第一章:私たちが築いた世界
その日の午前中、明莉は自社の会議室で、新商品の企画書に赤字を入れていた。金沢土産用の焼き菓子シリーズは、来月の展示会に向けて試作の最終段階に入っている。会議室の窓からは、初夏の光を受けた城下町の甍が遠くに見えた。上司の「もっとインパクトを」という一言に、明莉は「はい」とだけ答えてメモを取ったが、内心では、その言葉自体があまりに大きすぎて、どこから手をつければいいのか掴めずにいた。企画とは、伝えたいことを削っていく作業だと思っている。足すことより、削ることのほうが、いつも難しい。
同期の坂本が向かいの席から声をかけてきた。
「明莉、また一人で赤字入れてる。手伝おうか」
「大丈夫。ここは自分でやりたいところだから」
「相変わらずだね」
坂本は苦笑いして自分の作業に戻った。人に任せられないのは頑固さだと言われたこともあるが、明莉は、少なくともこの企画に関しては、最後まで自分の言葉で考え抜きたいと思っていた。
昼休みに入るとき、スマートフォンに穂乃香からのメッセージが届いた。「今日、駅前寄れる? 新作見てほしいのと、相談したいことがある」。相談したいこと、という一文に、明莉は少しだけ引っかかりを覚えたが、すぐに「もちろん、何時でも」と返した。仕事帰りに落ち合う約束をして、午後の予定はそのまま決まった。
金沢駅前のファッションビルは、初夏の午後の光でガラス張りの壁がほんのり白く濁っていた。エスカレーターを上がると、期間限定のアクセサリーブースが目に入る。明莉はここに来るたび、平日の午後にしては人が多いなと思う。観光客らしいキャリーケースの音と、地元の学生らしい制服姿が入り混じって、駅前特有の落ち着かない賑わいを作っていた。
水引ピアスの棚の前で足を止める。金の水引を花の形に結んだものが、天井のライトを受けて小さく揺れていた。値札の裏をひっくり返すと、細い字で「ひとつひとつ結び目の角度が違います」と書かれている。
「これ、見て。作家さんの手書きの説明カードがついてる」
穂乃香が隣から覗きこみ、ラベンダー色のひとつを手に取って耳に当てる。ショートボブの髪の合間から、耳元の色が透けて見えた。
「似合う?」
「それ、試してみて。絶対に似合うから」
穂乃香は鏡に横顔を映しながら、もう一方の耳にも同じ色を当てた。左右そろうと、彼女は満足そうにうなずいた。それから、からかうような笑みを浮かべる。
「明莉が先に決めると、断りにくいんだけどな」
冗談めかした声だったが、明莉は一瞬だけ黙った。穂乃香が「これがいい」と言うより先に、自分が「似合う」と言ってしまう癖を、彼女はときどき自分でも持て余していた。相手の答えを、自分の言葉で先回りして埋めてしまう。仕事でも同じ癖が出ることがあって、企画会議で若手の意見をつい引き取ってしまい、あとで反省することがある。上司には「明莉さんは面倒見がいい」と言われるが、本人としては、相手が自分で言葉を選ぶ時間を奪っているだけのような気がしていた。
「じゃあ聞くね。穂乃香はどっちが好き?」
言い直すと、穂乃香は少し驚いた顔をして、それから声を立てて笑った。
「うーん……両方好き。ずるい答えでごめん」
「ずるくないよ。それが本当の答えなら」
二人分の笑い声が、季節限定の売り場の隅で小さく響いた。金沢駅前を行き交う人の流れは変わらず、遠くでアナウンスの声が一度重なって消えた。結局、穂乃香はどちらも買わずに棚を離れた。
「また来た時に、まだ残ってたら運命だと思う」
「その理屈、いつも都合よく使うよね」
「都合よく使えるものは、使ったほうが得だもん」
棚を離れる前に、穂乃香はもう一度だけ振り返って、水引ピアスの位置を目に焼き付けるように見た。買わなかったものを覚えておくのも、穂乃香なりの筋の通し方らしい。
