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愛よりも脆く、愛よりも強く  作者: 久遠 睦


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第三章:見当違いの紳士

その日の朝、健人は事務所へ向かう道すがら、スマートフォンで町家活用プロジェクトの資料を読み返していた。空はまだ夏の名残りの強い青さを保っていたが、通りを歩く人々の服装には、少しずつ秋の色が混じり始めている。昨夜遅くまでかけて直した反対意見のまとめは、我ながらよくできていると思う一方で、どこか落ち着かない気持ちも残っていた。誰の主張も立てすぎず、誰の主張も潰しすぎない。そのバランスを取ることに、健人はいつも人一倍時間をかけてしまう。事務所に着くと、すでに大西がパソコンの前で資料を広げていた。

「おはようございます。昨日の分、直しておきました」

「ありがとう。見せてもらうよ」

 市内の会議室は、蛍光灯の白い光が資料の紙面を平らに照らしていた。窓の外では、晩夏の日差しがまだ強く、アスファルトの照り返しがガラス越しに見えている。健人は町家活用プロジェクトの住民説明資料を前に、後輩の大西と向き合っていた。地域住民から寄せられた反対意見のうち、特に強い調子のものを、健人は資料の目立たない位置へ移していた。

「この表現なら、双方が納得できます」

 健人がそう言って、灰色に塗った反対欄をスライドに戻すと、大西は画面を覗きこんだまま眉を寄せた。

「納得じゃなくて、争点が見えなくなっただけじゃないですか」

 率直な指摘だった。健人は一瞬、言葉に詰まった。大西の言う通りだと、頭の中ではわかっている。それでも、住民説明会の場で強い反対の声をそのまま前面に出せば、議論は感情的な対立に流れやすい。落としどころを探すには、まず角を丸めることが必要だと、健人はこれまでずっとそうしてきた。この仕事に就いて五年、そのやり方で大きな失敗をしたことはなかった。それが、自分のやり方が正しい証拠だと、健人はどこかで思い込んでいたのかもしれない。

「角を立てずに進める方法もあると思うんだ」

「角を立てないことと、問題をなかったことにすることは違うと思います」

 大西の指摘に、健人は苦笑いを返しながらも、資料のページを戻せずにいた。反対意見を薄めることは、誰も傷つけない代わりに、誰の本音も見えなくしてしまう。健人自身、その危うさを薄々感じながら、今日もまた同じやり方を選んでいた。

「もう少し考えてみるよ。指摘、ありがとう」

 大西は納得した様子ではなかったが、それ以上は食い下がらず、自分の作業に戻った。健人はしばらく画面を見つめたまま、灰色に塗った欄の文字を目で追った。角を立てない代わりに、この資料を読んだ住民たちは、自分たちの反対意見がどれほど真剣に受け止められているのか、正確には測れなくなるだろう。それでも今の自分には、もっと強い書き方を選ぶ勇気がなかった。

 その場では笑って受け流したが、会議室を出たあとも、健人の中には小さな引っかかりが残っていた。誰かのために丸くした言葉が、本当に誰かのためになっているのか。その問いに、健人はまだ自分なりの答えを持てずにいた。廊下を歩きながら、健人はふと、この癖がいつからのものだったかを考えた。答えはすぐには出てこなかった。エレベーターを待つ間、窓の外に見える兼六園の緑が、いつもと変わらず穏やかに揺れていた。

 数日後、実際の住民説明会が開かれた。会場となった公民館には、四十人ほどの住民が集まっていた。健人の作った資料をもとに進行が始まったが、案の定、反対派の住民の一人が声を荒げた。

「この資料、うちらの意見がちゃんと反映されてないんじゃないの」

 健人は壇上でその言葉を受け止めながら、大西の指摘が正しかったことを、今更ながらに実感していた。角を丸めた言葉は、その場の空気を一時的に和らげはしたが、住民の不満そのものは何も解消していなかった。むしろ、丁寧に扱われなかったという印象を、余計に強めてしまったかもしれない。

「申し訳ございません。反対のご意見について、資料の作り方を見直させていただきます」

 健人はその場で頭を下げた。会場の空気が少しだけ和らいだのを感じたが、それは資料が直ったからではなく、自分が頭を下げたからにすぎないと、健人にはわかっていた。根本的な問題は、まだ何も解決していない。説明会が終わったあと、大西が近づいてきた。

