は、消えないまま次の日々へと持ち越されていった。カップに残ったコーヒーは、帰り際になってようやく口をつけると、すっかり冷めきっていた。
その夜、明莉は部屋のベッドに座り、穂乃香に電話をかけた。デートの報告をするのが習慣になっていた。窓の外は本降りの雨になっていて、雨音がガラス越しに規則正しく響いている。部屋の隅には、脱いだまま床に置かれたパンプスが片方だけ倒れていた。
「昨日ね、健人くんに素敵なお店に連れて行ってもらったの。すごく楽しかった」
「よかったね。どんなお店だったの」
「町家を改装したイタリアンで、雰囲気がすごくよくて。今度穂乃香も連れて行ってもらうといいよ」
「うん、行けたら行く」
「健人くん、穂乃香の話もたくさんしてたよ」
その一言のあとに、短い沈黙が挟まった。
「そうなんだ」
いつもより短い返事だった。明莉は脱いだまま床に置いていたパンプスを見つめながら、その沈黙の意味を考えた。穂乃香は照れているのかもしれない、と明莉は思うことにした。長い付き合いの友人が、自分と恋人の話題に頻繁に出てくることに、多少の気恥ずかしさを感じるのは自然なことだ。そう結論づけることで、明莉は自分の中の小さな不安に、ひとまず蓋をした。
「仕事のほうはどう? サイトのバグ、直った?」
「うん、なんとか。それより、明莉のデートの話もっと聞かせてよ」
穂乃香は話題を切り替えるように、明莉のデートの詳細を尋ねてきた。明莉はその質問に答えながら、少しずつ気持ちが軽くなっていくのを感じた。やはり考えすぎだったのだろう、と自分に言い聞かせる。
「今度また三人で会おうね」
「うん、また誘って」
電話を切ったあと、明莉はしばらくスマートフォンの画面を見つめていた。穂乃香の声のトーンが、いつもと少し違っていた気がする。けれど、その違いを言葉にする根拠は、明莉の中にはまだなかった。
スマートフォンをベッドの脇に置き、明莉はカーテンを閉めた。雨ににじむ街灯が見えなくなると、部屋には冷蔵庫の作動音だけが残った。洗面所の鏡に映る顔はいつもと変わらない。それでも明莉は、その顔に向かって「何が怖いの」と問いかけた。返事はなかった。
布団に入ってからも、明莉はしばらく寝付けなかった。天井を見つめながら、今日一日の会話を頭の中で再生する。「健人くん、穂乃香の話もたくさんしてたよ」と自分が言った時の、あの一拍の沈黙。「そうなんだ」という短い返事。穂乃香がそんな反応をするのは、珍しいことではないはずだった。それなのに、なぜ今日はこんなにも、その短さが気になるのだろう。明莉は自分の中の疑問に、まだ答えを出せずにいた。
二度目のデートは、映画館だった。上映が終わってロビーに出ると、健人はパンフレット売り場に立ち寄り、二冊のパンフレットを手に取った。売店の照明の下で、健人はパンフレットの表紙をぱらぱらとめくっている。
「それ、誰の分?」
明莉が尋ねると、健人は一瞬手を止めた。
「穂乃香さんも観たがってた気がして」
健人はそう言いながら、結局一冊だけをレジに戻した。
「私も一冊欲しいな」
「もちろん、明莉の分も買うよ」
健人は慌てたように、明莉の分のパンフレットをレジに差し出した。売店の店員が会計をする間、健人は少し気まずそうに視線を泳がせていた。会計を終えたレシートを財布にしまう手つきが、いつもより早口な動作に見えた。
「ごめん、変なところ見せたね」
「ううん、大丈夫。私も欲しかっただけだから」
明莉は努めて明るく答えたが、内心では、健人が慌てて訂正したという事実そのものが、逆に引っかかりを残した。何もなければ、慌てて取り消す必要もなかったはずだ。会計を済ませる健人の横顔を見ながら、明莉は安堵するはずの場面で、うまく安堵できずにいた。一冊を戻したという事実よりも、最初に浮かんだ名前が誰のものだったかという事実のほうが、明莉の中にはより深く刻まれていた。
「面白かったね、今日の映画」
「うん。ラストのシーン、予想と違ってびっくりした」
「私はあの、主人公が最後に選ばなかった道のほうが気になった。もし選んでたらどうなってたんだろうって」
「ああ、それわかる。監督、あえて描かなかったんだろうね」
映画の感想を話しながらロビーを歩く間、明莉は表面上はいつも通りに振る舞っていた。ただ、心のどこかで、さっきのやり取りの続きを、まだ考え続けていた。選ばなかった道、という自分の言葉が、今の状況にも重なって聞こえた。
「健人くんは、後悔するタイプ? それとも、選んだ道を正解にしていくタイプ?」
「うーん……たぶん、正解にしていくタイプかな。選んだあとにうじうじ考えるの、あんまり好きじゃない」
「私も似てるかも。決めたら、あんまり振り返らないようにしてる」
そう言いながら、明莉は自分の言葉が、今のこの状況にはまだ当てはまっていないことは、自分でもわかっていた。決めたことなど、何もない。まだ何も、選んでさえいなかった。
ふと、中学生の頃の記憶がよみがえった。穂乃香と初めて二人だけで誕生日を祝った夜のことだ。小さなケーキを二人で分け合い、他愛もない話をして笑い合った。窓の外は雪がちらついていて、二人で毛布にくるまりながら夜更かしをした記憶がある。あの頃の穂乃香との距離感は、今よりずっと単純で、迷うことなど何もなかった。あの頃の自分に、今の状況をどう説明すればいいのか、明莉には見当もつかなかった。
