第二章:川辺の約束
それから二か月ほどが過ぎた、八月の終わりの午後、穂乃香は自宅で受注サイトの月次レポートをまとめていた。数字を追う作業は嫌いではない。むしろ、感情の入り込む余地がない分だけ、気持ちが落ち着く時間でもあった。パソコンの画面には、先月の離脱率のグラフが並んでいる。原因を探るのは得意だったが、今の自分の中にある小さな違和感の原因は、どれだけグラフを睨んでも見えてこなかった。窓の外では、蝉の声が今年最後の勢いを振り絞るように鳴いている。もうすぐこの声も聞こえなくなる。作業を終えたところで、明莉から「今日、時間ある? 犀川で話したいことがある」とメッセージが届いた。「話したいこと」という言葉に、穂乃香は少しだけ身構えた。仕事の相談ではなさそうだと、文面の短さから察しがついた。
犀川の河川敷は、夕方になっても暑さの名残りが石の上に残っていた。八月も終わりに近く、川風にはわずかに秋の気配が混じりはじめている。穂乃香は自動販売機で買った缶コーヒーを両手で包み、隣に座る明莉の横顔を見ていた。風で倒れた紙カップが、少し先の草むらでからからと音を立てている。誰かの忘れ物らしい。明莉はしばらく黙って川面を見ていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「私、健人くんに告白しようと思う」
明莉の声は、いつになく硬かった。穂乃香は缶コーヒーのプルタブに指をかけたまま、しばらく何も言わなかった。言葉が届く前に、まず自分の中の何かが小さく揺れたのを感じたからだ。その揺れを悟られないよう、穂乃香は親指の爪をもう片方の手のひらに軽く押し当てた。痛みというほどのものではない。ただ、声の高さをいつも通りに保つための、小さな習慣だった。
「うん、いいと思う。きっとうまくいくよ」
声は思ったより自然に出た。自分でも少し驚くくらい、いつもの自分の声だった。
「本当にそう思う? 迷惑じゃないかな、急に言われても」
「迷惑なわけないよ。健人さん、明莉のこと絶対気にしてるもん」
根拠のない励ましではなかった。三人で会うたびに、健人が明莉の話に相槌を打つ間合いを、穂乃香はずっと観察してきた。ただ、その観察の中に、もうひとつ別の視線が混ざっていることには、自分でもまだはっきりと自覚していないふりをしていた。
「いつから気づいてたの、私が健人くんのこと気になってるって」
「わりと最初から。21世紀美術館で三人で話してた時、明莉、健人さんの話にだけ相槌のタイミングが違ってた」
「うそ、そんなにわかりやすかった?」
「私にだけわかるレベルだと思う。長い付き合いだから」
明莉は少し照れたように笑って、缶コーヒーのプルタブを開けた。
「ありがとう。穂乃香がそう言ってくれると、安心する」
夕日が犀川の水面を赤く染めて、対岸の柳の影が長く伸びていた。この川はずっと同じ速さで流れているのに、今日だけは自分の内側の速度とうまく合わない気がした。
「穂乃香は? 最近、誰か気になる人いないの」
不意に聞かれて、穂乃香は缶コーヒーを口に運ぶふりをして、一拍置いてから答えた。
「いないよ、今のところ」
「ほんとに? なんか隠してそうな顔してる」
「してないしてない。それより、告白の時間帯、決めてるの?」
話題をそらすと、明莉は素直にそれに乗ってきた。穂乃香はほっとする一方で、こんなふうに簡単に話をそらせてしまう自分に、少しだけ嫌気が差した。
「いつ言うの、告白」
「来週の土曜日。二人で会う約束、もう取り付けた」
「早いね」
「早くしないと、この勢いがなくなりそうで」
明莉の声には、迷いより先に行こうとする意志があった。穂乃香はその意志を尊重したいと思う一方で、心のどこかで、もう少しゆっくりでもいいのにと感じている自分がいることも、わかっていた。それがどちらのための「ゆっくり」なのか、穂乃香自身にもわからなかった。
「応援してる。本当に」
その言葉に嘘はなかった。ただ、応援という言葉の中に、自分でも扱いかねる感情がひとつ紛れ込んでいることも、穂乃香は知っていた。形のあるものなら、置き直したり仕舞い直したりできる。けれど口から出てしまった言葉には、同じ手つきが通じない。缶コーヒーはとうに冷めていたが、穂乃香はそれを飲み干さずに、しばらく手の中で回し続けていた。