「今度こそ買うから、覚えておいてね、私が今日買わなかったこと」
「誰に向けて言ってるの、それ」
「未来の自分に」
明莉はその決め方が穂乃香らしいと思いながら、急いで結論を出すより今日はこのままでいいと感じていた。二人でこうして買い物にもならない買い物をするのは、大学時代からの習慣だった。何かを買うことより、迷っている時間そのものを楽しむのが目的のような日が、月に一度くらいある。
駅二階の喫茶スペースに移ると、窓際の席に座る。人の流れが途切れるたび、フロアの奥から小さな水音がした。噴水があるらしい。明莉はバッグから試作品の紙袋を取り出した。柚子の香りがふわりと立つ。勤め先の菓子メーカーで手がけている新商品――金沢土産用の焼き菓子の、包装デザインの試作品だった。
「見てほしいんだけど」
紙袋をテーブルに置くと、穂乃香はコーヒーカップを脇にずらし、両手で袋を持ち上げた。しばらく黙って眺めてから、指先で角のロゴをなぞる。
「三秒で『金沢のお土産』って伝わる?」
穂乃香は答える前に、もう一度紙袋を裏返した。裏面には金箔をイメージした細い線が入っている。
「伝わる。でも、三秒のあとに残るものが少ないかも」
明莉は反論しなかった。企画会議で何度も聞いてきた「もっとインパクトを」という言葉より、穂乃香のひとことのほうがずっと正確に急所を突いていた。仕事の企画書なら、目的と手順を紙の上できれいに分けられる。数字で示せば説得力も出る。けれど「残るもの」というのは、項目には書けない種類のものだった。
「余白、もう少し欲しいってこと?」
「うん。全部言い切らないほうが、あとで思い出す隙間ができる気がする。この線、もう少し細くて途切れてたら、見た人が自分で続きを想像すると思う。ほら、金沢って『足さないことで残ってるもの』が多いじゃない。兼六園の松の剪定だって、切りすぎないのが技術でしょ」
思いがけない例えに、明莉は少し笑った。穂乃香は雑貨サイトの運営をしているだけあって、こういう時の比喩の引き出しが妙に豊富だった。
「その視点、企画書に入れてもいい?」
「いいよ。ただし採用されたらお菓子ひと箱ちょうだい」
明莉はメモ帳を出し、「余白」「足さない技術」と書きつけた。それから、穂乃香の言葉をそのまま書き足そうとして、一度手を止めた。自分の解釈が混ざる前に、聞こえたことをそのまま持ち帰りたかった。穂乃香の言葉には、いつも一拍分の間があった。答えを急がない代わりに、出てきた答えは信頼できた。長く一緒にいるからこそ、明莉はその間合いの意味を、説明されなくても読み取ることができた。
「ありがとう。持ち帰って直してみる」
「頑張って。金沢のお菓子だもん、ちゃんと残るものにしないと」
「穂乃香がうちの会社にいたら、企画通ってると思うんだけどな」
「私、雑貨屋さんのほうが向いてるよ。会議室で座ってるより、画面いじってるほうが落ち着く」
明莉は笑って、試作品の紙袋をバッグに戻した。窓の外では、初夏の日差しが駅前のロータリーを白く照らしていた。
夕方、香林坊にある小さなブックカフェで、穂乃香はノートパソコンを開いていた。運営している雑貨の受注サイトの導線が、また崩れていた。カートに入れたはずの商品が消えるという問い合わせが、朝から三件届いている。隣の椅子には明莉が座り、コーヒーを飲みながら企画会議の愚痴をこぼしている。
「今日の会議、また『とりあえず両方の案で進めよう』って言われて。結局誰も決めないの」
「あ、そうだ。さっき『相談したいことがある』って送ったの、これのことなんだけど」
穂乃香は画面をこちらに向けた。カートのエラー画面が表示されている。明莉は少し拍子抜けした。もっと深刻な話かと身構えていた自分がいたことに、内心で苦笑する。