「さっきの、思ったとおりになりましたね」

「うん。次からは、ちゃんと書くよ」

 大西はそれ以上何も言わず、資料を片付け始めた。健人はその背中を見ながら、今日の失敗を、次はきちんと生かそうと思った。誰も傷つけないための言葉が、結局は誰の信頼も得られないことがある。その痛みを、健人は今日、身をもって知った。夜、事務所を出る頃には、公民館の窓から見えた住民たちの厳しい表情が、まだ健人の目の奥に残っていた。

 その週の昼休み、会社近くの定食屋で、健人は同僚の坂井と向かい合っていた。窓際の席には、昼の日差しが強く差し込んでいる。テーブルの上には、割ろうとして力の加減を誤り、片方が細く割れてしまった割り箸が転がっている。定食屋の看板メニューである焼き魚定食を、二人は毎週のように注文していた。

「最近、三人でよく会ってる人たちいるだろ。あの二人、健人はどっちがタイプなんだよ」

 坂井が軽い調子で聞いてきた。健人は味噌汁の椀を手に取りながら、質問の答えを探したが、すぐには言葉が出てこなかった。

「明るい人と、静かな人。どっちといる時の自分が自然なの」

 答えに詰まる健人に、坂井が続けてそう聞いてくる。健人は箸を椀の中に入れ、答えを湯気の向こうへ逃がすように、しばらく黙った。

「そういう決め方をする話じゃないよ」

 言い返してはみたものの、内心では坂井の質問が的外れだとは思えなかった。明莉といる時の自分は、話を広げるのが得意な相手に合わせて、自然と言葉数が増える。穂乃香といる時の自分は、意見を求められることが多く、考えながら話す時間が長くなる。どちらの自分も嘘ではない気がしたが、どちらが本当の自分に近いのかは、健人自身にもわからなかった。

「なんだよ、はっきりしないな。健人らしいけど」

「らしいって、どういう意味だよ」

「いつも両方立てようとするだろ。会議でもそうじゃん。誰の顔も潰さないように話すの、器用だなって前から思ってた」

 坂井に指摘されて、健人は苦笑いするしかなかった。器用、という言葉が、今日はいつもより重く響いた。誰の顔も潰さない代わりに、自分の顔をどこにも見せていないのかもしれない。そんな考えが、ふと頭をよぎった。箸を持つ手を止めて、健人はしばらく味噌汁の椀の中を見つめていた。

「まあ、いいけどさ。決まったら教えろよ」

 坂井はそれ以上深追いせず、話題を仕事の愚痴に移した。健人はほっとしながらも、自分の中の答えの出なさが、そのまま食後の苦い後味として残るのを感じていた。

「そういえば、健人が三人で会うようになったの、いつからだっけ」

「初夏だったかな。共通の知人の食事会で会って」

「もう半年近いのか。仲良くなるの早いな」

「向こうも話しやすい人たちだから」

 坂井の何気ない質問に、健人は言葉少なに答えた。半年近い時間の中で、自分の中に育ってしまったものがあるとしたら、それはいつ、どちらの方向に向かって育ったのか。定食屋を出て、日差しの強い通りを歩きながら、健人はその問いに、まだ答えを出せずにいた。坂井が先に歩き出し、健人はその一歩後ろをついていった。会社に戻る道のりの中で、健人はもう一度、自分の中の答えの出なさを噛みしめていた。

 告白の日、健人は犀川の河川敷で明莉と待ち合わせていた。午後二時、約束の時間ぴったりに明莉は現れた。いつもより丁寧に巻かれた髪と、少し緊張した表情が、今日という日の特別さを物語っていた。夕方までの数時間、二人は他愛もない話をしながら河川敷を歩き、やがて日が傾き始めた頃、明莉の表情が変わった。夕日が川面を橙色に染め、三人分の影が伸びるはずの場所に、今日は二人分の影だけが長く伸びている。穂乃香は少し離れたベンチで、こちらに背を向けて座っていた。今日は付き添いだけのつもりだと、事前に穂乃香からは聞かされていた。

「健人さん、少し話したいことがあって」

 明莉が足を止め、健人のほうを向いた。健人も立ち止まり、明莉の次の言葉を待った。川風が二人の間を通り抜けていく。明莉は一度深呼吸をして、それから真っ直ぐに健人を見た。