映画館を出て、健人は駅まで明莉を送ってくれた。夜の金沢駅、鼓門の下を、涼しい風が吹き抜けていく。ライトアップされた鼓門の朱色が、夜空に鮮やかに浮かび上がっていた。
「今日も楽しかった」
「うん、私も。健人くんと話してると、時間があっという間だね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
二人は改札前でしばらく立ち止まり、他愛もない会話を続けた。健人が仕事の話を少しすると、明莉は町家プロジェクトの進捗を尋ねた。健人は住民説明会でうまくいかなかったことを、少し苦笑いしながら話してくれた。改札を通り抜ける人々の足音が、二人の会話の合間を埋めていく。
「大変だったね。でも、次にちゃんと生かせばいいよ」
「うん、そうする。明莉に話すと、なんか整理がつく気がする」
その言葉に、明莉は少し嬉しくなった。少なくとも今この瞬間、健人が向き合っているのは自分だけだと感じられたからだ。
「今日はありがとう。また連絡する」
健人はそう言って、明莉の手をそっと握った。改札の明かりが、二人の影を長く伸ばしている。
「うん、待ってる」
握られた掌の温度は、確かにあたたかかった。それなのに、その温度に込められた気持ちの輪郭だけが、明莉にはうまく掴めなかった。沈黙を同意だと決めてしまえば楽だった。けれど、楽な読み方を選ぶほど、自分自身の中の小さな声が、どんどん小さくなっていく気がした。明莉は健人の手をそっと握り返し、この違和感を、今夜だけは幸福の重さで包んでおくことにした。答えを出すのは、まだ今日ではないと思いたかった。夜風が、二人の間をそっと通り抜けていった。
健人と別れたあと、明莉は一人で夜の金沢駅の構内を歩いた。鼓門のライトアップが、水面のように駅前広場を照らしている。改札を抜けながら、明莉はこの二週間で起きたことを、順番に思い返してみた。店選びの理由に出た穂乃香の名前。本の話題のたびに繰り返される「穂乃香も好き」という一言。目の合わなかった雨の中の返事。二冊買われかけたパンフレット。電話越しの、いつもより短い「そうなんだ」。喫茶店で見た、ぎこちない笑い方。
どれもささやかな出来事だった。単独で見れば、深読みしすぎだと自分に言い聞かせられる程度の、小さな違和感の粒でしかない。それでも、こうして並べてみると、そこには確かに、無視することのできない模様が浮かび上がっていた。健人との食卓には、いつも見えない誰かの影が座っている。その影の名前を、明莉はもう知っていた。
振り返れば、初めてのデートの日から、その影はずっとそこにいた。ただ、明莉は今日まで、その影を見ないようにするための言い訳を、そのつど都合よく用意してきただけだった。悪気がない、長い付き合いだから、照れているだけ。そのどれもが、部分的には正しかったのかもしれない。それでも、部分的な正しさを積み重ねても、全体の引っかかりは消えてくれなかった。
仕事なら、こういう違和感の正体を、いくつかの要因に分解して考えることができる。原因を特定し、対策を立て、検証する。けれど、この胸の中にある感覚は、そんな手順を踏むことを拒んでいた。分解しようとするたびに、健人の優しさや、これまで積み重ねてきた三人の時間まで、一緒に壊れてしまいそうな気がした。だからこそ明莉は、この違和感に、まだ名前をつける勇気を持てずにいた。名前をつけてしまえば、もう今まで通りの三人には戻れない。そのことだけは、はっきりとわかっていた。
電車を待つホームで、明莉はスマートフォンを取り出し、健人からの「今日はありがとう、また連絡するね」というメッセージを見つめた。「うん、こちらこそ」と返信を打ちながら、明莉はふと、自分がこの関係の中で、何を一番恐れているのかを考えた。健人の気持ちが誰に向いているかということより、その答えを知ってしまったあと、穂乃香との関係がどう変わってしまうのかということのほうが、今の明莉には、ずっと恐ろしく感じられた。
電車が到着し、明莉は乗り込んだ。窓に映る自分の顔を見ながら、明莉はもうしばらくの間、この食卓の亡霊に気づかないふりを続けようと決めた。気づかないふりが、いつまで続けられるのか、明莉自身にもわからなかった。車内の蛍光灯が、窓ガラスに反射して、外の景色と自分の顔を薄く重ねていた。
電車の中で、明莉はもう一度スマートフォンを開き、健人とのメッセージのやり取りを最初から読み返してみた。優しい言葉、気遣いの言葉、他愛もない冗談。文字だけを追えば、健人が明莉のことを大事に思っている証拠は、いくつも見つかった。それなのに、その文字の合間に、穂乃香という名前が、まるで透かし彫りのように浮かんでは消える。見ないようにすればするほど、その透かし模様は、明莉の目にはっきりと映り始めていた。
窓の外を流れる夜の街並みを眺めながら、明莉はふと、自分がこれから何を選ぶことになるのだろうと考えた。見えない亡霊を、見て見ぬふりのまま続けることも、はっきりと問い直すことも、どちらも今の明莉には怖かった。ただ、電車が自宅の最寄り駅に近づくにつれて、明莉の中で、ひとつだけ確かなことが形をとりはじめていた。このままではいられない、という予感だった。
駅の改札を出ると、雨はすでに上がっていた。明莉は傘を閉じたまま、濡れたアスファルトを歩いた。玄関の鍵を開けるまで、レストランで健人が穂乃香の名前を口にした声だけが、何度も耳に戻ってきた。