「大したことじゃなくてごめん。でも誰かに愚痴りたかった」
「ううん、全然。むしろほっとした」
「何それ」
「ううん、こっちの話。それより、見せて」
「私なら全部、前へ進めちゃうのに」
穂乃香はつぶやいて、決済ボタンの位置をひとつ動かした。口では簡単そうに言うが、一度公開したページを何度も戻しては直していることを、明莉は知っていた。穂乃香は、取り消しボタンの場所を確かめてからでなければ、大きな変更には手をつけない。
「戻る道があるから、安心して先へ進める人もいるよ」
明莉が画面を覗きこんでそう言うと、穂乃香は少し黙った。否定する代わりに、画面左上の戻る矢印へ視線を移す。その横顔を見て、明莉は見当違いではなかったらしいと感じた。
「私たち、同じ問題を正反対から見てるんだね」
「うん。だから面白い」
「明莉は先に決めすぎるし、私は決めてから何度も直す。真ん中がいないよね、私たち」
「真ん中がいたら、案外つまらないかもよ」
「それはそう」
穂乃香はキーボードを打つ手を止め、窓の外を見た。夕方の光が本棚の背表紙を撫でていく。いつもならすぐに返ってくる軽口が、今日はなかなか続かなかった。明莉は、その沈黙を急いで埋めず、穂乃香が再び画面へ向き直るのを待った。
カートのバグは、結局その場では直らなかった。「明日また見る」と穂乃香がノートパソコンを閉じると、明莉はコーヒーの残りを飲み干して、「じゃあ、行こうか」と立ち上がった。
その週末、共通の友人・沙織の家で開かれた小さな食事会に、明莉と穂乃香は健人という男を紹介された。沙織の職場の同僚らしい、というくらいの前情報しかなかった。集まったのは六人ほどで、テーブルにはキッシュとバゲット、沙織お手製のラタトゥイユが並んでいた。
「明莉、穂乃香、こちら健人くん。うちの営業部で一番、古い建物の話をすると止まらない人」
沙織の紹介に、健人は少し照れたように会釈した。がっしりした体格に似合わず、話し方は控えめだった。手には飲みかけのビールのグラス。テーブルの隅に置かれた小さなキャンドルの炎が、話すたびに彼の眼鏡に映って揺れた。古い町家をリノベーションして事務所にする仕事をしていると聞いていたが、話しはじめると、彼は自分の仕事の話より、この街そのものについて語るほうが好きらしかった。他の参加者が旅行の話や共通の知人の噂話で盛り上がる中、健人はグラスを傾けながら、あまり自分から話に加わろうとはしない。明莉が「健人さんは金沢の人なんですか」と聞くと、彼は少し考えてから答えた。
「生まれは富山なんですけど、大学からずっとこっちです。もう地元みたいなものですね」
「町家の仕事って、具体的にはどんなことを?」
「古い建物を調べて、どこまで直せてどこから壊れるかを見極める仕事です。図面が残ってないことも多いので、天井裏に潜ったりもします」
「潜るんですか」
「潜ります。埃まみれになりますけど、たまに面白いものが出てくるんですよ。前の住人が隠した手紙とか」
「手紙、読んだんですか」
明莉が聞くと、健人は少し困ったように笑った。
「読みました。宛先のない、ただの日記みたいなものでしたけど。誰かに読まれるとは思っていなかった文章を読むのは、なんだか申し訳ない気持ちにもなります」
「でも、残しておいてよかったと思う手紙もあるでしょう」
「それはあります。だからこそ、簡単には捨てられない仕事なんです」
その話に、テーブルの端にいた穂乃香が身を乗り出した。
「保存とか、そういうのって全部そのまま残すのが正解だと思ってたけど、違うんですか」
「よく言われます。でも僕は、そうは思わないです」
健人は少し姿勢を正して続けた。
「壊さず残すだけじゃ、町は息をできないと思うんです」