「あなたのことが好きです。私と付き合ってください」

 明莉の声は震えていたが、最後まではっきりと届いた。健人は視線を一瞬、明莉の背後に泳がせた。穂乃香の後ろ姿が、視界の端に入る。何を確かめたかったのか、健人自身にもわからないまま、その視線はすぐに明莉へ戻された。

 健人の頭の中には、いくつかの答え方が同時に浮かんでいた。この気持ちにどう応えるべきか、事前に考えていなかったわけではない。それでも、実際に言葉を向けられると、用意していたはずの答えは、思ったより頼りなく感じられた。明莉の目は、まっすぐに健人だけを見ている。その視線に迷いを見透かされている気がして、川面を渡る風だけが、二人の間の沈黙を埋めていった。数秒とも、もっと長い時間とも思える間のあと、健人はようやく口を開いた。

「ありがとう。俺でよかったら」

 言葉にした瞬間、明莉の顔がほどけるように明るくなった。その明るさが、健人の胸を小さく刺した。嬉しいはずの瞬間に、なぜか小さな痛みが混ざっている。健人はその痛みの理由を、深く考えないようにした。目の前で喜んでくれている人がいる。それは確かなことで、その事実だけを見つめていれば、他の何かを見ずに済んだ。

「本当に? 嬉しい……」

「こちらこそ、ありがとう」

 明莉は目に涙を浮かべながら、何度も頷いていた。健人はその涙を見て、これでよかったのだと自分に言い聞かせた。

「これから、よろしくお願いします」

「うん、よろしく」

 二人は河川敷を並んで歩き、やがて明莉が穂乃香のいるベンチのほうへ手を振った。穂乃香が振り返り、小さく手を振り返す。その一連の動作を、健人は少し離れた場所から見ていた。三人で会うことにも、これから少しずつ違う意味が加わっていくのだろうと、健人はぼんやり思った。今日という日を境に、三人の関係は確かに形を変える。それがどんな形になるのか、健人自身にもまだ見当がつかなかった。

 夕焼けの中で、明莉は何度も「嬉しい」と繰り返した。健人はその言葉のひとつひとつに頷きながら、少し離れたベンチのほうを、もう見ないようにした。

 その夜、帰宅した健人は、一人分の夕食を前に、テーブルに向かって座っていた。作りすぎた煮物が、使わないままの二枚目の皿の上で冷めていく。誰かを呼ぶつもりだったのか、それとも単なる習慣で多く作ってしまったのか、自分でもよくわからなかった。台所の窓の外には、隣家の明かりがぽつりと灯っている。健人は箸を取ったものの、しばらく手をつけずに、湯気の消えた煮物を見つめていた。

「あれでよかった。誰も傷つけなかった」

 声に出してみると、その言葉は思ったより空虚に響いた。

「本当にそうか」

 もう一度、今度は問いかける形で言い直してみる。答えは返ってこなかった。換気扇の低い音だけが、独り言の続きのように部屋に残っていた。誰も傷つけなかったというのは、本当だろうか。少なくとも、今日の自分の中には、名前をつけられない何かが小さく残っている。それを傷と呼んでいいのかどうか、健人にはまだ判断がつかなかった。

 食事を終えて皿を洗いながら、健人は今日一日の出来事を順番に思い返した。犀川の夕焼け、明莉の涙、少し離れたベンチの背中。どれも今日確かに起きたことで、どれも消すことのできない事実だった。蛇口から流れる水の音だけが、静かな台所に響いていた。皿を拭き終えると、健人は使わないままの二枚目の皿をそっと棚に戻した。次にこの皿を使う日がいつになるのか、今の健人には見当もつかなかった。

 翌朝の通勤バスの中で、健人はスマートフォンの画面を見つめていた。明莉から「昨日はありがとう。まだ夢みたい」というメッセージが届いている。

「こちらこそ。これからよろしく」

 返信を打ちながら、健人はふと、指が別の名前を探しかけていることに、はっとした。穂乃香の名前を検索窓に打ちかけて、途中で止める。何を確かめたかったのか、自分でも説明がつかなかった。正しい文面を送るほど、言葉の内側が空洞になっていくような感覚があった。窓の外を、見慣れた通勤路の景色が流れていく。