河川敷から石段を上がる途中、明莉が足を止めて振り返った。石段の上には、金沢城公園へと続く並木道が見えている。
「ねえ、告白の言葉、聞いてくれる? 『これからも会いたい』じゃ弱いかな」
石段の手すりには、まだ夕日の熱が残っていた。穂乃香はその熱に手のひらを軽く乗せながら、少し考えた。
「弱いっていうか、遠回しすぎるかも。明莉なら、好きって言った方が伝わるよ」
「そのままでいいの? 恥ずかしくない?」
「恥ずかしいのは今のうちだけだよ。あとで後悔するよりいい」
自分なら絶対に言えない言葉を、親友のためになら迷わず選べてしまう。そのことに、穂乃香は少しだけ苦い笑いがこみ上げた。誰かの背中を押す言葉と、自分の足を止める言葉が、こんなにも簡単に入れ替わってしまうのはなぜだろう。
「じゃあ、『好きです。これからもそばにいたいです』は?」
「うん、それいい。飾りすぎてない」
「穂乃香、編集者みたい」
「褒め言葉として受け取っとく」
明莉は石段の途中で何度も口の中で言葉を転がし、そのたびに穂乃香が小さく直しを入れた。橋の向こうで学生たちが自転車で通り過ぎていく音が、二人の間に短い間を作っては消えていった。
「敬語のほうがいいかな、それとも普段の話し方のほうがいいかな」
「普段どおりでいいと思う。健人さん、明莉が飾ってないところを好きになってると思うから」
「なんでそんなこと言い切れるの」
「三人で話してる時の健人さんの顔、見てればわかるよ」
穂乃香は自分の言葉に、自分で少し驚いた。明莉と健人の間にあるものを、こんなにも自然に肯定できてしまう自分がいる。それは決して嘘ではなかったが、その肯定の裏側に、微かな痛みが伴っていることも、穂乃香自身が一番よく知っていた。
「明莉の素直さが、一番の武器だと思うよ。飾った言葉より、ちゃんと届くから」
明莉は少し照れたように笑って、もう一度小さく「好きです。これからもそばにいたいです」とつぶやいた。石段を上りきったところで、二人は自然と足を止め、夕暮れの街並みを見下ろした。
「穂乃香がいてくれてよかった。一人だったら、こんなに落ち着いて考えられなかったと思う」
「そんな大げさな」
「大げさじゃないよ。ほんとに」
明莉の素直な言葉に、穂乃香は曖昧に笑って返すことしかできなかった。
夜、穂乃香は香林坊のブックカフェで一人、ノートパソコンを開いていた。仕事のメールを片付けたあと、画面には健人へのメッセージの下書きが残っていた。窓の外はもう暗く、通りを歩く人の影がガラスに映っては消えていく。
「今度、町家の話をもう少し聞きたいです」
打ってはみたものの、指はそこで止まった。カーソルだけが白い画面の上で点滅している。文面を見返すと、我ながら自然すぎて、逆に不自然に思えた。町家の話を聞きたいというのは本当だが、それだけの理由で送るメッセージにしては、指先に妙な力が入っている。店内には低い音量でジャズが流れていて、隣の席では学生らしい二人組がノートを広げて勉強していた。誰も穂乃香のことなど気にしていないのに、自分だけが妙に緊張していることに、穂乃香は苦笑した。
「――それを送って、何がしたいの」
誰にともなく、小さく声に出してみた。答えは出なかった。穂乃香は自分に問いかけたまま、宛先ごと下書きを消した。町家の話を聞きたいのは本当だったが、それだけではないことも、自分が一番よくわかっていた。
仕事なら迷わず判断できるのに、と穂乃香は思う。受注サイトの導線なら、ユーザーがどこで迷っているかをデータで示せる。クリック数、離脱率、滞在時間。数字にすれば、迷いの原因はたいてい特定できる。フリーランスとして独立して三年、穂乃香はそうやって「わからないもの」を「測れるもの」に変換する仕事を続けてきた。感覚だけで判断することに、ずっと苦手意識があったからだ。けれど自分の気持ちがどこで迷っているのかは、どんなに見つめても数字にならない。人の痛みは、項目には分けられない。
もう一度、別の文面を打ってみる。「明莉のこと、よろしくお願いします」。これも違う気がして消した。三つ目、四つ目と打っては消すうちに、穂乃香は自分がいったい誰に、何を伝えたいのかさえわからなくなっていた。結局、その夜メッセージは一通も送らなかった。