健人はそう言って、キッシュの最後の一切れに手を伸ばしかけ、結局取らずに皿を穂乃香のほうへ押した。穂乃香はそれを見て、少し考えるような顔をしてから聞いた。
「じゃあ、新しくする時に何を残すんですか」
健人はすぐには答えなかった。目線をテーブルの木目に落とし、言葉を探すように黙る。数秒の沈黙のあと、彼は小さく笑った。
「難しい質問ですね、それ」
「答えるまで待ちます」
穂乃香が言うと、健人はもう一度考える顔になった。明莉はその沈黙を、気まずさではなく誠実さの表れとして受け取った。急いで答えを出さない人だ、と思った。
沙織が新しいワインを開けに席を立つと、話題は自然と旅行の予定や共通の知人の結婚式の話に移った。健人は聞き役に回り、時折うなずきながら、グラスの中身をゆっくり減らしていた。明莉は隣の穂乃香に小声で聞いた。
「健人さんって、あんまり自分から話さない人だね」
「うん。でも聞かれたことにはちゃんと答える。そういう人、嫌いじゃない」
「私も」
二人はそれ以上その話を続けなかったが、明莉はその短いやり取りを、なぜか少しだけ覚えておこうと思った。
ふと会話が途切れたところで、健人が思い出したように、さっきの問いの続きを話し始めた。
「使う人の癖、かな。動線とか、光の入り方とか。形は変えても、そこにいた人の呼吸みたいなものは残したい。……うまく言えてないな、これ」
「いや、伝わったよ」
穂乃香が小さくうなずいた。その間の取り方に、明莉は好感を持った。三人で長く話したのは、これが初めてだった。会話が途切れても気まずくならない相性の良さを、明莉はどこか嬉しく感じていた。健人は聞き上手で、穂乃香が話し出すと自然と相槌の間を空け、話が途切れそうになると別の角度から質問を差し込んだ。食事会がお開きになる頃には、次はどこかの展示を三人で見に行こうという話にまとまっていた。
「じゃあ、来週末どうですか。21世紀美術館、新しい企画展が始まるはずです」
「行きたい」
明莉と穂乃香がほぼ同時に答え、三人で少し笑った。
翌週の日曜、金沢21世紀美術館の円形の館内で、三人は別々の入口から入り、同じ展示の前で落ち合った。企画展のタイトルは「揺らぎのかたち」。真っ白な展示室の中央に、浅い水を張った台があり、天井から落ちる一滴の水が波紋を広げるたびに、壁面に映った光が形を変える仕掛けだった。誰かが台の縁に触れると、波紋はいびつに歪み、しばらく元の形には戻らない。
「触っていいのかな、これ」
健人が台の縁に指を近づけると、係員がやんわりと首を振った。健人は「ですよね」と苦笑いして手を引っ込めた。水面をテーマにしたインスタレーションの前で、穂乃香が呟いた。
「正解が一つじゃないの、いいよね」
「でも、選んだ理由は聞きたいな」
健人が返すと、穂乃香は自分がなぜその作品の前で足を止めたのかを、たどたどしく説明しはじめた。水の揺らぎが、見る角度によって違う形に見えること。子どもの頃に見た金魚鉢を思い出したこと。誰かが台に触れて波紋が歪んでも、しばらく待てばまた元の静かな水面に戻っていくこと。
「歪んでも、戻る場所があるのがいいなって」
「さっきの受注サイトの話と同じだ」
明莉が指摘すると、穂乃香は「あ、ほんとだ」と自分で驚いた顔をした。無意識のうちに、同じ考え方を作品にも仕事にも当てはめていたらしい。健人はうなずきながら聞いていたが、その相槌の速さが、いつもより少し早いように見えた。決めつけずに見ていたいのに、明莉はいつの間にか、二人の距離を測ろうとしている自分がいることに驚いていた。
「明莉はどう思った?」
穂乃香に聞かれて、明莉は我に返った。
「あ……ごめん、ちゃんと見てなかった。もう一回見てくる」
白い壁に反射する水の揺らぎを、あらためて眺めながら、明莉は自分の内側にある、その落ち着かなさの名前をまだ知らなかった。