 その週末、健人は仕事帰りに立ち寄ったコンビニで、偶然穂乃香と鉢合わせした。夜八時を過ぎた店内は、蛍光灯の光がやけに白く、レジ横の揚げ物の匂いが漂っていた。レジ袋を提げた穂乃香は、健人の姿を見つけると、いつもと変わらない調子で笑いかけてきた。

「あ、健人さん。お疲れさまです」

「お疲れさま。こんな時間まで仕事?」

「うん、ちょっと立て込んでて。健人さんは?」

「帰りにちょっと寄っただけ」

 何気ない会話のはずだったが、健人はいつもより少し、言葉を選んでいる自分に戸惑った。明莉と付き合い始めたことを、穂乃香はもちろん知っている。それなのに、その話題に触れることを、健人は無意識のうちに避けていた。

「明莉、元気にしてる?」

「うん、元気だよ。今度、三人でまた会おうって話も出てて」

「そうなんだ。楽しみにしてる」

 穂乃香の返事は、いつもと変わらない自然さだった。健人はそこに何か引っかかりを探そうとして、すぐにその自分を戒めた。何もないところに意味を探すのは、失礼なことだと思ったからだ。レジの列は少しずつ進んでいて、健人の番まであと二人だった。

「健人さんこそ、明莉のこと大事にしてあげてね」

 穂乃香の口調は軽かったが、その一言には、どこか念を押すような響きがあった。健人は少し驚きながら、それでも自然に頷いた。

「もちろん。大事にするよ」

「うん、それならよかった」

 その言葉を最後に、穂乃香は軽く会釈をして店の出口へ向かった。健人はその背中を見送りながら、今の短いやり取りの中に、何か聞き逃したものがあるような気がしてならなかった。ただの挨拶だと片付けてしまうには、あまりにも記憶に残りすぎている。

「じゃあ、また」

「うん、また」

 穂乃香が店を出ていく後ろ姿を、健人はレジの列に並びながら見送った。ガラス越しに、彼女が自転車に乗って走り去っていくのが見える。その姿が見えなくなるまで、健人は自分でも意識しないまま、目で追い続けていた。

 会計を済ませて店を出ると、夜風が思ったより涼しかった。歩きながら、健人は今のやり取りを頭の中で反芻した。何気ない挨拶、何気ない質問、何気ない別れ。そのどれもに、深い意味などなかったはずだ。それなのに、健人はなぜか、自転車で走り去る穂乃香の後ろ姿を、もう一度思い浮かべずにはいられなかった。この感覚に名前をつけてしまえば、何かが取り返しのつかない形になる気がして、健人はその名前を、意識の外に押しやり続けた。

 初デートを控えたある日、香林坊で店を探しながら、健人は自分の選び方に違和感を覚えた。町家を改装した落ち着いた店構えを見つけて、ふと「ここなら穂乃香さんも気に入りそうだ」と思ってしまったのだ。予約サイトの画面には、人数欄に「2」という数字が並んでいる。その数字を見つめながら、健人はしばらく指を止めていた。

「明莉が喜ぶ店を選ぶんだ」

 自分に言い聞かせるように、小さく声に出した。それなら、と健人は考え直す。

「それなら、明莉に聞けばいい」

 当たり前の答えだったが、健人はその当たり前を、今日まで自然に選べずにいた。結局、健人は自分への忠告を無視するように、そのまま町家の店を予約した。理由をつけるなら、明莉もきっと気に入るはずだから、というものだった。それが本当の理由なのかどうか、健人自身にも確信は持てなかった。

 予約確認のメールが届くのを待つ間、健人は店の紹介ページをもう一度眺めた。古い梁がそのまま残された天井、坪庭に面した個室の写真。こういう空間を明莉が喜ぶのは間違いなかったが、健人自身がこの手の店を好きになったきっかけは、穂乃香と交わした会話の中にあった。「壊さず残すだけじゃ、町は息をできない」という自分の言葉に、深く頷いてくれたのは、あの食事会の日の穂乃香だった。あの時の頷き方を、健人は今でも鮮明に覚えている。相槌の速さでも、表情の作り方でもなく、ただ純粋に、自分の考えを受け止めてもらえたという実感があった。その記憶を、健人は今、明莉のための予約と重ねている。それが正しいことなのかどうか、健人にはまだわからなかった。