メッセージアプリを閉じ、代わりに未読のままだったフリーランス仲間からの資料を開いた。明日のオンライン打合せの準備を、今のうちに済ませておきたかった。仕事に意識を向けている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
資料に目を通していると、沙織から「元気? 今度またご飯行こうよ」とメッセージが届いた。穂乃香は少し迷ってから、「行こう。今週どこか空いてる?」と返信した。すぐに既読がつき、沙織から日程の候補が三つ送られてくる。
その週末、二人は近所のカレー屋で落ち合った。開店直後の店内はまだ空いていて、奥の窓際の席に案内された。沙織は健人の職場の先輩で、この間の食事会を開いてくれた張本人だ。
「健人くん、明莉ちゃんのこと気にしてる感じあるよね」
カレーを一口食べたところで、沙織が何気なく切り出した。穂乃香は水を一口飲んでから答えた。
「うん、私もそう思う」
「穂乃香ちゃんはどう思ってるの、二人のこと」
その質問に、穂乃香は一瞬言葉を探した。応援している、と答えるのは簡単だった。それは嘘ではなかったからだ。カレー皿の湯気が、二人の間でゆっくりと立ち上っている。
「いいと思うよ。お似合いだし」
「そっか。穂乃香ちゃんも誰かいい人いないの? この前会った時から気になってたんだけど」
「いないよ、今のところ」
同じ質問に、今日はもう二度目だった。穂乃香は自分の答えが、少しずつ台詞のように固まっていくのを感じた。沙織はそれ以上深く聞いてはこず、話題は自然と別の方向へ流れていった。カレー屋を出るとき、穂乃香は誰かに本当のことを話してしまいたい衝動と、今はまだ話すべきではないという判断との間で、小さく揺れていた。結局、その日も何も言わずに別れた。
翌日のオンライン打合せで、穂乃香はクライアントサイトの改修案を説明していた。共有画面の上を、誰かの赤いポインターが忙しく動いている。参加者は五人、みな小さな画面の中に区切られて並んでいる。
「選択肢を隠すと、利用者は選べなくなります」
穂乃香がそう言うと、画面の向こうでクライアント担当者が首をかしげた。
「じゃあ、全部見せれば親切かな」
その質問に、穂乃香は一瞬答えに詰まった。全部見せることが親切とは限らない。かといって、隠すことが優しさになるとも思えない。何を見せて、何を見せないかを決めるのは、いつだって難しい判断だった。
「全部見せると、今度は情報量に迷ってしまうと思います。大事なのは、利用者が『選ばなかった』ことにも意味を持たせる設計かなと」
「もう少し具体的に聞いてもいいですか」
別の参加者が画面越しに聞いてきた。穂乃香は資料を切り替えながら説明を続けた。
「たとえば、比較検討中のユーザーには複数の選択肢を見せますが、購入直前のユーザーには、迷いを増やさないよう絞り込んだ選択肢だけを見せる。同じ人でも、タイミングによって見せる情報量を変えるのが理想です」
「なるほど、行動のフェーズによって情報設計を変えるということですね」
「はい。人は、決める前と決めた後で、必要とする情報の量がまったく違うので」
自分で言いながら、穂乃香はふと、その言葉が今の自分自身にも向いていることを悟った。健人への言葉を、自分は選ばなかった。選ばなかったことにどんな意味があるのか、まだ自分でも説明できずにいる。今の自分は、比較検討中なのか、それとも決断を先延ばしにしているだけなのか。
「なるほど、勉強になります。では、そちらの方向で修正案をお願いします」
担当者の声で、穂乃香は我に返った。打合せが終わると、チャット欄に他のメンバーからの労いのメッセージが並んだ。穂乃香はいつもならすぐに絵文字のひとつでも返すのだが、今日はそれもせず、ノートパソコンの画面を閉じた。打合せは無事に終わったが、画面をオフにしたあとも、穂乃香はしばらく椅子に座ったまま動けなかった。仕事の言葉なら、いくらでも具体的に組み立てられる。けれど自分の感情については、同じようにはいかなかった。
告白の前日、穂乃香は明莉の部屋に呼ばれていた。ベッドの上には三着のワンピースが広げられている。水色、ベージュ、それに白のワンピース。部屋にはドライヤーの熱がまだ残っていて、香水の匂いがうっすら漂っていた。