美術館に併設されたカフェレストランで、三人は芝生広場を眺めながら遅い昼食をとった。ガラス越しの風に、外の木の枝が揺れている。
「この街には、変わることを急がない強さがある」
健人が言うと、穂乃香がすぐに切り返した。
「急がないのと、決めないのは違うけどね」
「うっ。それ、さっきの受注サイトの話と同じ返しだ」
健人が苦笑いすると、穂乃香は「気づいた?」と得意げに笑った。しばらく三人は、金沢という街の変わり方について話し込んだ。健人は、駅前の再開発と、ひがし茶屋街のような保存地区が同じ市内に共存していることを面白がっていた。
「両極端が近所にあるのって、珍しいと思うんです。普通、街ってどっちかに寄っていくから」
「寄り切らないから、住んでる側は迷うけどね」
穂乃香が言うと、明莉も頷いた。
「うちの会社も似てる。伝統的な意匠を守りたい人と、パッケージを今っぽくしたい人で、いつも意見が割れる」
「じゃあ明莉さんの仕事も、この街の縮図みたいなものですね」
健人にそう言われて、明莉は少し驚いた。今まで自分の仕事をそんなふうに考えたことはなかった。明莉が笑うと、健人もつられて笑った。穂乃香は笑いながら、手元のストローの袋を無意識に細く折りたたんでいた。その仕草を見ていたのは明莉だけだった。
しばらくして、穂乃香は「お手洗い行ってくる」と席を立った。戻ってきた彼女は、冷たい水で手を洗ったのか、指先をハンカチで何度も拭っていた。明莉と健人が展示の感想を話していると、穂乃香はいつもの笑顔で会話に加わった。ただ、その声は席を立つ前よりわずかに低く、明莉には、何かを胸の奥へしまい直してきたように見えた。
「穂乃香、それ何本目?」
「え?」
穂乃香は自分の手元を見て、折りたたんだ紙の束を見つけて笑った。四本あった。
「無意識だった。手が落ち着かなかったのかも」
「緊張することなんてあるの、穂乃香が」
「失礼な。人並みにあるよ」
その言葉を、明莉は軽く聞き流した。だが後になって、この日のことを何度も思い出すことになる。
ふと、中学二年の文化祭の夜がよみがえった。片付けが長引いて、教室に残ったのは明莉と穂乃香の二人だけだった。誰もいない教室で、机を戻しながら他愛もない話をして、それだけのことが妙に記憶に焼き付いている。窓の外はもう暗くて、廊下の電気だけが点いていた。あのとき穂乃香は、クラスの誰かに告白されたことを、机を運びながらぽつりと話した。「断ったんだけどね」と言った声に、今日のストローの袋の折りたたみ方と同じ、落ち着かなさが混じっていたことを、明莉はふいに思い出した。あの時も、穂乃香は今と同じように、何気ない仕草の中に本音を隠す癖があった気がする。あの頃から変わらないものと、今日はじめて見えたものが、同じテーブルの上に並んでいるようだった。
健人と別れたあと、夕方のバス停で、明莉は折り畳み傘の下で穂乃香の腕を軽く取った。少し前に降った雨で、傘の先からまだ雫が落ちていた。バスの到着案内が電光掲示板に流れている。
「ね、健人くんっていい人だよね」
何気ない口調で言ったつもりだった。けれど穂乃香の返事には、いつもよりわずかに長い間があった。
「うん。話しやすい人だと思う」
到着案内のアナウンスが、その一拍を覆い隠すように鳴った。明莉はスマートフォンの画面を伏せ、聞こえた言葉をそのまま受け取ることにした。深い意味を探すのはやめようと思った。次にまた三人で会えばいい。それだけのことだ。
「また誘っていい? 三人で」
「うん、いいよ」
穂乃香の返事は、今度はすぐに返ってきた。それでも明莉の中には、さっきの一拍の記憶だけが、小さな棘のように残った。
バス停の屋根から、まだ小さな雨粒が落ちてくる。明莉は傘を畳みながら、ふと聞いてみたくなった。
「穂乃香は、健人さんみたいな人がタイプなの?」