 ふと、子どもの頃の食卓の記憶がよみがえった。両親が言い争うたびに、健人は両方の言い分に小さく頷いていた。父は仕事のことで苛立ち、母はそれに応じて声を荒げる。幼い健人は、そのやり取りの真ん中で、どちらの味方をするかを決めることが、ひどく怖かった。誰も傷つけたくない、その一心で、健人は自分の意見を持たない子どもになっていった。父の言葉にも、母の言葉にも、同じ速さで頷く。そうすれば、少なくともその場だけは丸く収まった。今日の香林坊での迷いも、その頃の癖の延長線上にあるのかもしれない。

 店の予約を終えたあと、健人はスマートフォンをポケットにしまい、香林坊の交差点に立ってしばらく動かなかった。人の流れが途切れることなく行き交う中で、自分だけが少し違う速度で立ち止まっているような感覚があった。

 デート当日を控えたある午後、健人は会社の屋上で明莉からの電話を受けた。手すりの上を、小さな雨粒がいくつも転がっている。

「今度の日曜、楽しみにしてるね」

 明莉の声は弾んでいた。健人は手すりに置いた手を一度開き、そこに何も握っていないことを確かめるように、指先を見つめた。屋上から見下ろす街並みは、いつもと変わらない午後の顔をしていた。

「俺も。楽しみにしてる」

 言葉にした瞬間、健人は自分がまた一つ、引き返す道を閉じたことを悟った。まだ間に合う、と考える機会はいくらでもあった。それなのに、明莉の声に応じるたびに、健人は自分から後戻りできない場所へ進んでいく。声を合わせることは、簡単だった。簡単だからこそ、その先に何があるのかを、健人はまだ深く考えないようにしていた。

「日曜、天気予報だと晴れるみたい」

「よかった。じゃあ、楽しみにしてる」

 電話を切ったあと、健人はしばらく手すりにもたれたまま、街の景色を眺めていた。雨上がりの空気の中、遠くに見える兼六園の緑が、いつもよりくっきりと目に映った。誰も傷つけないための選択を重ねてきたはずなのに、その選択の連なりが、今、自分自身の輪郭を少しずつぼやけさせているような気がした。健人はその感覚に、まだ名前をつけられずにいた。

 ポケットの中でスマートフォンがもう一度震えた。今度は坂井からのメッセージだった。「結局どっちなんだよ、教えろって言ったろ」。冗談めかした一文に、健人は思わず小さく笑った。返信を打とうとして、しかし指は止まった。「もう明莉と付き合うことになった」と書くのは簡単だった。それだけの事実を伝えるだけなら、迷う必要などない。それでも健人は、しばらくの間、画面を見つめたまま何も打てずにいた。

 結局、健人は「まあ、いろいろあってな。今度話すよ」とだけ返して、スマートフォンをポケットに戻した。今度話す、と自分で書いた言葉が、そのまま今の自分の状態を表しているようだった。何かを決めたはずなのに、その決定について、まだ誰にも胸を張って話せる形になっていない。屋上の手すりにもたれたまま、健人はもう一度、遠くの緑に目をやった。晩夏の風が、汗ばんだ首筋をそっと撫でていった。

 その夜、健人はベッドに横になっても眠れなかった。明莉から届いた「おやすみ」の文字を見ながら、犀川のベンチに残してきた穂乃香の背中を思い出していた。

 誰も傷つけない答えを選んだつもりで、一番答えるべき問いから逃げたのではないか。暗い天井を見つめるうちに、「見当違いの紳士」という言葉が浮かんだ。健人はそれを打ち消せないまま、目を閉じた。

 スマートフォンの画面が、もう一度小さく光った。明莉からの「おやすみ」というメッセージだった。健人は「おやすみ」とだけ短く返し、画面を伏せた。眠りに落ちる前、健人の頭にもう一度浮かんだのは、犀川のベンチで背を向けていた穂乃香の後ろ姿だった。なぜその映像だけが、こんなにも鮮明に残っているのか。健人はその問いに答えを出さないまま、しばらく天井を見つめていた。

 健人は布団を肩まで引き上げ、目を閉じた。明日もまた、誰かのために丸めた言葉を選ぶ自分がいるのだろうと、ぼんやり思う。それが正しいことなのか、それとも見当違いなことなのか、答えが出るのはまだ先のことだった。


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