「これ、派手すぎない?」
明莉が水色のワンピースを胸に当てて聞いた。穂乃香は少し考えて答えた。
「少しだけ。こっちの方が明莉の顔が明るく見えるよ」
淡いベージュのワンピースを手に取ると、明莉はそれを着て鏡の前に立った。袖の長さを確かめ、裾を少し引っ張って、それから振り返る。
「どう?」
「いい。健人さんもきっとそう思う」
「白いのも見てほしい」
明莉は三着とも順番に試着し、そのたびに穂乃香の意見を求めた。穂乃香はそのすべてに、なるべく正直に、けれど余計な迷いを増やさないように、短く答え続けた。最終的にベージュのワンピースに決まった。
穂乃香は隣に並んで、明莉の髪を軽く手ぐしで整えてやる。鏡の中には、緊張と期待が入り混じった明莉の顔と、その隣で笑っている自分の顔が映っていた。穂乃香は自分の顔をあまり長く見ないようにした。今この鏡に映る自分の表情に、何が滲んでいるかわからなかったからだ。
「ありがとう、穂乃香。いつも支えてもらってばっかりだね」
「そんなことないよ。私も明莉に助けられてる」
「私、穂乃香がいなかったら、告白する勇気なんてなかったと思う」
その言葉も嘘ではなかった。ただ、今この瞬間の穂乃香は、支える側であることに、これまでにない重さを感じていた。誰かの背中を押すことと、自分の足元を見ないふりをすることが、今日は同じ動作の中に重なっていた。
「明日、何時に待ち合わせだっけ」
「二時。兼六園の前で」
「じゃあ、その前に一回連絡してね。緊張してないか確認したいから」
「うん、絶対する」
二人は他愛もない話をしながら、部屋の片付けを始めた。ワンピースをハンガーに戻す明莉の背中を見ながら、穂乃香はもう一度だけ、鏡の中の自分の表情を確かめた。今度は、なるべく何も映さないようにして。
「穂乃香、今日泊まっていく?」
「ううん、今日は帰る。仕事の資料、明日までに直したいのがあって」
「そっか。ありがとう、今日は付き合ってくれて」
玄関で靴を履きながら、穂乃香は振り返って明莉に笑いかけた。
「明日、いい報告聞けるの楽しみにしてる」
「うん、頑張ってくる」
ドアを閉める瞬間まで、明莉は笑顔だった。穂乃香はエレベーターの中で、その笑顔をもう一度思い出しながら、小さく息を吐いた。
その夜、穂乃香は一人で浅野川沿いを歩いた。川面に街灯の光がほどけて揺れている。人通りの少ない道を歩きながら、穂乃香は頭の中で何度も同じ場面を繰り返していた。明莉に本心を打ち明ける自分の姿だ。
夏の終わりの夜風は、思ったより涼しかった。すれ違うのは犬の散歩をする老人と、自転車を押して歩くカップルくらいで、川沿いの道はほとんど静かだった。穂乃香はスマートフォンを鞄にしまい、誰にも連絡が取れない状態で、しばらく自分の足音だけを聞いていた。
「私も健人さんが好き」
声に出さずに、口の中でだけその言葉を転がしてみる。想像の中の明莉は、驚いた顔でこちらを見て、こう聞く。
「どうして今まで言わなかったの」
その問いに、穂乃香は答えられなかった。想像の中でさえ、言葉が出てこない。もし今、本当にこの言葉を口にしたら、明日の告白はどうなるのだろう。明莉は迷わず自分を優先してくれるだろうか。それとも、二人の関係そのものが変わってしまうだろうか。考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていった。
橋の手前まで来て、穂乃香は足を止めた。渡れば街の中心に戻る道で、渡らなければ川沿いをもう少し歩き続けられる。橋の欄干には、誰かが結んだらしい古いお守りの紐が、風に揺れていた。穂乃香はしばらくその紐を見つめてから、結局、橋を渡らずに引き返した。
もし今夜、誰かとすれ違って声をかけられたら、自分はどんな顔をしているだろう。ふとそんなことを考えて、穂乃香は少しおかしくなった。誰にも見られていないのに、表情を気にしている自分がいる。それだけ、今日の自分は普段どおりではないということなのだろう。