冗談めかして聞いたつもりだったが、口に出してから、少しだけ踏み込みすぎたかもしれないと思った。穂乃香は一瞬きょとんとした顔をしたあと、笑って明莉の肩を軽く叩いた。
「なにそれ、いきなり」
「いや、なんとなく」
「さあ、どうだろう。まだよくわからない」
その答え方は、いつもの穂乃香らしくなかった。普段の穂乃香なら、好きか嫌いかをもっとはっきり言う。「わからない」という言葉を、明莉はそのまま受け取ることにした。わからないなら、わからないままでいい。今日確かめる必要はない。
バスが来て、二人は並んで乗り込んだ。座席に座ると、穂乃香は窓に頭をもたせかけて目を閉じた。疲れているのかもしれないと明莉は思ったが、それ以上は聞かなかった。
バスに揺られながら、明莉は窓の外を流れる街灯を眺めた。今日一日で増えたのは、健人という新しい知り合いひとりだけのはずだった。それなのに、隣に座る穂乃香との間に、これまでなかった小さな隙間が生まれた気がしてならなかった。理由はまだ、言葉にできなかった。ただ、この隙間を見なかったことにはしたくないと、明莉はぼんやり思っていた。
降りるバス停が近づき、穂乃香が目を開けた。窓に押し付けていた頬に、うっすらと赤い痕がついていた。
「明莉、また来週」
「うん、また。ロゴのラフ、できたら送るね」
「楽しみにしてる」
いつもと変わらない別れの挨拶だった。穂乃香はバスを降りると、傘を差して振り返り、小さく手を振った。明莉も手を振り返す。それでも明莉は、バスの窓越しに小さくなっていく穂乃香の後ろ姿を、いつもより少し長く見送っていた。
その夜、自宅のアパートに戻った明莉は、シャワーを浴びてから、ノートパソコンを開いて企画書の続きに取りかかった。「余白」「足さない技術」――穂乃香の言葉をもとに書き直した一文を、何度か読み返す。企画書の中では、それはただの一行にしかならない。けれど今日聞いた言葉の重さは、一行には収まりきらない気がした。
作業の合間に、スマートフォンが短く震えた。穂乃香からのメッセージだった。
「今日はありがとう。ロゴの相談、真剣に聞いてくれて嬉しかった」
明莉は少し考えてから返信した。
「こっちこそ。健人さんとも、これからよく会うことになりそうだね」
既読はすぐについたが、返信までにいつもより時間がかかった。数分後、ようやく画面に文字が浮かんだ。
「そうだね。楽しみ」
その一文に、明莉は特に違和感を覚えなかった。ただ、既読から返信までの数分間のことを、なぜか覚えておこうと思った。
もう一通、メッセージを送ろうとして、明莉は指を止めた。「健人さんのこと、どう思う?」と聞きかけて、結局その一文は消した。今聞くことではない気がしたし、何より、自分がなぜそれを聞きたいのかが、自分でもよくわからなかった。ただの興味なのか、それとも何か確かめたいことがあるのか。今日一日を思い返しても、答えは出なかった。
明莉はメッセージアプリを閉じ、代わりに企画書のファイルをもう一度開いた。「余白」「足さない技術」――この二つの言葉を軸に、明日の朝一番でパッケージデザインを描き直そうと決めた。仕事のことなら、いつも通りに考えられる。考えられないのは、今日の穂乃香の一拍の間と、健人の答えを探すときの静かな目線と、その両方が、なぜか同じ重さで自分の中に残っていることだった。
理由はわからないまま、明莉はスマートフォンを充電器に繋ぎ、企画書のファイルを保存して、その日を終えた。
明莉は手帳のその日の欄に、「健人さん、21世紀美術館」とだけ書き足した。ペン先を離したあと、隣にはもう一つ名前を書く余白が残っていたが、何も書かずに手帳を閉じた。
明莉は手帳をデスクの端に置くと、ペンのキャップを閉め、電気を消した。