歩きながら、高校三年の放課後を思い出す。進路希望調査の紙を前に、二人で何度も書き直したことがあった。あの時も、穂乃香は自分の第一志望をなかなか決められず、明莉が隣で「穂乃香の好きな方でいいんだよ」と繰り返し言ってくれた。他人の背中を押すことには迷いがないのに、自分のこととなると、いつも同じところで足踏みしてしまう。その癖は、あの放課後からずっと変わっていないのかもしれない。今日はその逆の役回りを、穂乃香は自分から引き受けている。
アパートに戻る頃には、川沿いを歩いた分だけ、少しだけ気持ちが落ち着いていた。答えは出ていない。それでも、今夜のうちに答えを出す必要はないのだと、穂乃香は自分に言い聞かせた。
告白前日の夜、明莉から電話がかかってきた。時計を見ると、もう十一時を過ぎている。こんな時間にかけてくるのは珍しかった。
「穂乃香、緊張して眠れない」
電話越しの明莉の声は、いつもより少し高かった。穂乃香はベッドに横になったまま、スマートフォンを耳に当て直した。
「わかる。私まで緊張してきた」
「明日、何を話せばいいのかもう頭が真っ白。せっかく考えた言葉も、全部飛びそう」
「大丈夫。紙に書いた通りに言わなくていいよ。気持ちが伝われば、言葉の順番なんて誰も覚えてない」
「穂乃香がそう言うと、なんか本当にそんな気がしてくる」
通話時間を示す数字が、画面の中で少しずつ増えていく。穂乃香は暗い部屋の中で、その青白い光だけを見つめていた。
「もし振られたら、迎えに来てね」
冗談めかした声だったが、穂乃香には、その奥にある本気の不安が伝わってきた。
「行くよ。どこにいても」
その約束を口にした瞬間、穂乃香は自分が何かひとつ、逃げ道を塞いだのを感じた。もしこの先、自分の気持ちを誰かに話す日が来たとしても、この約束をした自分は、もう後戻りできない場所に立っている。振られた明莉を迎えに行くのは、健人を想う自分ではなく、明莉の親友である自分だ。その役割を、穂乃香は今夜、自分の意志で選び直した。窓の外を車のライトが通り過ぎ、天井に細い光の帯を描いて消えた。
「ありがとう。じゃあ、一緒に呼吸数えて。深呼吸すると眠れるって聞いた」
「うん。吸って、四つ数えて、吐いて」
電話の向こうで、明莉の呼吸が少しずつ落ち着いていくのがわかった。穂乃香は自分の呼吸のほうは、あえて数えなかった。今数えてしまったら、そこに何が映るか、自分でも見当がつかなかったからだ。
「ねえ、穂乃香」
「なに」
「ありがとう、本当に。穂乃香がいなかったら、私、健人くんのこと好きになる勇気もなかったと思う」
その言葉に、穂乃香は少しの間、返事ができなかった。天井の照明の光が、やけにまぶしく感じられた。
「大げさだよ、それは」
「大げさじゃない。穂乃香が背中押してくれたから、今の私がいる」
「そんなの、明莉が自分で決めたことだよ。私は少し手伝っただけ」
「その『少し』が、私にはすごく大きかったの」
穂乃香は天井を見上げたまま、しばらく黙っていた。喉の奥に、何か言いたいことが引っかかっている気がしたが、それを言葉にする勇気は、今夜はまだ持てなかった。
「明日、うまくいくといいね」
「うん。応援してくれてありがとう、穂乃香」
電話を切ったあと、穂乃香はしばらくスマートフォンの画面を見つめていた。通話時間の数字が、青白い光の中で止まったままになっている。明日、この街のどこかで、明莉の言葉が健人に届く。そのことを、穂乃香はまだ、素直に喜べる場所に自分を置けずにいた。それでも、電話越しに約束した言葉だけは、明日もきっと守るつもりだった。振られても、成功しても、自分がすることは変わらない。明莉のそばにいること。それだけは、今夜はっきりと決められた。
布団に入っても眠れず、穂乃香は明莉と交わした約束だけを反芻していた。振られたら迎えに行く。その役目を引き受けた自分の声が、耳の奥に残っていた。
明日の二時、兼六園の前で、明莉は健人に想いを伝える。その結果がどちらに転んでも、自分は変わらずそこにいる。そう決めたことだけが、今夜の穂乃香にとって、唯一はっきりとした答えだった。それは満足のいく答えではなかったが、今の自分に出せる精一杯の答えでもあった。眠りに落ちる直前、穂乃香はもう一度だけ、口の中で小さくつぶやいた。
「明日、うまくいきますように」
それが誰のための願いなのか、穂乃香自身にも、もうよくわからなくなっていた。




